星降る夜の、最後の栞

星降る夜の、最後の栞

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第一章 沈黙の訪問者と開かれない頁

神保町の古書店街から少し離れた路地裏に、僕の店『時の栞』はひっそりと佇んでいる。埃とインクの匂いが染みついた空間で、僕は本の背骨に守られるようにして生きていた。客との会話は最低限。レジでの会計以外、自ら口を開くことは滅多にない。人々は僕を、本を愛しすぎた偏屈な店主だと思っているようだが、本当は違う。僕はただ、人と深く関わることが怖かった。失うことの痛みが、心の古傷みたいに、不意に疼くからだ。

その少女が初めて店に現れたのは、金木犀の香りが街を支配し始めた九月の終わりのことだった。歳の頃は十歳くらいだろうか。色素の薄い髪を肩まで伸ばし、大きな瞳には、年齢に不釣り合いな静かな光が宿っていた。彼女は、入ってくるなり迷うことなく、店の奥にある絵本コーナーへと向かった。そして、一冊の絵本を手に取ると、隅の小さな椅子に腰掛け、ただじっとその表紙を眺め始めた。

『星降る夜の約束』。褪せた水色の表紙に、銀の箔押しで星空が描かれた、決して珍しくはない海外の翻訳絵本だ。しかし、僕にとってその本は、世界に一冊しかない宝物だった。

彼女は、毎日同じ時間にやってきては、同じ行動を繰り返した。頁を開くことは一度もない。ただ、表紙の、銀色の星々を指でなぞり、何かを確かめるように俯いている。買っていく素振りも見せない。その沈黙の訪問は、僕の静謐な日常に、小さな、しかし無視できない波紋を広げていった。

ある日、僕はついに我慢できなくなり、彼女が帰った後、その絵本を手に取った。表紙をめくった見返し部分。そこには、目を凝らさなければ見えないほどの小さなインクの染みがあった。それは、僕が高校生の頃、親友の和樹と一緒に、ふざけて万年筆のインクを飛ばしてしまった跡だ。染みは、偶然にも小さな鳥のような形をしていた。「これは俺たちの秘密の渡り鳥だな」と、和樹は笑った。

その渡り鳥は、僕たちが袂を分かったあの日から、飛び立つことなく、ずっとこの頁に留まっている。

和樹は、もうこの世にいない。

僕の胸が、きりりと痛んだ。なぜこの少女は、僕と和樹しか知らないはずの、この一冊に固執するのだろう。苛立ちと、正体の知れない好奇心が、僕の中で渦を巻き始めていた。閉ざしたはずの過去の扉が、少女の小さな手によって、ぎしりと音を立ててこじ開けられようとしていた。

第二章 色褪せた約束のインク

一週間が過ぎても、少女の訪問は続いた。僕の心は、日に日にかき乱されていく。彼女の瞳に見える静かな光は、僕の罪悪感を映す鏡のようだった。僕は、逃げるように生きてきた。和樹との最後の記憶から。

あの日、僕らは些細なことで口論になった。進路のこと、将来の夢のこと。互いの言葉が刃となって、築き上げてきた友情をずたずたに切り裂いた。「お前とはもう会わない」。僕が吐き捨てたその言葉が、和樹との最後の会話になった。その二週間後、彼は交差点で事故に遭い、あっけなく星になった。僕の言葉は、取り消すことのできない呪いとして、僕自身に深く刻み込まれた。

「……あの」

不意に声をかけられ、僕は思考の淵から引き戻された。声の主は、カウンターの前に立つ少女だった。いつもは黙って帰る彼女が、初めて僕に話しかけてきたのだ。

「その本、どうして売ってくれないんですか」

真っ直ぐな瞳が僕を射抜く。僕は言葉に詰まった。非売品にした覚えはない。ただ、誰にも買ってほしくなくて、無意識に棚の奥へと押しやっていただけだ。

「……どうして、その本が欲しいんだい?」

僕は、絞り出すように尋ねた。

少女は少し俯き、小さな声で答えた。「お母さんの、思い出の本だからです」

「お母さんの?」

「はい。お母さんは、よくこの絵本の話をしてくれました。昔、とっても大切な人が持っていた本だって。表紙をめくったところに、小さな鳥の染みがあるんだって……」

心臓が大きく跳ねた。まさか。そんな偶然があるはずがない。

「お母さんは、ひと月前に、病気で……」

少女はそれ以上、言葉を続けられなかった。ただ、僕の手元にある絵本を、潤んだ瞳で見つめている。その瞳は、何かを失った者だけが持つ、深い哀しみの色をしていた。僕がずっと抱えてきた色と同じだった。

彼女の母親は、一体誰なんだ。和樹との関係は?

