第一章 温かい表紙
国立記憶保管庫、通称『終の書架』。そこは、死者の人生が収められた場所だ。この世界では、人は死ぬと一冊の本になる。分厚い革の装丁、金箔で刻まれた名前と没年。そのページをめくれば、故人が見た風景、聞いた音、感じた想いのすべてが、まるで昨日のことのように蘇る。
司書である僕、水上湊(みなかみ みなと)の仕事は、新たに届く「本」を分類し、書架に収めること。そして、遺族の申請に応じて、閲覧室へ運び出すことだ。ひんやりとした大理石の床に靴音を響かせながら、僕は今日も静寂と古紙の匂いが支配するこの場所で、終わった物語たちと向き合っていた。感情を殺し、ただの記録として扱う。それが、この職場で長く働くための唯一の秘訣だった。生前の感情に引きずられれば、精神がもたない。だから僕は、決して本を読まなかった。
その日、僕の日常を揺るがす一冊が届いた。搬入リストに記された名前を見た瞬間、心臓が氷の塊に握り潰されたような衝撃に襲われた。
『月島 陽菜(つきしま ひな)』
七年前、不慮の事故でこの世を去った、僕の幼馴染。僕がこの世界で唯一、心を許した少女の名前だった。なぜ今頃になって? 事故死の場合、本はすぐさまここに収められるはずだ。動揺を悟られまいと無表情を装い、僕はその本が納められた桐の箱を受け取った。
自室に戻り、震える指で箱を開ける。そこに収められていたのは、見慣れた他の本とは明らかに違う、異質な一冊だった。表紙は滑らかな白革で、タイトルも没年も刻まれていない。ただ、中央に小さな勿忘草の押し花が一つ、埋め込まれているだけ。
そして、何よりも奇妙だったのは、その手触りだった。
そっと指先で触れる。冷たいはずの革の表紙が、まるで生きているかのように、ほんのりと温かい。まるで、誰かの手のひらのぬくもりが、そこに残っているかのようだった。その微かな熱が、僕の指先から腕を伝い、凍てついていた心の奥底に、小さな火を灯した。
陽菜。君は、何を遺していったんだ? 僕は忘れていたはずの約束の言葉を、不意に思い出していた。
「ねぇ、湊。もし私が湊より先にいなくなったら、私のこと、ちゃんと見つけてね」
夕焼けに染まる公園で、小指を絡めながら交わした、幼い日の戯言。その記憶と共に、説明のつかない温かさが、僕を強く惹きつけてやまなかった。
第二章 禁じられた頁
『終の書架』の司書が、許可なく本を読むことは固く禁じられている。それは他人のプライバシーを侵害するだけでなく、読み手の精神を蝕む危険な行為だからだ。僕はこれまで、その規則を忠実に守ってきた。他人の人生に深入りすれば、自分が空っぽになってしまう気がしたからだ。
だが、目の前にある陽菜の「本」は、僕の築き上げてきた防壁をいとも容易く突き崩そうとしていた。この温かさは何なのか。空白の表紙が意味するものは。七年という歳月を経て、なぜ僕の元へ? 疑問が渦を巻き、僕を眠らせてはくれなかった。
数日間の葛藤の末、僕はついに決意した。深夜、書架の奥にある私室に鍵をかけ、デスクライトの灯りだけを頼りに、陽菜の本と向き合った。心臓が早鐘を打ち、汗ばんだ手で、僕はゆっくりと温かい表紙を開いた。
最初のページに書かれていたのは、僕の知らない陽菜の独白だった。
『これを読んでいるのが、湊であることを願っています。もし違う誰かなら、どうかこの本を閉じてください。これは、私からたった一人のあなたへ宛てた、最後の我儘だから』
インクの文字が、まるで彼女の声となって脳内に響き渡る。僕は息を呑み、ページをめくった。そこに綴られていたのは、僕が知る快活で太陽のような陽菜ではなく、病という影に静かに蝕まれていく、一人の少女の記録だった。
彼女は事故で死んだのではなかった。遺伝性の難病で、余命宣告を受けていたのだ。両親はそれを隠し、僕にも知らせず、静かな療養生活を送らせていた。ページを追うごとに、彼女の視界が少しずつ狭まっていく様子や、好きだったピアノの鍵盤が重く感じられるようになる絶望が、僕自身の感覚として流れ込んでくる。レモンティーの酸っぱさ、窓から差し込む午後の光の匂い、そして、日に日に薄れていく自分の存在への恐怖。
『湊に会いたい。でも、会えない。元気な私のままで、覚えていてほしいから。弱っていく姿なんて見せたくない』
彼女の孤独が、苦しいほどに伝わってくる。僕はなぜ、何も知らなかったのだろう。なぜ、会いに行こうとしなかったのだろう。事故死という嘘を鵜呑みにし、悲しみに蓋をして、ただ時間が過ぎるのを待っていた自分自身が、ひどく醜く、許しがたい存在に思えた。後悔の念が、胸を締め付ける。
本を読み進めるうち、僕自身の記憶の扉もこじ開けられていった。忘れていた陽菜との些細な会話、彼女が好きだと言っていた曲、二人で交わしたくだらない約束。それらが鮮やかな色彩を伴って蘇り、そのたびに、失われた時間の重みが僕の肩にのしかかった。
第三章 二人だけの証明
物語が終盤に近づくにつれ、陽菜の記述は、単なる闘病記録から、ある計画の全貌を明かすものへと変わっていった。そして、僕はその最終章で、想像を絶する事実に直面することになる。
『私の肉体は、もうすぐ限界を迎えます。でも、私は消えたくない。私の意識、私の記憶、私が湊を想うこの気持ちだけは、どうしてもこの世界に遺したい』
彼女は、最先端の脳科学と情報工学を融合させた非合法の研究に、自ら被験者として参加していたのだ。それは、人間の意識と記憶をデータ化し、特殊な媒体に保存するという、神の領域に踏み込むような計画だった。そして、その媒体こそが、死後、人が変容する「本」だった。
『普通、人が死んで生まれる本は、ただの記録の集合体。他人が追体験できるだけの、一方通行の物語。でも、この研究は違う。意識そのものを移植するの。だから、本は「生きている」』
心臓が大きく跳ねた。つまり、この本は……陽菜そのものだというのか?
