残照の刃(ざんしょうのやいば)

残照の刃(ざんしょうのやいば)

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第一章 雨夜の絡繰り

鞘から僅かに覗く白刃のように、冷たい秋雨が江戸の町を濡らしていた。橘清十郎(たちばなせいじゅうろう)は、寺子屋の軒下で腕を組み、音もなく降り続く雨を眺めていた。かつては一廉の武士として藩に仕えた身も、今では筆子(ふでこ)たちに手習いを教える浪人の一人。墨の匂いと子供らの賑やかな声が、血の匂いと刃鳴りの記憶を遠ざけてくれる。それで良いと、清十郎は思っていた。己の剣は、とうに錆びついたのだと。

その静寂を破ったのは、息を切らした小さな影だった。戸板を叩くか細い音に振り向けば、そこにはずぶ濡れの少女が立っていた。年は十にも満たないだろうか。抱えた風呂敷包みを守るように、震えている。

「先生……お願いが、ございます」

少女は名を千代と名乗った。その切羽詰まった瞳に、清十郎は僅かに眉をひそめる。面倒事はご免だった。

「所詮は浪人の手習い所だ。込み入った頼みなら、然るべき場所へ行くがいい」

冷たく突き放そうとした清十郎の言葉を、少女が風呂敷を解いて遮った。現れたのは、一体の絡繰り人形だった。子供の玩具とは到底思えぬ、精緻な作り。着物の柄、結われた髪の一筋に至るまで、まるで命が宿っているかのようだ。

千代が人形の背に触れると、人形は滑らかに立ち上がり、優雅に一礼した。その動きは、糸で操られているとは思えぬほど自然で、どこか妖しい美しささえ湛えている。

「父が、攫われました」千代の声が震えた。「腕の良い絡繰り師で……昨夜、見知らぬ武士たちが家に押し入って。父は私を隠し、この子を託して言いました。『もしものことがあれば、この子が道しるべになる』と」

清十郎は黙って人形を見つめた。確かに見事な出来栄えだ。だが、それがどう道しるべになるというのか。訝しむ清十郎に、千代は人形の背中を指し示した。着物の合わせの、僅かな隙間。そこには、掌に収まるほどの小さな家紋が、黒漆で描かれていた。

息が、止まった。

桐の葉を三つ、組み合わせたその紋は、清十郎が己の魂と共に捨てたはずの、かつて仕えた相馬藩の紋章だった。

雨音が一層強く、耳の奥で鳴り響く。錆びついたはずの過去が、小さな絡繰り人形の手によって、無理矢理にこじ開けられようとしていた。

第二章 凍てついた絆

清十郎は、千代の頼みを引き受けざるを得なかった。藩の紋章が関わっている以上、知らぬ存ぜぬでは通せない。何より、千代の瞳の奥に揺れる炎が、とうに忘れたはずの使命感を、心の奥底で燻らせたのだ。

千代の父、源内は、江戸でも指折りの絡繰り師だったという。清十郎は、かつての藩邸があった場所や、藩の御用達だった商人を訪ね歩いた。しかし、誰もが口を噤み、あるいは胡散臭げな視線を向けるだけだった。藩は数年前に取り潰され、今やその名を口にする者さえ少ない。清十郎の存在は、忘れられた過去の亡霊でしかなかった。

「先生、父は見つかりますか」

寺子屋で帰りを待つ千代が、不安げに問う。その傍らでは、絡繰り人形が静かに座っている。清十郎は答えに窮し、無愛想に茶をすするだけだった。だが、千代はそんな清十郎に懐き、かいがいしく身の回りの世話を焼いた。墨をすり、筆を洗い、時には覚えたての文字で拙い手紙を書いて机に置いた。

その健気な姿に、清十郎は病で失った幼い娘の面影を重ねていた。守れなかった命。己の無力さを呪い、剣を捨て、心を閉ざすきっかけとなった苦い記憶。千代と過ごすうちに、清十郎の心に張っていた氷が、少しずつ、音を立てて溶け出していくのを感じていた。

手掛かりは、人形そのものにしかなかった。清十郎は夜ごと人形を分解し、その内部構造を調べた。歯車の一つ一つ、組み合わされた竹籤の一本一本に、源内の超絶的な技巧が凝縮されている。そして、人形の胴体の最も奥深い部分に、和紙で包まれた小さな竹筒を見つけた。

中には、暗号めいた図面と、一人の武士の名が記されていた。

『榊原一心(さかきばらいっしん)』

その名を見た瞬間、清十郎の全身を凄まじい衝撃が貫いた。血の気が引き、指先が冷たくなる。

榊原一心。

かつて、清十郎が唯一無二の親友と呼び、剣の腕を競い合った男。そして、藩主の不正を正そうとした清十郎を裏切り、彼を奈落の底へ突き落とした男の名だった。

第三章 真実の刃

憎悪が、炎となって清十郎の胸を焼いた。あの男が、今また俺の前に現れるというのか。榊原は藩が取り潰された後、その剣腕を買われ、幕府の要職に就いたと風の噂に聞いていた。源内を攫い、その技術を己の栄達のために利用しようとしているに違いない。

