第一章 歪んだ天秤
結城湊(ゆうきみなと)の仕事場は、静寂と秩序で満たされていた。壁一面に広がるモニターには、無数の数字とグラフが絶え間なく明滅している。それらは、この社会を支配する絶対的な指標──「共感スコア」の奔流だ。人々は生まれながらにしてこのスコアを与えられ、その数値が就職、医療、住居、果ては人間関係に至るまで、人生のあらゆる局面を左右する。湊は、その神聖不可侵な数値を裏側から書き換える、闇の調律師(チューナー)だった。
彼の指先がキーボードの上を滑る。クライアントは、次期市長選への出馬を狙う現役の市議会議員。スキャンダルで急落した彼のスコアを、告示日までに「信頼されるリーダー」の基準値である85.0以上に戻すのが今回の依頼だ。湊は、彼の過去の善行データを増幅させ、ネガティブな言動の因果関係を希釈し、仮想空間上の共感の指向性を巧みに誘導する。まるで存在しない交響曲を指揮するように、彼は数字を操った。数時間後、市議のスコアは85.2を指し示し、湊の口座には匿名で高額の報酬が振り込まれた。
「共感なんて、結局は買えるのさ」
冷めたコーヒーを一口すすり、湊はモニターに映る自分の顔を眺めた。感情の読めない、空っぽな瞳。彼にとって共感とは、解析と操作の対象でしかない。妹の彩音がこのスコアのせいで死んでから、ずっとそうだった。低いスコアが故に高度医療の優先順位を下げられ、助かるはずの命を失ったあの日から、湊の世界から色彩は消え、すべてが白黒のデータに見えるようになった。このシステムへの復讐こそが、彼の唯一の存在理由だった。
そんな彼の日常を揺るがす依頼が舞い込んだのは、その翌日のことだった。暗号化された通信回線越しに聞こえてきたのは、しわがれた、しかし芯の通った老婆の声だった。
『私のスコアを、下げていただきたいのです』
湊は思わずキーボードを打つ手を止めた。聞き間違いかと思った。スコアを上げる依頼なら掃いて捨てるほどある。しかし、下げる? 社会的な死を意味する行為を、金で買う人間がいるというのか。
『……ご冗談でしょう。依頼内容をもう一度』
『聞こえませんでしたか? 私の共感スコアを、現在測定されている62.4から、可能な限り低く。できれば、社会生活困難とされる20.0以下に。報酬は、あなたの言い値で結構です』
その声には、狂気も、自暴自棄も感じられなかった。ただ、静かで、揺るぎない決意だけがそこにあった。湊のモニターに、依頼主の簡素なプロフィールが映し出される。藤代ミヤコ、78歳。年金暮らし。特筆すべき経歴も、犯罪歴もない、ごく平凡な老婆。
なぜ、彼女は自ら奈落へ落ちようとしているのか。湊の心に、初めて解析不能なノイズが走った。それは、彼の秩序だった世界を覆す、不協和音の始まりだった。
第二章 善意のプリズム
好奇心と、何より提示された破格の報酬に抗えず、湊は依頼を引き受けた。ただし、条件をつけた。直接会って、依頼の真意を聞くこと。ミヤコはそれをあっさりと受け入れた。
彼女が住んでいたのは、再開発の波から取り残されたような古い木造アパートの一室だった。ドアを開けると、陽光が差し込むこぢんまりとした部屋に、古書の匂いと、微かに煎茶の香りが満ちていた。壁には色褪せた家族写真。穏やかに笑うミヤコと、その隣に立つ、人の良さそうな夫らしき男性。
「まあ、こんな汚いところまで。どうぞ、お上がりなさい」
ミヤコは、湊が無機質なデータの世界でしか見たことのない、「本物の」笑顔で彼を迎えた。彼女の共感スコアは62.4。平均的な市民のそれだ。高くも低くもない、誰の記憶にも残らないような数字。
「なぜ、スコアを下げたいのですか」
湊が単刀直入に問うと、ミヤコは湯気の立つ茶を差し出しながら、静かに言った。
「この数字が、私から大切なものを奪っていくからです」
