第一章 瑠璃色の依頼人
弦之介(げんのすけ)の世界は、音で彩られていた。
それは詩的な比喩ではない。彼にとって、音とはまさしく色そのものであった。鳥のさえずりは芽吹く若葉のような萌葱色(もえぎいろ)の点描となり、川のせせらぎは絶えず形を変える銀鼠(ぎんねず)の絹布となる。人の立てる音は厄介だ。怒声は臓物を抉るような鉛色、噂話は粘つく泥のような黄土色。故に弦之介は、俗世から離れたこの山寺の静寂を好んでいた。色彩の洪水から逃れられる、唯一の安息所だった。
その夜、寺の静寂は、ひとりの娘によって破られた。嵐の晩、雨垂れの奏でる黒曜石の連なりを破って、転がり込むように現れた娘は、名を小夜(さよ)と名乗った。濡れた黒髪を頬に貼りつかせ、息を切らしながら、彼女は弦之介の足元に縋りついた。
「どうか、お助けください。父の仇を、討っていただきたいのです」
その声は、震えながらも芯のある、澄んだ藍白(あいじろ)の色をしていた。弦之介は眉をひそめ、無言で首を振る。用心棒まがいのことをして糊口をしのいではいるが、彼の刀はもう三年、人の血を吸っていない。いや、吸うことができないのだ。
「仇は、巷で『音無しの藤兵衛』と呼ばれる辻斬りにございます。腕の立つ浪人様を探しておりました」
「……帰れ。人斬りは請け負わん」
弦之介が冷たく突き放すと、小夜は唇を噛みしめた。だが、彼女は諦めなかった。翌日から、彼女は寺の片隅で、懐から取り出した小さな琴を奏で始めた。弦之介への嘆願でも、気を引くためでもない。まるで亡き父を弔うかのように、ただ静かに、一心に爪弾かれるその音色は、弦之介の世界を一変させた。
それは、瑠璃色だった。夜明け前の空よりも深く、磨き抜かれた硝子よりも透明な、瑠璃色の波紋。それが幾重にも広がり、彼のささくれだった心を優しく撫で、満たしていく。彼の混沌とした色彩の世界に、初めて差し込んだ秩序の光だった。弦之介は、何日もその音色に聴き入った。この色が消えることを、心の底から恐れている自分に気づいた。
ある日、小夜の琴の音が不意に止んだ。弦之介が本堂を覗くと、彼女の背後に二人の男が立っていた。やくざ者の放つ、濁った橙色の殺気。
「藤兵衛様のことを嗅ぎ回ってる小娘だな。大人しく来てもらうぜ」
小夜の悲鳴が、朱色の棘となって弦之介の鼓膜を刺す。その瞬間、彼の身体は勝手に動いていた。鞘走る刀の音は、鋭い白銀の閃光。男たちが驚愕の声を上げる間もなく、弦之介の峰打ちが二人の意識を刈り取っていた。
倒れた男たちを見下ろし、弦之介は己の掌を見つめた。人を打ったことで流れ込んでくる、恐怖の濁った黄色に吐き気がする。だが、それ以上に、背後で震える小夜の奏でる瑠璃色が失われることの方が、彼には耐えがたかった。
「……引き受けよう。その、藤兵衛という男のこと、詳しく聞かせろ」
彼の言葉に、小夜の瞳から涙がこぼれ落ちた。その涙の音は、雨上がりの虹のように淡く、美しい色をしていた。
第二章 色なき刃の影
『音無しの藤兵衛』は、不可解な辻斬りだった。目撃者の証言はどれも同じ。闇から現れ、闇に消える。足音も、衣擦れの音も、そして刃を振るう音さえ、一切しなかったという。弦之介にとって、それは悪夢のような相手だった。色を持たない存在は、彼には知覚できない。闇そのものと戦うに等しい。
弦之介は小夜を寺に匿い、麓の町で情報を集め始めた。小夜の話によれば、彼女の父・宗右衛門は実直な下級武士だったが、ある日突然、藤兵衛に斬り殺されたという。だが、藤兵衛の標的は無差別で、商人からやくざ者まで多岐にわたっていた。動機も正体も、まるで霞に包まれているかのようだった。
調査の合間、寺に戻ると、いつも小夜が琴を奏でて待っていた。彼女の瑠璃色の調べは、町の喧騒で濁った弦之介の知覚を洗い清めてくれる浄化の儀式となっていた。
「弦之介様は、なぜ、あれほどのお腕がありながら、人を斬ることを厭うのですか?」
