***第一章 沈黙の染み***
灰田湊(はいだみなと)の仕事は、嘘を掃除することだった。
この世界では、人が嘘をつくと、その場に黒い染みができる。それは「影」と呼ばれ、コールタールのように粘つき、インクと埃の混じったような不快な匂いを放った。小さな見栄やごまかしは掌サイズの染みとなり、数時間もすれば自然に蒸発する。しかし、悪意に満ちた嘘や、多くの人々を欺くための嘘は、部屋を埋め尽くすほどの巨大な澱となってこびりつき、専門の清掃員でなければ除去できない。湊は、そんな「シェード・スイーパー」の一人だった。
「今回の案件は、これです」
タブレットに表示されたのは、煤けたアパートの一室の写真。床、壁、天井に至るまで、まるで内側から黒いペンキをぶちまけたように、濃密な「影」で覆い尽くされていた。依頼内容は、特殊清掃。この部屋で老人が孤独死し、その後に発見されたのだという。
「孤独死現場の影は厄介だぞ」
同僚の言葉が頭をよぎる。絶望や後悔、自己欺瞞。そういった負の感情が凝縮した影は、しつこく、そして重い。湊は防護服のジッパーを首元まで引き上げ、特殊溶剤の噴霧器を背負った。湿っぽいコンクリートの階段を上り、目的の部屋の前に立つ。鉄製のドアノブは、ひどく冷たかった。
鍵を開け、中へ一歩足を踏み入れた瞬間、湊は息を呑んだ。
空気が、重い。写真で見た以上の、圧倒的な黒がそこにあった。だが、何かが違う。いつもの現場に充満している、嘘特有のざわめきが一切ないのだ。通常、影は無数の声の残響のように、微かな不協和音を発し続ける。しかし、この部屋の影は、深海のように、あるいは宇宙空間のように、完璧に「沈黙」していた。
それは、湊がこの仕事についてから一度も経験したことのない、異質な影だった。粘つく黒は、まるで音を吸収する暗幕のように、湊の立てる物音すら飲み込んでいく。壁に染み付いた影に指先で触れてみると、氷のような冷たさとともに、言葉にならないほどの深い孤独感が皮膚から染み込んでくるようだった。これは一体、どんな嘘なのだ? どんな巨大な偽りが、これほど静かで、これほど重い澱を生み出すというのか。
湊の心に、プロとしての好奇心と、人間としての微かな恐怖が同時に芽生えた。この沈黙の染みは、ただの孤独死した老人の嘘ではない。もっと根源的な、何か巨大な謎を隠している。彼は噴霧器のノズルを握りしめながら、その静寂の闇の奥を、じっと見つめていた。
***第二章 澱んだ記憶***
清掃作業は困難を極めた。標準的な溶剤を噴霧しても、影はびくともしない。まるで黒いエナメル塗料のように表面で弾かれてしまう。湊は濃度を上げた特殊溶剤に切り替え、少しずつ影を削り取るように作業を進めた。影が溶解するたびに、ツンとした化学的な臭気とともに、古い紙とインクの匂いが立ち上った。
部屋の隅に、影に飲み込まれかけていた木製の机があった。湊がその周辺の影を慎重に剥がしていくと、引き出しの中から一冊の古びたノートが現れた。表紙は湿気でよれ、文字は滲んでいたが、かろうじて「取材手帳」という言葉が読み取れた。
依頼主である老人の遠縁の親族は、「変わり者で、ほとんど誰とも付き合いはなかった」とだけ言っていた。だが、この手帳は、老人がかつて違う人生を送っていたことを示唆していた。湊は手袋をはめた指で、固着したページを慎重にめくった。
そこに記されていたのは、ある大手製薬会社「エヴァーライフ製薬」に関する調査記録だった。新薬の臨床試験データ改竄、そして重篤な副作用の隠蔽。ノートには、内部告発者と思われる人物のイニシャル、隠された会合の場所、そして改竄前のデータと思われる数値が、震えるような筆跡でびっしりと書き込まれていた。老人の名は、片桐聡。かつては真実を追うジャーナリストだったのだ。
湊はスマートフォンで片桐聡の名を検索した。数件ヒットした古い記事は、彼がエヴァーライフ製薬に関する「捏造記事」を発表し、名誉毀損で訴えられ、業界を追放されたという内容だった。社会は彼を「嘘つき」だと断罪し、彼の告発は闇に葬られていた。
湊は改めて部屋の影を見渡した。この巨大な沈黙の澱は、片桐が社会に拒絶され、自らの正義を嘘で塗り固めて生きてきた結果なのだろうか。真実を訴え続けた男が、最後には嘘の塊の中で死んでいく。その皮肉に、湊はやりきれない思いを抱いた。
しかし、腑に落ちない点があった。自己欺瞞や後悔が生む影は、もっと感情的で、耳障りなノイズを発するはずだ。この部屋の影は、あまりにも静かで、客観的で、そして揺るぎない。まるで、一つの「確定した事実」のように、そこに存在している。
湊は清掃の手を止め、ノートを再び開いた。最後のページに、力なく、しかしはっきりとした文字でこう書かれていた。
「真実は、重い。だが、嘘はもっと重い。世界が、私に嘘をついている」
その言葉を読んだ瞬間、湊の背筋を冷たいものが走った。世界が、嘘をついている?