全ての辻褄が合った。清十郎は、怒りに身を任せ、榊原の屋敷へと向かった。降りしきる雨が、まるであの日の再現のようだった。友に裏切られ、藩を追われた、あの絶望の夜の雨だ。

「榊原一心! 清十郎だ、ここにおわすは分かっておるぞ!」

屋敷の前で叫ぶと、門が静かに開かれ、榊原が姿を現した。歳を重ねてはいるが、その涼やかな目元と、隙のない立ち姿は昔のままだ。

「……やはり、来たか」

榊原は静かに言った。その声には、懐かしむ響きも、驚く色もない。ただ、深い諦観が滲んでいた。

「源内殿をどこへやった! 貴様の野心のために、また無辜の民を利用するのか!」

「野心、か。そう見えるだろうな、お前の目には」

榊原は自嘲気味に笑い、清十郎を屋敷の奥へと誘った。案内された一室には、痩せてはいるが、穏やかな表情の源内が座っていた。そして、彼の傍らには、設計途中の新たな絡繰りの部品が並んでいる。

「橘殿、娘は……千代は息災ですかな」

源内の言葉に、清十郎は混乱した。監禁されているにしては、あまりに落ち着き払っている。

「清十郎、お前に話さねばならぬことがある」

榊原が、重い口を開いた。

「源内殿を攫ったのは、この私だ。だが、それは彼を『守る』ためだ」

榊原が語り始めた真実は、清十郎の想像を、そして彼の信じてきた世界そのものを根底から覆すものだった。

あの事件の日。藩主の不正を暴こうとした清十郎の動きは、藩の重臣たちに筒抜けだった。彼らこそが、藩主を操り私腹を肥やす黒幕だったのだ。そして彼らは、源内の絡繰り技術を戦に転用し、より大きな力を得ようと画策していた。榊原は、その陰謀を阻止するため、敢えて重臣たちの懐に飛び込んだ。清十郎を裏切ったように見せかけ、藩から追放させたのも、激情家の彼をこの危険な陰謀から遠ざけ、その命を守るための苦渋の策だったのだ。

「お前を巻き込みたくなかった。友を……失いたくはなかったのだ」

憎しみの対象だったはずの親友の口から紡がれる、衝撃の告白。清十郎の中で、信じてきたものが音を立てて崩れていく。長年抱き続けた憎しみは行き場を失い、代わりに己の不明を恥じる念と、友の苦しみを知らなかった後悔が、濁流となって押し寄せた。

榊原はずっと一人で、藩の残党という巨大な敵と戦い続けていたのだ。

第四章 残照に誓う

「今夜、奴らが動く」榊原は地図を広げた。「この屋敷の場所も嗅ぎつけられた。源内殿を奪いに来るだろう。……清十郎、もう一度、俺に背中を預けてはくれぬか」

榊原の目に、昔と同じ、悪戯っぽい光が宿った。清十郎は、鞘に収まったままの刀に手をかけた。錆びついたはずの刀。だが、今なら振るえる。守るべきもののために。友のために。そして、千代の笑顔のために。

「問答無用」

短く応えると、二人は頷き合った。言葉は、もはや不要だった。

その夜、屋敷は戦場と化した。藩の残党たちが、闇に紛れて押し寄せる。清十郎と榊原は、背中合わせに立ち、押し寄せる刃の波を迎え撃った。

「腕は鈍っておらぬようだな、清十郎!」

「お前こそ、出世の道で剣を忘れたかと思ったぞ!」

軽口を叩き合いながら、二人の剣は冴え渡る。清十郎の剣は、迷いを振り払ったことで、かつての鋭さを取り戻していた。守るべきものがある剣は、強い。斬るためではなく、生かすための剣。その意味を、彼はこの土壇場でようやく悟ったのだ。

激闘の末、敵は掃討された。だが、勝利の代償は大きかった。榊原が、深手を負って崩れ落ちる。駆け寄る清十郎の腕の中で、彼の呼吸は次第に浅くなっていった。

「清十郎……お前が生きていてくれた……それだけで、俺の人生は、勝ち戦だった……」

「馬鹿を言うな! これからだろうが! 俺とお前で……!」

榊原は、穏やかに首を振った。「千代殿に……良い父御を……返してやれ……」

それが、友の最後の言葉だった。

数ヶ月後。江戸の空は高く澄み渡り、寺子屋には子供たちの朗らかな声が響いている。その中心には、父の元に戻った千代の笑顔があった。源内が清十郎への礼として作った新しい絡繰り人形が、子供たちの間をユーモラスに歩き回り、笑いを誘っている。

清十郎は縁側に座り、榊原の形見となった刀を、布で静かに拭っていた。彼の表情に、かつての刺々しい影はない。深い悲しみを湛えながらも、その眼差しは穏やかに、未来を見据えていた。

友が命を賭して守った「今」を、自分は生きていかねばならない。この子供たちの笑顔が絶えぬ世を、作っていくために。剣を振るう意味は、誰かを斬り伏せることではない。誰かの明日を、守り抜くことにある。

夕焼けが、空と江戸の町を茜色に染め上げていく。その残照の光の中で、清十郎は、今は亡き親友の、誇らしげな笑顔を見た気がした。

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