ある夜、月明かりの下で小夜が尋ねた。彼女の声は、静かな湖面のような青藍(せいらん)色をしていた。弦之介は、ぽつりぽつりと己の過去を語り始めた。
彼はかつて、江戸で名の知れた道場の跡取りだった。だがある夜、道場に押し入った賊を斬り捨てた。その瞬間、彼の特異な体質が、呪いとなって牙を剥いた。
「人を斬ると、その者の最期の記憶が、色が、音が、俺の中に流れ込んでくる」
賊の記憶――それは、病に伏せる妻と飢えた子供たちの姿、そして拭いようのない絶望と、弦之介への憎悪。どす黒く、燃えるような血の色が奔流となって彼を襲い、三日三晩、彼はその色彩の地獄に苛まれた。以来、彼は刀で命を奪うことを己に禁じた。不殺の誓いは、彼の魂を守るための最後の盾だったのだ。
話を聞き終えた小夜は、何も言わなかった。ただ、いつもより一層、心を込めて琴を奏でた。その瑠璃色の調べは、弦之介の古い傷を包み込む優しい薬のように、彼の心に沁み渡っていった。
数日後、藤兵衛の目撃情報があったという竹林へ、弦之介は向かった。月が煌々と道を照らしている。風が笹の葉を揺らす音は、限りなく細い緑青(ろくしょう)色の線となり、空間を走る。弦之介は目を閉じ、聴覚――いや、視覚を研ぎ澄ませた。
その時、全ての音が消えた。風も、虫の声も、笹の葉のざわめきさえも。完全な無音。真空の世界。
だが、弦之介は見逃さなかった。彼の鼓動、彼の呼吸、その音の色彩が、すぐ目の前で不自然に歪むのを。そこに「何か」がいる。色も音も持たない、虚無の存在が。
「――来たか」
弦之介は静かに刀を抜いた。白銀の閃光が、月光を弾いた。闇の中から、音もなく滑り出すように、黒い影が現れた。音無しの藤兵衛。その男は、刀を構えながらも、一切の色を発していなかった。
第三章 藍色の絶刀
静寂の死闘だった。藤兵衛の太刀筋は、まさに無音。剣が空を切る音すらしない。常人であれば、いつ斬られたかも分からぬまま絶命するだろう。しかし、弦之介の世界では、わずかな空気の揺らぎさえも色彩を帯びる。藤兵衛の刃が迫ることで生まれる微かな風圧の変化、それが弦之介には、空間に走る一瞬の「透明な亀裂」として見えていた。
弦之介は、己の立てる音を頼りに戦った。踏み込む足音は鈍い褐色の円となり、刃と刃が触れ合う刹那の金属音は、夜空を裂く真紅の稲妻となる。その色彩の反響を読み、藤兵衛の位置を測る。それは、暗闇の中で己の声を頼りに反響で洞窟の形を知るような、極度に集中力を要する戦いだった。
両者の刃が幾度となく交錯する。藤兵衛の剣は的確に弦之介の急所を狙うが、殺気がない。憎悪も、愉悦も、いかなる感情の色も、その剣からは感じられなかった。ただ、何かを遂行するための、精緻な機械のような剣。
一瞬の隙。月光が藤兵衛の横顔を照らした。その顔を見て、弦之介は息を呑んだ。深い皺の刻まれた、苦労人の顔。どこにでもいる、初老の男の顔だった。辻斬りという凶悪な響きとはあまりにかけ離れている。
迷いは、死を招く。藤兵衛の刃が弦之介の肩を浅く切り裂いた。灼けるような痛みが、鮮血のような緋色となって意識を焼く。弦之介は覚悟を決めた。この男を斬らねば、小夜が危ない。彼女の瑠璃色を守るためならば、再びあの色彩の地獄に身を投じることも厭わない。
弦之介は深く息を吸い、己の存在を研ぎ澄ませた。全ての意識を耳に、目に、集中させる。そして、藤兵衛が踏み込んできたその瞬間、彼の太刀筋の未来を「色」として読み切り、カウンターの突きを放った。
手応えは、鈍く、重かった。弦之介の切っ先が、藤兵衛の胸を確かに貫いていた。
――その瞬間、凄まじい色彩の奔流が、弦之介の脳内になだれ込んできた。
しかし、それは彼が覚悟していた、どす黒い憎悪の色ではなかった。
それは、深い、深い、海の底のような藍色だった。悲しみと、後悔と、そして娘への海よりも深い愛情の色。