彼女はぽつりぽつりと語り始めた。近所の子供たちに昔話を読み聞かせすれば、スコアが上がる。道端のゴミを拾えば、スコアが上がる。誰かの相談に乗れば、またスコアが上がる。人々は彼女の行為そのものではなく、変動するスコアを見て彼女を「良い人」だと判断するようになった。かつては当たり前だった人の温もりが、「スコアを上げるための行為」というフィルター越しに見られるようになったのだという。
「私はね、数字として褒められたいわけじゃないんです。ただ、藤代ミヤコとして、誰かの隣にいたいだけなのに」
その瞳には、深い哀しみが宿っていた。湊は彼女の話を半信半疑で聞いていた。そんな曖昧な理由で、人生を捨てるというのか。彼は、妹の彩音を思い出した。スコアが低いために、誰からも「共感」されず、見捨てられた妹。ミヤコの悩みは、あまりに贅沢で、独善的に聞こえた。
それでも、彼はプロとして仕事に着手した。まずは、彼女のスコアがなぜ62.4で安定しているのかを解析する。彼女の行動パターン、交友関係、購買履歴。あらゆるデータを洗い出すうちに、湊は奇妙な事実に気づいた。彼女は、意図的にスコアが上がらないような行動を選択しているフシがあるのだ。寄付の申し出は断り、地域のボランティア活動には参加しない。それなのに、彼女のスコアは決して平均値を下回らない。まるで、彼女の存在そのものが、周囲から一定量の「善意」を引き寄せているかのようだった。
湊はミヤコを観察するために、数日間、彼女のアパートが見えるカフェに陣取った。彼女は毎日、公園のベンチに座り、ただ空を眺めていた。すると、散歩中の主婦が声をかけ、小学生が駆け寄り、悩みを抱えた若者が隣に座っていく。彼女は特別なことを何もしない。ただ、そこにいて、人々の話を聞いているだけ。だが、彼女と話した人々は皆、どこか安堵した表情で去っていくのだ。そしてそのたびに、ミヤコのスコアは微かに、しかし確実に上昇するのだった。
湊の胸に、忘れていた感情が蘇る。それは、妹の彩音が、誰にも理解されずに一人で泣いていた時に感じた無力感に似ていた。ミヤコもまた、このシステムの檻の中で、一人で戦っているのではないか。彼のシニカルな仮面の下で、何かが静かに溶け始めていた。
第三章 逆説のアルゴリズム
「準備はできました。あなたのスコアを、強制的に下落させます」
湊は自室のモニターの前で、ミヤコに通信を入れた。彼は彼女のデジタル・アイデンティティに介入し、過去の行動データに複数のネガティブ・フラグを立てる準備を整えていた。意図的に反社会的な言動の記録を捏造し、システムに彼女を「共感する価値のない人間」だと誤認させる。荒っぽいが、最も確実な方法だった。
『お願いします』
ミヤコの静かな声が、実行の合図だった。湊はエンターキーを叩いた。モニター上の数字が、彼の意図通りに下降を始める。62.4、55.1、43.8……。順調だ。このまま20.0以下まで叩き落とす。
だが、スコアが39.9まで落ちた瞬間、異変が起きた。下降が止まったのだ。それどころか、数字はゆっくりと、しかし力強く上昇に転じ始めた。40.2、41.5、45.0……。何が起きている? 湊は慌てて追加のダミーデータを流し込むが、まるで焼け石に水だった。スコアは上昇を続け、数時間後には元の62.4を通り越し、70.0に迫ろうとしていた。
「あり得ない……」
湊のキャリアで、こんな事態は初めてだった。彼のロジックが、システムに完全に拒絶されている。パニックに陥りかけた頭で、彼は必死にシステムの深層構造を解析し始めた。ログの海を潜り、アルゴリズムの根幹へと迫っていく。そして、数時間に及ぶ格闘の末、彼はシステムの根源に隠された、驚くべき一つの真実に辿り着いた。
「共感スコア」は、個人の行動や感情を直接測定してはいなかった。
その正体は、観測対象に向けられる**「他者からの期待、善意、心配といったポジティブな指向性エネルギーの総量」**を数値化したものだったのだ。
