第一章 色褪せた記録
橘律(たちばな りつ)の仕事は、記憶に色をつけることだった。いや、正確には、人が最も鮮やかだと感じた瞬間の「感情」そのものを、特殊な脳波スキャナーでデジタルデータとして記録・保存する。人々は彼を『感情記録士』と呼んだ。しかし、皮肉なことに、律自身の世界はほとんどモノクロームだった。
「感動、ですか」
律は、目の前のホスピスのベッドに横たわる老婆、小野寺静(おのでら しず)に問い返した。彼女の依頼は、ここ数年で最も曖昧なものだった。
「ええ。夫と見た、たった一度きりの、幻のオーロラ。あれ以上の感動は、私の人生にはありませんでした」
静の顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は遠い昔を懐かしむ少女のように澄んでいた。
「具体的な日時や場所は?」
「それが、もう六十年も昔のことで…北の、小さな村だったことしか。夫も亡くなり、詳しいことを知る人もいなくなってしまって」
律は手元の端末を操作した。感情記録は、対象者の記憶への強いアクセスと鮮明なイメージングが不可欠だ。曖昧な記憶では、ノイズの多い不完全なデータしか抽出できない。
「申し訳ありませんが、それでは記録は困難です。もう少し、何か…色や形、音、匂いなど、具体的な手がかりは」
「色は…言葉にできないほどでした。緑や赤が、まるで生き物のように空で踊っていて…。夫が私の冷えた手を握ってくれて、その温かさだけは、今でもはっきりと覚えています」
律はヘッドセット型のスキャナーを静の頭にそっと装着し、記録を試みた。モニターに映し出されたのは、乱れた波形と、砂嵐のような映像だけだった。エラーコードが虚しく点滅する。やはり無理か。律が諦めかけたその時、静がぽつりと言った。
「あなたは、何かに心を揺さぶられて、涙が出そうになったことはありますか?」
その問いに、律は答えられなかった。彼にとって感情とは、分析対象のデータパターンでしかない。他人の喜びも、悲しみも、感動も、すべては脳内で起こる電気信号の奔流。そこに意味を見出すことが、彼にはどうしてもできなかった。
「この記憶を、あなたにも分けてあげたい。あの光が、あなたの心にも灯るように」
静の言葉は、まるでノイズの向こうから聞こえる微かな音のようだった。律は無表情のままスキャナーを外し、深く頭を下げた。
「…調査してみます。何か思い出したら、いつでもご連絡ください」
病室を出た律の背中に、静の「ありがとう」という声が優しく響いた。だが、その温かささえも、彼の心を通り過ぎていくだけだった。なぜ人は、不確かで消えゆくものに、これほどまでに執着するのだろう。律には、それが最大の謎だった。
第二章 幻を追う日々
律の調査は難航を極めた。六十年前に北の辺鄙な村で観測された、記録にないオーロラ。国立天文台の過去のデータにも、地方の郷土資料館の文献にも、該当する記述は一つも見つからなかった。物理的にあり得ない、と結論づけるのは簡単だった。老人の記憶違い。よくある話だ。
しかし、週に二度、静の元を訪れるたび、律の合理的な思考は少しずつ揺らぎ始めていた。
「あの日はね、とても寒い夜でした。でも、夫が淹れてくれたココアが、体の芯まで温めてくれたの」
「オーロラが消えた後、静まり返った雪原に、二人の足跡だけが続いていて…それがなんだか、私たちの人生みたいだねって、笑い合ったんです」
静が語る記憶の断片は、映像として記録するにはあまりに不完全だった。だが、その言葉の一つひとつには、色褪せることのない確かな温もりが宿っていた。律は、いつしかスキャナーを使うのをやめ、静の話にただ耳を傾けるようになっていた。彼女の若き日の恋、夫とのささやかな暮らし、病と闘った日々。それは、律がデータとしてしか触れたことのなかった「人生」そのものだった。
調査を進めるうち、律は一つの可能性に行き着いた。静の夫、小野寺誠一は、無名の映像技術者だったという。彼の遺品が、村の小さな記念館に保管されていることを突き止めた律は、北へ向かう列車に飛び乗った。
雪深い村の記念館は、訪れる人もなく静まり返っていた。誠一の遺品は、段ボール箱一つにまとめられていただけだった。古い設計図の束、使い古された工具、そして、一冊の日記。律は、その日記を手に取った。インクの滲んだページを一枚、また一枚とめくっていく。そこに綴られていたのは、病弱で遠出のできない妻を想う、夫のひたむきな愛情だった。
『静を、世界で一番美しい場所に連れて行ってやりたい。彼女がまだ見たことのない、満天の星空を、この手で作り出してやりたい』
日記の最終ページに、律は息を呑んだ。そこに描かれていたのは、数台の大型プロジェクターと特殊なレンズを組み合わせた、壮大な装置の設計図。タイトルにはこう記されていた。
『プロジェクト・アウロラ ~静へ贈る、一夜限りの天空~』
律の全身を、奇妙な感覚が貫いた。静が「人生最高の感動」と語ったあのオーロラは、自然現象ではなかった。愛する妻のために、一人の男が作り出した、世界でたった一つの、人工の光だったのだ。
第三章 人工の天空
東京に戻る新幹線の中で、律は窓の外を流れる景色をただぼんやりと眺めていた。膝の上の日記が、ずしりと重い。偽物。静の感動は、作り物に過ぎなかった。律が追い求めていた、人の心を揺さぶる「本物の感動」の正体が、精巧なイリュージョンだったという事実に、彼は激しく動揺していた。
自分の仕事は何なのだろう。人々の「本物」の感情を記録するはずが、今、自分は「偽物」の記憶の真実を掴んでしまった。これを静に伝えるべきなのか?あなたの感動は、夫が作り出した幻だったのだと。その事実は、彼女の美しい思い出を、灰色に変えてしまうのではないか?