湊のシニカルな世界観が、足元から静かに揺らぎ始めるのを感じていた。彼はただの清掃員だ。嘘の残骸を片付けるだけの。だが、今、彼は自分が立っている場所が、単なる汚れの上ではなく、葬られた真実の墓標の上であるような気がしてならなかった。
***第三章 反転する真実***
湊は数日間、片桐の部屋に通い続けた。清掃作業という名目で、彼は影そのものを調査し始めた。特殊なセンサーで影の密度と成分を分析すると、驚くべき結果が出た。この影は、単一の人間から発生したものではない。構成する嘘の「声紋」が、無数に、それこそ何万、何十万と検出されたのだ。
それはありえないことだった。影は、嘘をついた本人と場所に紐づけられる。この部屋で嘘をついたのは、基本的に片桐聡一人のはずだ。なのに、なぜこれほど多くの人間の嘘の痕跡があるのか。
湊は、片桐のノートにあった「世界が、私に嘘をついている」という言葉を思い出していた。まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。だが、目の前のデータと、この部屋を支配する異様な沈黙が、その「まさか」を指し示していた。
彼は仮説を立てた。もし、この影が、片桐聡がついた嘘ではないとしたら?
湊は機材を持ち込み、影の最も濃い部分からコアサンプルを採取した。それは違法行為に限りなく近い、彼のキャリアを賭けた行動だった。会社のラボにデータを送れば、すぐに異常が検知されてしまう。彼は古い知人である、裏社会のデータ解析屋に連絡を取った。
「面白いサンプルだな」数時間後、解析屋から暗号化された通信が入った。「こいつは、一人の人間が吐いた嘘じゃない。大勢の人間の『認識』が作り出した影だ」
解析屋の言葉が、湊の脳内で雷鳴のように響いた。
「どういうことだ?」
「分かりやすく言えば、こうだ。片桐聡という男が『真実』を語った。だが、社会が、メディアが、人々が、寄って集って『それは嘘だ』と断じた。その無数の『断罪』、つまり『片桐は嘘つきだ』という社会全体の巨大な嘘が、影となって真実を語った本人に降り積もり、彼をこの部屋に塗り込めたんだ」
反転。世界が、反転した。
湊が今まで掃除してきたものは、何だったのか。個人の罪や欺瞞の残滓だと思っていた。だが、違った。この沈黙の影は、社会という巨大なシステムが、自らの都合の悪い真実を抹殺するために生み出した、集合的な悪意の結晶だった。人々が片桐の告発に耳を貸さず、無関心でやり過ごし、あるいは積極的に彼を嘘つきだと嘲笑した、その一つ一つの「声なき嘘」が、この静かで重い澱を形成していたのだ。
湊は愕然として、黒く塗り込められた部屋の中央に立ち尽くした。片桐聡は嘘つきではなかった。彼は真実の重みに耐え、そして、世界中から浴びせられた「嘘」の重みによって、物理的に圧殺されたのだ。
今まで感じていた、影に対するうんざりした感情が、まったく別のものに変わっていく。それは、静かで、しかし燃えるような怒りだった。シェード・スイーパーの仕事は、嘘を消し、世界を綺麗にすること。だが、この影を消すことは、社会が犯した巨大な罪を隠蔽し、片桐聡という一人の人間の真実を永遠に葬り去ることに他ならない。
自分の仕事の根幹が、価値観が、根底から覆された。
「俺は……何をしてきたんだ?」
湊の呟きは、音を吸い込む沈黙の影の中に、虚しく消えた。
***第四章 夜明けの黒***
決断の時は、すぐに来た。
