忘却のハルモニウム

忘却のハルモニウム

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第一章 歪な追想曲

響(ひびき)の仕事場は、古いビルの屋根裏にあった。窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う無数の埃を金色に照らし出す。壁一面に並ぶのは、年代物の音叉や調律器具。人々は彼を「記憶の調律師」と呼んだ。彼は、人の記憶を「音」として聞き、辛い記憶が奏でる不協和音を、心の平穏を取り戻す和音へと調律する。

その日、古びた木の扉を叩いたのは、背中の丸まった一人の老婆だった。千代と名乗る彼女の依頼は、響の経験の中でもひときわ奇妙なものだった。

「忘れたくない記憶を、調律していただきたいのです」

皺の刻まれた顔で、彼女はそう言った。響は眉をひそめた。彼の元を訪れる者は皆、忘れたい過去の苦しみから逃れるためにやってくる。忘れたくない記憶の調律など、前代未聞だった。

「調律は、記憶の鋭利な部分を丸め、感情の棘を抜く作業です。それは、記憶の鮮やかさを損なうことと同義ですよ」

響は静かに諭した。彼の声は、低く落ち着いたチェロの音色のようだった。

「承知しております」と千代は頷いた。「それでも、お願いしたいのです。私の記憶は、美しい旋律なのです。亡き夫との、かけがえのない思い出という名の。ですが、その最後の部分に、どうしても耐え難いノイズが混じってしまう。そのノイズのせいで、私はこの美しい曲を最後まで聴き通すことができないのです」

彼女の瞳の奥に揺らぐ、切実な光を見て、響は依頼を引き受けることにした。彼は愛用の調律具――白銀に輝く音叉のような「ハルモニウム」を手に取った。これを記憶を司るこめかみにそっと当てることで、クライアントの記憶は音となって響の内に流れ込んでくる。

響は目を閉じ、千代のこめかみにハルモニウムを触れさせた。

途端に、温かく、陽だまりのようなメロディが流れ込んできた。春の公園、ぎこちなく手を取り合う若い二人。夏祭り、夜空を彩る花火の下で交わした口づけ。秋の夕暮れ、縁側で寄り添い、同じ本を読む穏やかな時間。それは、愛と喜びに満ちた、完璧なソナタのようだった。

だが、曲が終わりに近づくにつれ、空気が変わった。美しい旋律の背後で、金属を掻きむしるような、耳障りなノイズが鳴り始める。それは次第に大きくなり、やがて全ての音を飲み込んでいく。病院の白い天井、消毒液の匂い、心電図の無機質な電子音、そして、最愛の人のか細い呼吸が、ぷつりと途絶える音――。

その瞬間、激しい不協和音が響の鼓膜を突き刺した。あまりの苦しさに、彼は思わずハルモニウムを離した。

「これが…私の記憶の終わりです」

千代の声が震えていた。

「このノイズごと、この曲を抱きしめて生きていきたい。夫との思い出を、痛みごと愛したいのです。どうか、この追想曲を、最後まで聴けるように調律してくださいませんか」

響は、ハルモニウムを握りしめた。通常、彼の仕事は、こうしたノイズだけを綺麗に消し去ることだ。しかし、彼女が望むのは削除ではない。共存。それは、調律師としての彼の技術と哲学が試される、あまりにも困難な依頼だった。

第二章 聞こえない自分の音

調律は、静寂の中で行われた。響は再び千代の記憶に潜り、あの耳障りなノイズと向き合った。それは単なる苦痛の音ではなかった。よく耳を澄ますと、その軋みの中には、後悔、罪悪感、そして言葉にできなかった感謝のような、複雑な響きが絡み合っていた。まるで、何重にも弦が張られた楽器が、一度に掻き鳴らされているかのようだ。

彼は慎重に、一本一本の弦を確かめるように、音を解きほぐしていく。鋭すぎる高音を和らげ、重すぎる低音にわずかな光を含ませる。それは、壊れた楽器を修理するのではなく、その歪みさえも音楽の一部として昇華させる、至難の業だった。

作業の合間、千代はぽつりぽつりと夫の話をした。夫は古いレコードを集めるのが趣味で、特に少しノイズの混じったジャズを好んで聴いていたという。「完璧じゃないところにこそ、温もりがあるんだよ」と、彼はよく笑っていたらしい。その言葉が、響の心に微かなさざ波を立てた。

響自身の記憶は、ひどいノイズに覆われていた。物心ついた頃には両親はおらず、遠い親戚の家を転々とした後、先代の記憶の調律師である師匠に引き取られた。両親は、彼が五つの時に事故で亡くなったと聞かされている。だが、その時の記憶は、まるで壊れたラジオのように、意味をなさない轟音と静寂が繰り返されるだけだった。

彼はこれまで、自分の記憶を調律しようと試みたことがなかった。いや、できなかったのだ。自分のこめかみにハルモニウムを当てようとするだけで、全身を苛むほどの拒絶反応が起きる。自分の記憶の音は、あまりにも激しく、恐ろしく、聞くこと自体が耐え難かった。

だから、彼は他人の記憶を調律することで、自分自身の空白を埋めてきた。調律師には暗黙のルールがある。一度調律した記憶の詳細は、術者自身も忘却の彼方へ押しやる。それはクライアントのプライバシーを守るためであり、同時に、他人の痛みから自らの心を守るための防衛機制でもあった。