病室のドアを開けると、静は以前よりもずっと衰弱しているように見えた。律の顔を見るなり、彼女はか細い声で微笑んだ。
「おかえりなさい、律さん。…何か、分かりましたか?」
律は口ごもった。真実を告げる言葉が、喉の奥でつかえる。彼が今まで信じてきたのは、客観的な事実と、論理的な正しさだった。しかし、今、目の前の静にとっての「真実」とは、一体何なのだろうか。
「…手がかりが、見つかりました」
律は嘘をついた。初めて、自分の意志で、事実を捻じ曲げた。
「ご主人の日記が。そこに、オーロラのことが詳しく書かれていました。あなたの記憶と、日記の記述を組み合わせれば、記録を再構築できるかもしれません」
「まあ、本当に…!」
静の顔が、ぱっと明るくなった。その純粋な喜びに、律の胸はちくりと痛んだ。
その日から、律は研究室に籠りきりになった。彼は感情記録士であり、同時に、 أمهرのデータ・エンジニアでもあった。静の曖昧な記憶の断片、夫・誠一の日記に綴られた愛情、そして設計図から読み取った光のパターン。それらすべてを、彼は丹念に紡ぎ合わせていった。
それはもはや、単なる記憶の「記録」ではなかった。夫が妻を想う心、妻が夫の愛を受け取った瞬間の喜び。二人の間に流れた、目には見えない感情の交歓。律は、そのすべてをデータに変換し、一つの壮大な映像詩として「再構築」しようと試みた。それは、虚構の上に、もう一つの真実を築き上げるような、神をも恐れぬ作業だった。
モニターの中で、緑と赤の光の粒子が、優雅なワルツを踊り始める。それは誠一が設計した光であり、静が記憶していた光であり、そして律が二人の心から紡ぎ出した、全く新しい光だった。作業を続けながら、律は気づいていた。自分のモノクロームだった世界に、確かな色が灯り始めていることを。
第四章 想いを灯す光
数日後、律は完成したデータを収めたポータブル装置を手に、再び静の病室を訪れた。静は、もうベッドから起き上がることもできないほど衰弱していたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
「準備ができました。見て、いただけますか」
律は静にヘッドセットを装着し、そっと再生ボタンを押した。
静の閉じられた瞼の裏に、満天の星が広がる。やがて、地平線の彼方から、柔らかな光のカーテンが立ち上った。緑、赤、そして紫。日記に記されていた通りの、誠一が妻のためだけに調合した特別な色彩が、夜空をキャンバスにして乱舞する。それは、現実のオーロラよりも遥かに繊細で、温かい光だった。
映像に合わせて、律は静の耳元で囁いた。それは、誠一の日記から引用した言葉だった。
「『静、見てごらん。君のために、空を盗んできたよ』」
静の頬を、一筋の涙が伝った。乾いた唇が、微かに動く。
「…ああ、誠一さん…。そうだったわ。あなたは、そう言ってくれた…」
彼女は、まるで六十年前のあの夜に戻ったかのように、幸せそうに微笑んでいた。
その瞬間、律が持つ端末に、膨大な感情データが流れ込んできた。それは、静の脳から発せられた、人生で最も純粋で、強烈な「感動」の波だった。感謝、愛情、幸福感、そして夫への尽きせぬ想い。奔流のような感情が、インターフェースを通して律自身の感覚に流れ込んでくる。
律の胸の奥深くで、固く閉ざされていた扉が、音を立てて開いた。熱い何かが込み上げてきて、視界が滲む。これが、そうか。これが、「感動」というものか。
それは、自然現象の壮大さでも、映像技術の精巧さでもなかった。誰かが誰かを想う、そのひたむきな心の熱が、時を超えて別の誰かの心に届いた時に生まれる、奇跡のような光。作られた光景でも、そこに込められた想いが本物であるならば、それは何よりも尊い真実なのだ。
静は、オーロラの記憶に包まれたまま、安らかに息を引き取った。その表情は、この上なく穏やかだった。
律は、しばらくその場を動けなかった。頬を伝う、生まれて初めて流す温かい涙の感触を、彼は確かめていた。
数日後、律は感情記録士の仕事を続けていた。だが、彼の仕事は以前とは全く違うものになっていた。彼はもう、単なる記録者ではない。記憶に込められた人の想いを繋ぎ、再構築する者、『エモーショナル・リコンストラクター』だった。
事務所の窓から、夕日が街を茜色に染めていた。ありふれた、日常の光景。しかし、今の律には、その光の一つひとつが、誰かの人生を照らす尊い光のように見えた。彼はゆっくりと目を閉じ、その温かな光を全身で受け止める。彼のモノクロームだった世界は、今や無数の色彩と、感動に満ち溢れていた。