会社からは、作業の遅延を咎める連絡が入り、最終的な清掃期限が通告された。このまま影を消し去れば、湊は優秀なスイーパーとして日常に戻れる。だが、彼の内面は、もはや以前の彼ではなかった。あの澱んだ記憶と、反転した真実に触れてしまったのだ。
湊は、清掃道具ではなく、データ抽出用の特殊機材を部屋に運び込んだ。違法な機材だ。見つかればライセンスを剥奪され、二度とこの仕事には戻れないだろう。だが、彼に迷いはなかった。
彼は影のコアに、針のようなプローブを突き立てた。機械が低い唸りを上げ、モニターにノイズ混じりの情報が流れ始める。それは、影に込められた無数の「嘘」の奥底に封印されていた、片桐聡が掴んだ「真実」の断片だった。エヴァーライフ製薬の、改竄される前の臨床データ。副作用に苦しむ被害者の声。そして、それを隠蔽しようとする権力者たちの会話の記録。
データ抽出は、魂を削るような作業だった。影は抵抗するように、湊の精神に直接干渉してきた。無数の人々の嘲笑や無関心が、冷たい奔流となって彼の意識を苛む。
「余計なことをするな」
「真実など、誰も望んでいない」
「お前も、俺たちと同じ共犯者になれ」
幻聴が脳内に響く。だが、湊は歯を食いしばり、耐えた。モニターの進捗バーがゆっくりと、しかし確実に100%に近づいていく。
全てのデータの抽出を終えた時、窓の外は白み始めていた。
湊はアパートを後にし、夜明け前の街を歩いた。そして、一つのネットカフェに入ると、抽出した全てのデータを、暗号化して複数の大手メディアと告発サイトに一斉送信した。送信ボタンを押した指は、かすかに震えていた。
自分の部屋に戻り、湊は窓から街を見下ろした。ニュースサイトが、サーバーダウンしそうな勢いで更新されていく。エヴァーLIFE製薬、データ改竄、内部告発。世界が、ゆっくりと動き出す気配がした。
その時だった。
街のあちこちで、黒い染みが噴出し始めた。エヴァーLIFE製薬の本社ビルから、政府機関の庁舎から、大手メディアの社屋から。今まで巧妙に隠蔽され、取り繕われてきた巨大な嘘が、真実の光に炙り出され、一斉に「影」となって溢れ出したのだ。街は、みるみるうちに黒い澱に覆われていく。それはまるで、夜がもう一度訪れたかのような、絶望的な光景だった。
人々はパニックに陥り、街は混沌に包まれるだろう。これから、もっとひどい混乱が待っているに違いない。
だが、その黒く染まっていく街を眺める湊の心は、不思議なほど静かだった。
彼は、自分が解放したものが、単なるスキャンダルではないことを知っていた。それは、社会が目を背けてきた、嘘の総量だ。人々は、自分たちが生み出した影と、これから向き合わなければならない。
彼の仕事は、終わったのかもしれない。そして、ここから始まるのかもしれない。嘘を消すだけの仕事から、真実を浮かび上がらせるための仕事へ。シニカルな笑みを浮かべることが癖だった彼の口元に、今は確かな意志を秘めた、微かな光が宿っていた。
夜明けの光と、嘘が作り出す黒が混じり合う街。その混沌の始まりを見つめながら、湊は静かに呟いた。
「さあ、掃除の時間だ」
シェード・スイーパーと沈黙の澱
文字サイズ:
この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?
あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。
0 / 200
本日、あと3回