流れ込んできた記憶。それは、藩の不正の証文を偶然手にしてしまった実直な武士の姿。口封じのために藩から追われ、罪人の汚名を着せられた男の絶望。そして、愛する娘・小夜に追っ手が及ばぬよう、自ら残忍な辻斬りを演じ、世間の耳目を自分ひとりに引きつけようとした、悲しい決意。
男は、腕の立つ剣客を探していた。己の罪人としての生涯を終わらせ、娘に「父の仇は討たれた」という安寧を与えるために。自分を斬ってくれる、介錯人を探していたのだ。
藤兵衛――いや、小夜の父・宗右衛門は、血を吐きながら、安らかな顔で弦之介を見つめていた。その瞳から流れ落ちる最後の涙は、感謝の色をしていた。
「娘を……頼む……」
その声は、静かな藍色の響きを残して、消えた。
竹林に、再び笹の葉が揺れる緑青の音が戻ってきた。弦之介は、己が斬ったものの重さに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
第四章 夜明けの残響
寺に戻った弦之介を、小夜が駆け寄って迎えた。彼の着物が血で汚れているのを見て、彼女は全てを察したようだった。
「……終わったのですか」
その声は、安堵と不安が入り混じった、藤色に揺れていた。弦之介は、喉まで出かかった真実を、ぐっと飲み込んだ。あなたの父は、あなたを守るために辻斬りを演じていたのだ、と。そして、その父を斬ったのは、この私なのだ、と。
真実を告げることは、彼女を二重に傷つけるだけだろう。父が罪人ではなかったと知る安堵と、その父を殺した男が目の前にいるという絶望。彼女の奏でるあの瑠璃色を、永遠に濁らせてしまうことになる。
弦之介は、己が背負うべき色を選んだ。
「ああ、終わった。『音無しの藤兵衛』は、俺が斬った。これで、あなたの父上の無念も晴れるだろう」
嘘ではない。だが、全てでもない。言葉の裏に、深い藍色の悲しみを隠して、彼は静かに告げた。
小夜の瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。それは、父を失った悲しみと、長きにわたる苦しみからの解放が入り混じった、複雑で、それでいて透き通った水晶の色をしていた。彼女は深く、深く頭を下げた。
翌朝、弦之介は旅支度を整えていた。彼の役目は終わった。この寺に、これ以上留まる理由はない。
「もう、行かれるのですか」
背後から声をかけた小夜の手に、あの琴があった。彼女は弦之介の前に座り、静かに爪弾き始めた。別れの曲だった。
その音色は、いつものように美しい瑠璃色だった。だが、その色の奥に、以前はなかった深みと、微かな哀しみの影が差しているのを、弦之介は見逃さなかった。まるで、彼女もまた、言葉にされない真実の幾ばくかを、その音色で感じ取っているかのようだった。
曲が終わると、小夜は顔を上げ、凛とした表情で言った。
「弦之介様。どうか、お達者で。あなたのゆく道が、いつか、安らかな色で満たされますように」
それは、全ての罪と真実を受け入れた上で、なお弦之介の未来を祈る、慈愛に満ちた菫色(すみれいろ)の声だった。
弦之介は何も言わず、一度だけ振り返って静かに一礼し、山門をくぐった。
彼の世界は、相変わらず様々な音と色で満ちている。鳥の声、風の音、遠くで響く人々の生活の音。かつては呪わしくさえあった色彩の洪水が、今は少し違って見えた。
人を斬ることで流れ込む記憶の色は、その人間が生きた証そのものだ。それは憎悪や絶望だけではない。宗右衛門が遺した藍色のように、誰かを想う深い愛の色もある。
弦之介は、胸に宿った藍色の記憶を抱きしめた。これは、彼が背負い続けるべき、一人の男の愛の証。彼はこれからも、人の生と死の色をその身に受けながら、歩き続けていくのだろう。
東の空が、ゆっくりと白み始めていた。夜の闇を溶かすその光は、希望とも哀しみともつかぬ、淡く優しい乳白色をしていた。その色彩の残響の中を、弦之介は一人、静かに歩き去っていった。