時の残響、僕の輪郭
第一章 薄れる輪郭
鏡に映る自分の姿が、また少し薄くなった気がした。
僕、蓮(レン)の右手の指先は、背後の壁紙の模様が透けて見えるほどに希薄になっている。これが僕の力であり、呪いだった。他者の失われた「忘却された絆」の記憶を、この肉体を通して一時的に再構築する。その代償として、僕自身の「存在の輪郭」が曖昧になっていくのだ。
街の雑踏は、僕をいないものとして通り過ぎていく。肩がぶつかっても、誰も謝らない。いや、そもそも気づいてすらいないのだろう。僕は世界から徐々に消えゆく幽霊だった。
そんなある日、古い路地の奥で、時が止まったかのような一角を見つけた。色褪せた看板に「水月時計店」とあるその店の前で、一人の女性が立ち尽くしていた。彼女の周りだけ、空気が重く、よどんでいる。世界を蝕む「無時間地帯」の前兆だ。人々の感動が失われた場所から広がり、やがて一切の時を止めてしまう現象。
「あの……」
僕の声は、風の音にかき消されるかと思った。だが、彼女はゆっくりと振り返った。陽菜(ヒナ)と名乗った彼女の瞳には、深い憂いが宿っていた。
「この店が、消えてしまうんです。祖母との、大切な思い出が詰まっているのに……」
彼女の声は、か細く震えていた。その切実な響きが、僕の希薄な心を強く打った。失われゆく絆の匂い。僕は、またこの力を使わなければならないと悟った。たとえ、この身がさらに透けてしまうとしても。
第二章 錆びついた歯車
水月時計店の扉を開けると、カビと古い油の匂いが鼻をついた。壁一面に掛けられた時計は、どれも針を止め、沈黙している。店の奥に進むにつれて、空気が密度を増していく。まるで水中にいるようだ。時間の粒子が停滞し、固着しかけているのだ。
「これなんです」
陽菜が指さしたのは、店の中心に置かれた大きな古時計だった。黒光りする木製の胴体に、曇った真鍮の振り子がぶら下がっている。
僕はそっとその胴体に手を触れた。冷たい木の感触の奥に、微かな温もりの残滓を感じる。目を閉じ、意識を集中させる。僕の体が、記憶を呼び覚ますための器となる。
――視界に、柔らかな光が灯った。幼い陽菜の手を、しわくちゃの温かい手が包んでいる。祖母だ。
「いいかい、陽菜。時間はね、ただ流れるだけじゃない。大切な思い出を未来に運んでくれる、優しい乗り物なんだよ」
祖母の声が、錆びついた歯車を磨くように響く。彼女は小さなドライバーを陽菜の手に握らせ、時計の裏蓋を開けて見せた。無数の歯車が噛み合う、小さな宇宙。その光景に目を輝かせる幼い陽菜の「感動」が、僕の全身を駆け巡った。
ふっと意識が現実に戻る。僕の指先は、もうほとんど見えなくなっていた。
「蓮さん!」
陽菜が息を呑む。彼女の目には、僕の姿が一瞬、陽炎のように揺らいで見えたのだろう。だが、それと引き換えに、店の空気を縛り付けていた重圧が、確かに少しだけ和らいでいた。止まっていた幾つかの時計の針が、微かに震えた気がした。
第三章 時の残響
「思い出しました。祖母はいつもそう言っていました……」
陽菜の頬を、一筋の涙が伝った。彼女の心に再構築された絆が、新たな感動を生み出す。その感動の波紋が、停滞していた時間の粒子を揺り動かし、活性化させていくのが分かった。店の隅で埃をかぶっていた小さな鳩時計が、か細く、しかし確かに「ポッポー」と鳴いた。
しかし、安堵は束の間だった。店の外に広がる無時間地帯の気配は、根絶されたわけではない。僕が再構築した絆は、あくまで一時しのぎに過ぎなかった。もっと根源的な何かが、この世界の時間を停滞させている。人々から感動を奪い、絆を忘れさせている元凶が。
僕は、世界中で拡大する無時間地帯について、これまで集めた資料を広げた。その中心地は、例外なく、かつて大きな感動が生まれた場所だった。劇場、教会、広場……そして、この街で最初に無時間地帯が確認されたのは、丘の上に立つ古い天文台だった。星に焦がれる人々の夢と感動が、かつてはそこに満ちていたはずだ。
「そこへ行かなければならない気がする」
僕の呟きに、陽菜が顔を上げた。彼女は、僕の存在が刻一刻と希薄になっていることに気づいていた。その瞳には、不安と、そして僕を一人にはしないという強い意志が宿っていた。
「私も行きます。蓮さんだけの犠牲になんてさせません」
僕たちは、街を見下ろす丘の上の、沈黙した天文台へと向かうことを決めた。
第四章 無時間地帯の中心へ