千代の夫が住んでいたという街の名を聞いた時、響の心臓が不自然に跳ねた。それは、彼が幼い頃に住んでいた街と同じ名前だった。

「ご主人は、どのようなお仕事を?」

何気ないふりをして尋ねると、千代は懐かしそうに目を細めた。

「昔は、町の小さな時計屋さんでした。…とても、不器用な人でしたけどね」

時計屋。その単語が、響の記憶の深い場所に沈んでいた小さな石を、ことりと動かしたような気がした。

第三章 時を超えた伝言

数日後、調律は最終段階を迎えていた。響は、千代の記憶のノイズを、悲しみを帯びた美しいアルペジオへと変えることに成功していた。それは、夫の死という絶対的な悲劇を消し去るのではなく、それまでの幸せな記憶をより深く、豊かに彩るための、哀愁に満ちたコーダ(終結部)だった。

「…仕上げます」

響は集中力を極限まで高め、ハルモニウムに最後の意志を込めた。不協和音が、静かな長調の和音へと収束していく。その瞬間だった。

忘却の彼方に沈むはずの、調律した記憶の断片が、鮮烈な映像となって響の脳裏にフラッシュバックした。

――夕暮れの公園。砂場で遊ぶ幼い自分。優しく微笑む父と母。そして、その隣で、「いい時計だなぁ」と父の腕時計を眺めている、見覚えのある顔。それは、千代が写真で見せてくれた、若き日の夫の姿だった。

全身に鳥肌が立った。なぜ、忘れるはずの記憶が見える?

混乱する響の意識に、さらなる記憶の奔流がなだれ込む。

それは、千代の記憶の奥深くに封印されていた、ノイズの本当の正体だった。

あの日、響の一家と千代の夫は、四人で買い物に出かけていた。横断歩道を渡ろうとした、その時。けたたましいブレーキ音と共に、一台の車が猛スピードで歩道に突っ込んできた。千代の夫は、恐怖で足がすくんで動けなくなっていた。その彼を庇うように、響の父親が突き飛ばした。そして、幼い響の体を、母親が強く抱きしめて庇った。

衝撃。悲鳴。ガラスの砕ける音。

響が次に目を開けた時、世界は赤と黒に染まっていた。千代の夫は呆然と立ち尽くし、響の父親は彼の下で血を流していた。

「…響を、頼む…」

それが、父の最後の言葉だった。

千代の記憶のノイズ。それは、友人を救えなかった罪悪感、友人に命を救われたという複雑な感謝、そして、遺された幼子への痛切な想いが絡み合った、魂の叫びだったのだ。

「…あ…」

響の口から、声にならない声が漏れた。涙が、堰を切ったように頬を伝う。自分が忘れていた、忘れることを許されなかった記憶の轟音。その正体は、両親の死の衝撃と、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかという、幼い心には抱えきれないほどの罪悪感だった。

「あなた…もしかして…」

響の異変に気づいた千代が、彼の顔を覗き込み、息を呑んだ。彼女の瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに涙で潤んでいく。

「…あの子…だったのですね…? 健一さんの…響くん…」

千代は震える手で響を抱きしめた。その温もりは、まるで母親のようだった。

響は、子供のように声を上げて泣いた。何十年も心の奥底に閉じ込めていた、孤独と悲しみが、ようやく溶け出していくのが分かった。

落ち着きを取り戻した響は、涙の跡が残る顔で千代に尋ねた。

「なぜ、この調律を…? あなたは、全て知っていたのですね」

千代は静かに頷いた。

「夫の、遺言だったのです。『もし響くんが調律師になったと聞いたら、この記憶を調律してもらいなさい。そして、私の後悔と、君のご両親への感謝を、全て彼に伝えてほしい』と。あれは、あの子に向けた、時を超えた伝言だったのです」

第四章 鳴りやまない和音

夫からの、時を超えたメッセージ。千代の依頼は、響に真実を伝えるための、あまりにも遠大で、愛に満ちた計画だった。夫は、響がいつか自分の記憶と向き合えるように、自分の記憶を道標として遺したのだ。

その夜、響は一人、仕事場でハルモニウムを握りしめていた。彼は意を決して、それを自らのこめかみに当てた。

嵐のような轟音が、再び彼を襲う。だが、今度の彼は耳を塞がなかった。そのノイズの奥で、確かに聞こえる声があったからだ。

『生きなさい、響』

それは、事故の瞬間に彼を庇った両親の、最後の愛の言葉だった。短いけれど、何よりも力強い、美しいメロディ。

彼は、自分の記憶を調律しないと決めた。この痛みも、罪悪感も、そして両親の愛も、全てが今の自分を形作る和音なのだ。歪で、不完全で、時折ひどい不協和音を奏でるかもしれない。それでも、これは紛れもなく、彼だけの人生という名の音楽だった。

数日後、響は千代の家を訪れた。古いレコードプレーヤーからは、少しノイズの混じった、温かいジャズが流れていた。二人は言葉を交わすことなく、ただ窓の外に広がる夕焼けを眺めていた。

空は、燃えるようなオレンジと、穏やかな紫が混じり合った、完璧とは言えない、けれど息を呑むほど美しいグラデーションを描いていた。

人の記憶も、人生も、きっとこの空と同じなのだろう。完璧な調和だけが存在する世界などない。悲しみや後悔というノイズがあるからこそ、喜びや愛の旋律は、より一層深く、心に響くのかもしれない。

響は、胸の内で静かに鳴り始めた新しい和音に、耳を澄ませていた。それは、過去と未来を繋ぐ、どこまでも優しい音色だった。

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