残響の刃

残響の刃

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第一章 死者の調律

江戸の喧騒は、玄音(げんのん)の耳には一つの巨大な生き物の呼吸のように聞こえた。大八車の軋み、威勢のいい魚売りの声、子供らのはしゃぎ声、そしてその合間を縫うように流れる風の囁き。彼は、それら全ての音を慈しむように拾い集め、記憶の中に仕舞い込む。玄音の生業は「採音師」。失われゆくこの世の音を、後世のために記録する、ただそれだけの仕事だった。

彼は元々、武家の次男であった。しかし、生まれつき鋭敏すぎる聴覚が、刀の打ち合う音や人の怒声に満ちた武士の世界を拒絶させた。家を捨て、流れ着いたこの江戸で、彼は音と生きる道を見出したのだ。

その日、玄音の質素な長屋を訪れたのは、場違いなほどに上等な絹の羽織をまとった武家の使者だった。息が詰まるような白檀の香りを漂わせ、使者は深々と頭を下げた。

「採音師、玄音殿におわしますな。我が主、老中・榊原様より、是非にと頼みたい儀がござる」

榊原家といえば、幕府の中でも権勢を誇る名門だ。そんな大物が、場末の採音師に何の用か。玄音は訝しみながらも、男を座敷に上げた。

「して、ご依頼とは」

「はっ。我が主の嫡男、数馬様が、明朝、不始末の責めを負い、ご自裁なされることと相成りました」

使者は淡々と告げた。その声には何の感情も乗っていない。まるで天気の話でもするかのように。

「つきましては、その最期の儀の音を、玄音殿のお力で記録していただきたい、と。榊原家の武士としての、見事な最期を、音として永遠に留め置きたい、とのご意向にございます」

玄音は息を呑んだ。これまで、祭りの音、職人の技の音、生まれる赤子の産声まで、あらゆる音を記録してきた。しかし、人が自ら命を絶つ音を記録してくれという依頼は、前代未聞だった。死の調律。それはあまりに冒涜的で、悪趣味な響きを持っていた。

「…なぜ、そのようなことを」

「武士の魂は、最期にこそ最も気高く輝くもの。その輝きを、音という形でこそ、真に留めることができる。我が主は、そうお考えなのです」

使者の言葉は理路整然としていたが、玄音の心には冷たい靄のような違和感が立ち込めていた。息子の死を前にして、あまりに冷静すぎる父親の願い。その裏に潜む何かを、鋭敏な耳が感じ取っているのかもしれなかった。

しかし、採音師として、この世のあらゆる音を記録すると決めた以上、断ることはできない。それに、武士が魂を懸けるという「最期の音」とは、一体どのような響きを持つのか。抗いがたい好奇心が、玄音の背中を押した。

「…お受けいたしましょう」

その返事を聞き、使者の顔に初めて微かな笑みが浮かんだ。それはまるで、能面の口元がほんの少しだけ歪んだかのような、不気味な表情だった。

第二章 ありえざる刃鳴り

翌朝、榊原家の屋敷は、しんと静まり返っていた。陽光さえも遠慮するかのように、庭の白砂を淡く照らすのみ。通された一室には、死の匂いが満ちていた。正面に白装束をまとった榊原数馬が静かに座している。まだ若く、涼やかな目元をした青年だったが、その顔には諦念とも覚悟ともつかぬ、氷のような静寂が張り付いていた。彼の後ろには、介錯人となる屈強な武士が、抜き身の太刀を提げて控えている。

玄音は、部屋の隅で息を潜めた。彼の前には、水面が鏡のように静まった水盆が置かれている。彼が考案した記録道具だ。特定の音は水面に固有の波紋を描く。その波紋の形を、特殊な墨で和紙に素早く写し取ることで、音の姿を視覚的に記録するのだ。

老中である父・榊原は、息子の死に顔を見ようともせず、障子の向こうに座している。ただその重い沈黙だけが、圧倒的な権威となって座敷を支配していた。

やがて、数馬が静かに口を開いた。

「…父上。武士としての最期、お見届けくだされ」

声は、震えていなかった。

三方に置かれた短刀を手に取る。白木の台と鞘が擦れる、乾いた音。数馬が切っ先を己の腹に向けた。息を吸う、かすかな音。

次の瞬間、肉を裂く、鈍く湿った音が響いた。ぐ、と数馬の喉から呻きが漏れる。血の匂いが、鉄錆のように鼻をついた。

その刹那、介錯人が動いた。

「御免!」

気合一閃。空気を切り裂き、太刀が振り下ろされる。ヒュッ、という風切り音に続き、骨と肉を断つ轟音が座敷に響き渡った。水盆の水面が激しく揺れ、複雑な波紋が広がっては消えていく。