天文台へと続く坂道は、異様な静寂に包まれていた。風の音も、鳥の声も、葉擦れの音すらしない。世界から音が奪われ、色が褪せていく。ここは、未来への時間が完全に断絶された場所だ。
陽菜は僕の少し後ろを、僕の輪郭を見失わないように必死についてくる。彼女の存在だけが、この無彩色の世界で唯一の温もりだった。
巨大なドームを持つ天文台の内部は、荘厳な墓場のようだった。巨大な望遠鏡が天の一点を指したまま静止し、床には塵一つない。時間が止まっているのだから、当然だ。
ドームの中央、かつて星図が投影されたであろう台座の上に、それはあった。
一切の時を刻んでいない、透明なガラスでできた砂時計。
中の砂はすべて下の球に落ちきっており、空っぽに見えた。しかし、その佇まいは奇妙な存在感を放っている。陽菜が息を呑むのが分かった。僕もまた、その砂時計に強く引きつけられていた。ここが、全ての始まりの場所なのだと、魂が告げていた。
僕は覚悟を決めた。震える指を伸ばし、その冷たいガラスに、そっと触れた。
第五章 創造主の最後の感動
触れた瞬間、世界が砕け散った。
僕の意識は、時間も空間も超えた奔流に飲み込まれた。星々が生まれ、銀河が渦を巻く。生命が芽吹き、進化していく。果てしない孤独と、無限の慈愛に満ちた、巨大な一つの意識。それは、この世界を創造した存在の記憶だった。
創造主は、自らが創り出した世界が、やがて熱的死を迎え、無に帰すことを知っていた。未来を、無限の可能性を与えるために、創造主は最後の決断を下した。
自らの「存在」そのものを、純粋な「感動」のエネルギーに変換し、世界に注ぎ込む。それが、時間の粒子を活性化させ、過去を未来へと繋ぐ力となったのだ。
僕が見たのは、その最後の瞬間の記憶。創造主が、これから生まれるであろう全ての命へ、全ての愛へ、全ての喜びと悲しみへ向けた、名もなき、しかし絶対的な「絆」の記憶だった。それは、見返りを求めない、究極の自己犠牲の感動だった。
そして、僕は悟った。
僕のこの力は、世界に散らばった創造主の力の欠片。僕が再構築してきた数多の「忘却された絆」は、すべてこの根源的な愛の変奏だったのだ。そして、何よりも衝撃的だったのは――僕という「存在の輪郭」そのものが、創造主が最後に放ったこの絆の光、その一片から形作られていたという事実だった。
僕は、最初から、この最後の絆を再構築するために生まれてきたのだ。
第六章 記憶の守護者
意識が現実のドームに戻る。僕の体は、ほとんど光の粒子と化し、輪郭を失っていた。隣で、陽菜が涙を浮かべて僕を見つめている。彼女には、僕に流れ込んだ記憶の奔流が、その意味が、伝わっているようだった。
選択の時は来た。
この創造主の最後の絆を完全に再構築すれば、世界は救われる。停滞した時間は再び流れ出し、人々は感動を取り戻すだろう。だが、僕の「蓮」という個の存在は、完全に消滅する。この根源的な絆という概念そのものと融合し、世界に溶けていく。
僕は、光の粒子でできた顔で、陽菜に微笑みかけた。もう声は出なかったが、唇が動く。
『ありがとう』
陽菜が、小さく頷く。その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちたが、彼女もまた、微笑んでいた。
僕は向き直り、空っぽの砂時計を両手で抱きしめた。そして、僕の存在の全てをかけて、最後の絆を再構築する。
――世界に、温かい光が満ちていく。
それは夜明けの光よりも優しく、陽だまりの温もりよりも深い、慈愛に満ちた光だった。天文台の巨大な望遠鏡が、ぎしり、と音を立ててゆっくりと動き出す。止まっていた街の時計という時計が、一斉に未来へと針を進め始めた。無時間地帯が、春の雪のように溶けて消えていく。
陽菜の目の前で、僕の光の粒子はふわりと舞い上がり、ドームの隙間から差し込む朝日に溶け込んで、消えた。
けれど、彼女はもう悲しくはなかった。頬を撫でる風の中に、遠くから聞こえてくる街のざわめきの中に、人々の笑い声の中に、その全てに、蓮の温かさを感じられたから。
僕は消滅したのではない。全ての絆の記憶を宿し、世界を静かに見守る「記憶の守護者」となったのだ。誰かが誰かを想うとき、新たな感動が生まれるとき、そこに僕はいる。
陽菜の足元で、全て流れ落ちて空っぽだったはずの砂時計の中で、一粒の光が、まるで新しい星が生まれたかのように、永遠の輝きを放ち始めた。それは、世界が再び未来へと歩き出す、始まりの合図だった。