ページに綴られた衝撃の事実は、さらに僕を揺さぶった。
『私の意識と記憶のすべてを、一冊の本に収めることはできなかった。容量が大きすぎるから。だから、研究者たちは私の存在を分割したの。「喜び」の記憶を集めた本、「悲しみ」を綴った本、「音楽」に関する本、「家族」との思い出の本……。そうして分割された私の断片は、実験データとして、世界中の『終の書架』にバラバラに送られてしまった。公式記録では、私は七年前に病死したことになっている』
頭が真っ白になった。陽菜は、死んでいなかった。いや、肉体は滅びたが、彼女の魂は、無数の本となって世界中に散らばり、今も存在し続けているのだ。
では、僕の手元にあるこの温かい本は、いったい何なのか。答えは、最後のページに記されていた。
『でもね、湊。一つだけ、どうしても分割できなかった想いがある。あなたを好きだという気持ち。あなたと過ごした時間の記憶。それは、私のすべてだったから。研究者たちに内緒で、私はこの想いだけを一つの独立した本として創ってもらった。これが、本当の私。他のどの断片よりも、これが私の中心。私の魂の核。いつか、必ずあなたの元へ届くように、強い願いを込めて』
『だから、お願い。私を見つけて。世界に散らばった私のカケラを集めて、もう一度、私を一つの物語にして。それが、私たちが交わした最後の約束。「私を見つけて」という、あの日の約束の、本当の意味』
勿忘草の押し花が埋め込まれた最後のページ。その文字は、涙で滲んだように揺れていた。いや、僕の目から、止めどなく涙が溢れているのだった。
この本の温かさは、陽菜の僕への想いそのものだったのだ。七年間、彼女はずっと僕を想い続け、この本の形で、僕の元へたどり着く日を待っていた。
「陽菜……」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。事故死ではなかった。忘れられていたのでもなかった。それは、想像を絶するほどの孤独な戦いの末に、彼女が僕に託した、壮大な愛の証明だった。
第四章 始まりの書架
夜が明け、朝の光が『終の書架』のステンドグラスを通り抜け、床に七色の模様を描き出していた。僕は一睡もしていなかったが、不思議と体は軽く、心は燃えるような決意に満たされていた。
昨日までの僕は、もういない。終わった物語をただ整理するだけの、空っぽの司書は死んだ。陽菜が遺してくれたこの温かい本が、僕に新しい人生の目的を与えてくれた。
僕は、陽菜を探す。
世界中に散らばった彼女の断片を、この手で一つ残らず集める。そして、再び陽菜という一人の人間を、この世界に紡ぎ直すのだ。それがどれほど困難で、途方もない旅になるかは分かっている。もしかしたら、すべての本を見つけることはできないかもしれない。それでも、僕は行かなければならない。
僕は館長室のドアをノックし、退職願を差し出した。驚く館長に、僕はすべてを話すことはしなかった。ただ、「探さなければならない本があるのです。それは、まだ終わっていない、僕自身の物語ですから」とだけ告げた。
長年住み慣れた司書の寮を引き払い、最低限の荷物だけを詰めたバックパックを背負う。そして、一番大切なもの――陽菜の魂が宿る、温かい勿忘草の本を、コートの内ポケットにそっとしまった。トクン、と、まるで心臓がもう一つ増えたかのような、確かな鼓動が伝わってくる。
『終の書架』の重厚な扉を開け、外の世界へと一歩踏み出す。眩しい朝日が僕を包み込んだ。それは、新しい旅の始まりを祝福する光のように思えた。
これから僕は、世界中の『終の書架』を巡るだろう。陽菜の「喜び」に出会い、彼女の「悲しみ」に触れ、彼女が愛した「音楽」を聴く。その一つ一つが、僕にとっての陽菜との再会になる。
旅の終わりに、陽菜が完全な一つの存在として蘇るのかは分からない。だが、それでいい。この旅そのものが、僕と陽菜が共に紡ぐ、新しい物語なのだから。
僕は空を見上げた。どこまでも青い空が広がっている。
「待ってて、陽菜。今、会いに行くよ」
胸の内の温かい鼓動を感じながら、僕は未来へと続く道を、力強く歩き始めた。それは、一人の女性を救うための、そして、閉ざされていた僕自身の心を取り戻すための、果てしなく、そして愛おしい旅の始まりだった。