湊がミヤコのスコアを不正に下げた結果、何が起きたか。彼女の急なスコア低下を訝しんだ友人や知人たちが、彼女を「心配」し始めた。あの優しいミヤコさんに何があったのだろう、と彼女に「善意」を向けた。システムは、その増大した「心配」と「善意」を検知し、彼女のスコアを逆に引き上げたのだ。
ミヤコがスコアを下げようとすればするほど、彼女を大切に思う人々の善意が彼女に集中し、スコアが上がる。なんという、残酷で美しいパラドックス。
湊は愕然とした。壁の写真に写る、ミヤコの夫。彼の名前を検索し、湊はすべてを理解した。藤代誠一。彼は、「共感スコア」システムの初期開発者の一人だった。彼は、人々が互いを思いやる優しい社会を目指してこのシステムを作った。だが、システムは彼の意図とは裏腹に、人々をスコアで縛る冷たい檻と化した。夫は絶望のうちに亡くなり、ミヤコは、夫が遺したこのシステムの矛盾を、自らの身をもって証明しようとしていたのだ。スコアが低いことで苦しむ人々を、システムの呪縛から解放するために。
湊はモニターに映る自分の顔を見た。彼はシステムの破壊者などではなかった。人々の善意や期待という、本来は値段のつけられないはずのものを切り刻み、金で売買していただけだ。彼は、妹を死に追いやったこのシステムの、最も醜い共犯者だった。キーボードを握る手が、屈辱と自己嫌悪で震えた。
第四章 静かなるノイズ
数日後、湊は再びミヤコのアパートを訪れた。彼はすべてを話した。システムの真実、彼女の夫のこと、そして自分がただの醜い共犯者であったことを。
ミヤコは黙って彼の告白を聞いていた。そして、すべてを聞き終えると、皺の刻まれた手で、そっと湊の手に触れた。
「あなたは、やっと数字の向こう側が見えたのね」
その声は、責めるでもなく、ただひたすらに優しかった。
「私も、あなたも、このシステムに囚われた被害者なのかもしれないわね」
その言葉に、湊は堰を切ったように涙を流した。妹が死んで以来、初めて流す涙だった。それは、彼の凍りついた心を溶かす、温かい雫だった。
「僕がやります」
顔を上げた湊の瞳には、もはや空虚な光はなかった。確かな意志の光が宿っていた。
「僕が、最後のチューニングをします」
彼が企てた最後の仕事は、誰かのスコアを上げたり下げたりすることではなかった。それは、システムそのものに、ごく微細な、しかし決して消えない「ノイズ」を混ぜ込むことだった。完全な破壊ではない。ただ、絶対的だったはずのスコアの信頼性を、根底から揺るがすための、静かなるハッキング。
湊は自室に戻り、数日をかけてコードを書き上げた。それは、特定の個人を標的にするのではなく、全市民のスコアに、予測不能な0.1未満の誤差をランダムに発生させ続けるというプログラムだった。神の数字に、人間的な「揺らぎ」と「曖昧さ」を注入する試み。彼はプログラムを起動させると、すべての機材を初期化し、静かに部屋を後にした。
それから一週間後。街の景色は、少しだけ変わった。駅の巨大なデジタルサイネージ、カフェの端末、個人のスマートフォン。そこに表示される共感スコアの小数点以下の数字が、時折、不規則に瞬くようになった。ほとんどの人は気づかない、些細な変化。しかし、一部の人間は気づき始めた。絶対だったはずの数字が、実は不確かなものかもしれない、という事実に。人々はスコアを見る回数が少しだけ減り、代わりに、目の前にいる人間の表情を見る時間が増えた。
湊は、遠くの街へ向かう列車の中にいた。車窓から流れる景色を眺めながら、彼はミヤコが淹れてくれた煎茶の香りを思い出していた。彼はもうチューナーではない。彼が社会に蒔いた「静かなるノイズ」が、いつか人々の心を数字の檻から解き放つ日を信じて。
世界はまだ、スコアに支配されたままだ。しかし、その絶対的な権威には、確かにヒビが入った。結城湊という一人の男が灯した、小さな、しかし消えることのない希望のノイズ。本当の共感とは、数字では測れない人の心の温もりそのものであると、彼はようやく知ったのだ。その気づきこそが、彼の失われた彩りを取り戻す、最初の第一歩だった。