全ては一瞬だった。玄音は、揺れる水面から一時も目を離さず、震える手で筆を走らせ、その音の形を和紙に写し取った。武士の最期の音。それは、想像を絶するほどに凄絶で、そして悲しい音だった。

長屋に戻った玄音は、記録した和紙を広げ、一人、あの瞬間の音を反芻していた。肉を裂く短刀の音、介錯の轟音、その波紋は記憶と寸分違わぬ形を描いている。彼は目を閉じ、耳の奥に残る残響に意識を集中させた。

その時だった。

おかしい。何かが、おかしい。

何度も、何度も、頭の中で音を再生する。介錯の太刀が振り下ろされる、まさにその直前。轟音のすぐ手前に、何か別の音が混じっている。

それは、あまりに微かで、鋭い音。

まるで、濡れた絹を薄い刃で切り裂いたかのような…『キィン』という、ごく短い金属音。

切腹の儀において、鳴るはずのない音だ。短刀はすでに腹に突き立てられている。介錯の太刀はまだ振り下ろされていない。では、この音は一体どこから?

玄音は和紙に描かれた波紋を凝視した。介錯の大きな波紋の、ほんの僅か手前に、確かに、小さく鋭い棘のような波紋が記録されている。それは、偶然生まれた雑音ではない。明確な意思を持って鳴らされた、第三の刃の音だった。

背筋を冷たい汗が伝う。あれは、ただの切腹ではなかったのではないか。

あの静まり返った座敷で、この微かな音の違和感に気づいたのは、おそらくこの世で自分一人だけだろう。記録してしまったからこそ、分かってしまった真実の欠片。玄音は、自分がとてつもなく危険な秘密の入り口に立っていることを悟った。

第三章 囁く証拠

玄音の心は揺れていた。ただの採音師である自分が、天下の榊原家の秘密に首を突っ込むなど、蟷螂の斧に等しい。見なかったことに、聞こえなかったことにして、この音の記録を闇に葬るのが賢明な選択だろう。しかし、彼の耳は、あのありえない刃鳴りを忘れることができなかった。それは、死んだ数馬からの声なき叫びのように、玄音の内で鳴り響き続けていた。

これまで彼は、音の世界の傍観者だった。人の営みを、ただ記録するだけ。しかし、この音は違う。この音は、彼に行動を求めている。

数日後、玄音は意を決して、榊原家を再び訪れた。老中に面会を求め、あの音の記録を見せた。

「老中様。介錯の直前、このような異音が記録されておりました。これは一体…」

榊原は、和紙を一瞥すると、鼻で笑った。

「たわけたことを。お主の耳が狂っておるか、道具が壊れておるか、いずれかであろう。息子の最期を穢すような妄言、二度と口にするでないわ」

冷たく突き放され、玄音は屋敷を追い返された。権力の壁は、想像以上に厚く、冷たかった。

だが、玄音は諦めきれなかった。彼は別の糸口を探し始めた。数馬には、許嫁がいたという。町医者の娘で、名を小夜(さよ)といった。身分の違いから、榊原家からは快く思われていなかったらしい。玄音は、彼女なら何か知っているかもしれないと、藁にもすがる思いで彼女の元を訪れた。

小夜は、憔悴しきってはいたが、気丈な瞳をした女性だった。玄音から話を聞くと、彼女はわなわなと唇を震わせた。

「やはり…。数馬様が、あのような不始末で自ら命を絶つなど、信じられませんでした」

小夜が語った事実は、衝撃的だった。数馬は正義感の強い男で、藩が関わる大きな不正の証拠を掴み、それを公にしようとしていたという。

「数馬様は、父君である老中様にさえ、そのことを打ち明けておられました。きっと、父君ならわかってくださると信じて…」

その言葉に、玄音の中で全ての点が線で結ばれた。

不正の告発。家の名誉に泥を塗る息子の行動。それを阻止するための、口封じ。

「…暗殺」

玄音の口から、無意識に言葉が漏れた。

そう、あれは暗殺だったのだ。切腹という、武士の名誉ある死に偽装した、完璧な暗殺。介錯人が太刀を振り下ろすその一瞬、轟音に紛れて、袖に隠した小刀で数馬の喉を掻き切り、とどめを刺したのだ。介錯という大義名分があれば、誰もその一瞬の動きを咎めはしない。切腹の作法と介錯の轟音、その二つが、暗殺の音を隠すための壮大な仕掛けだった。

そして、その計画を立てたのは、息子の告発を恐れ、家の体面を守ろうとした実の父親、老中・榊原本人に違いない。息子の最期の音を記録させようという奇妙な依頼も、自らの計画の完璧さを確認し、酔いしれるための、歪んだ自己満足だったのかもしれない。

世界でただ一人、異常な聴覚を持つ採音師の存在を計算に入れていなかったことだけが、彼の唯一の誤算だった。

玄音は、音の記録者から、真実の告発者へと変わることを余儀なくされた。彼の仕事は、もはや単なる記録ではない。音の裏に潜む、人の魂の叫びを掬い上げることなのだと、彼は痛感していた。

第四章 音の裁き

証拠は、玄音の手の中にある一枚の和紙だけだ。これを奉行所に突き出したところで、榊原家の権力の前では揉み消されるのが関の山だろう。玄音自身も、口封じに遭うかもしれない。力でねじ伏せようとすれば、こちらが潰されるだけだ。

数日、玄音は長屋に籠り、考え続けた。彼の武器は、権力でも腕力でもない。「音」そのものだ。ならば、音で裁きを下すことはできないだろうか。

ある晩、玄音は江戸で最も口のうまい瓦版屋と、人気の怪談噺の語り部を密かに呼び寄せた。彼は金子を渡し、一つの奇妙な話を依頼した。

「これは、ある高名な武家で起きた、世にも不思議な話として広めていただきたい」

玄音は、事件の核心には触れなかった。ただ、こう語った。

「その武家では、名誉の自決を遂げた若様の儀式の際、鳴るはずのない『第三の刃鳴り』が聞こえたそうな。それはまるで、若様の無念の魂が、刀となって鳴ったかのようであった、と。その日以来、屋敷では夜な夜な、キィン、という鋭い金属音が響き渡り、主は夜も眠れぬ日々を送っているとか…」

話は、尾ひれがついて瞬く間に江戸中に広まった。人々は、榊原家の名前こそ出さないものの、「切腹の儀で聞こえた幽霊の刃鳴り」の噂に夢中になった。それは直接的な告発ではない。しかし、人の心に植え付けられた疑念の種は、噂という水を吸って静かに、しかし確実に育っていく。

榊原家の威光は、目に見えて翳り始めた。「不吉な屋敷」「祟られた家」と陰で囁かれ、訪れる者も減っていった。老中・榊原は、噂を力で押さえつけようとしたが、実体のない音の怪談は、捕らえることも斬り捨てることもできなかった。彼が最も恐れたのは、世間の目ではなく、自らの内に響く幻聴だっただろう。完全犯罪を成し遂げたはずの彼の耳にこそ、あの微かな金属音が昼も夜も鳴り響いているに違いなかった。それは、玄音が与えた、音による永遠の拷問だった。

裁きは下された。法によってではなく、音によって。

玄音は、それからもの採音師として生き続けた。しかし、彼の耳が拾う音は、以前とは少しだけ違って聞こえた。

彼は、江戸の喧騒の中に、新たな音を探していた。赤子の産声、恋人たちの囁き、職人たちの誇らしげな槌音、祭囃子に心を躍らせる人々の笑い声。死の音ではなく、生命の息吹に満ちた、温かい音。

彼はそれらの音を、一枚一枚、慈しむように和紙に写し取っていく。

音は、時に真実を暴き、人を裁く刃となる。だが、音はまた、人の営みを祝福し、未来へと繋ぐ希望の調べでもあるのだ。

風が吹き抜け、軒先の風鈴がちりんと鳴った。玄音は筆を止め、その澄んだ響きに静かに耳を傾ける。彼の心にもまた、穏やかな音が戻ってきていた。

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