僕の中で、疑問が次々と湧き上がる。だが、それ以上に、少女の姿が、かつて親友を失った自分自身の姿と重なって見えた。僕は、彼女から目を逸らすことができなかった。錆びついていた心の歯車が、軋みながらも、ゆっくりと回り始めるのを感じていた。

第三章 星降る夜の真実

次の日、少女は店に来なかった。その次の日も。

あれほど固執していた絵本を諦めたのだろうか。いや、違う。あの瞳は、諦める者のそれではない。言いようのない不安が僕を襲った。僕は、彼女がぽつりと漏らした母親の苗字と、古いアパートの名前だけを頼りに、店を閉めて街へ出た。

探し当てたアパートは、僕の店からほど近い、古い木造の建物だった。チャイムを鳴らすと、白髪の混じった初老の女性が、訝しげな顔でドアを開けた。少女の祖母だろうか。

「あの、先日お孫さんからお話を伺った、古書店の者ですが……」

僕が名乗ると、女性の表情がわずかに和らいだ。「ああ、あなたが……。陽菜がいつもお邪魔しているそうで、すみません」

陽菜、というのが少女の名前らしい。僕は、彼女が来なくなったことを告げ、心配で訪ねてきたと伝えた。祖母は僕を部屋に招き入れ、重い口を開いた。

「あの子の母親……私の娘ですが、亡くなる直前まで、一冊の絵本を探しておりまして。兄の形見だった、と」

「お兄さん……?」

「ええ。もう十五年以上も前になりますが、事故で亡くした息子です。名前は、和樹といいました」

和樹。その名を聞いた瞬間、僕の周りの世界の音が、すべて消えた。息ができない。祖母が語る言葉が、遠いどこかから響いてくるようだった。

陽菜の母親は、和樹の妹だったのだ。僕がその存在すら、おぼろげにしか知らなかった、彼の妹。

「息子は亡くなる少し前、親友と喧嘩をしてしまったと、ひどく落ち込んでいました。自分の気持ちを分かってもらえなかった、でも、自分も酷いことを言ってしまった、と。……仲直りをするんだと言って、その親友のために、プレゼントを用意していたんです」

祖母は、小さな木箱を僕の前に差し出した。震える手で蓋を開けると、中には、色褪せた一通の手紙と、例の絵本『星降る夜の約束』がもう一冊入っていた。僕の店にあるものとは別の、染みのない綺麗な絵本が。

手紙を手に取る。それは、紛れもなく和樹の字だった。

『蒼へ。

この間は、悪かった。お前の言うことも分かる。ただ、俺は、お前と一緒に夢を追いかけたかったんだ。

この絵本、覚えてるか? 俺たちの渡り鳥がいる、あの本屋で見つけたんだ。お前はあっちを持ってるから、俺はこっちを買った。いつか、俺たちの子供に読んでやるんだ。お互いの子供が、俺たちみたいに親友になれたら最高だよな。

また、馬鹿な話をしに、お前の店に行く。だから、店、ちゃんと開けとけよ。

和樹』

涙が、手紙の上にぽたぽたと落ちた。

知らなかった。和樹が、こんな想いを抱えていたなんて。彼は僕を許し、未来を夢見てくれていた。事故の日、彼はきっと、この絵本を手に、僕の店へ向かっていたのだ。僕が吐き捨てた「もう会わない」という言葉を、彼の優しさで打ち消すために。

僕はずっと、自分だけが被害者だと思っていた。自分の痛みだけに囚われ、彼が伸ばしてくれていた手を見ようともしなかった。僕の罪悪感は、なんて独りよがりで、傲慢なものだったのだろう。

「娘は、兄のこの想いを、そのご友人にどうしても伝えたかったようなんです。でも、どこの誰かも分からず……ずっと探し続けていました。やっとあなたのお店を見つけ出した矢先に、病気が……。陽菜は、母の遺志を継ごうとしていたんです」

僕は、顔を上げることができなかった。嗚咽が漏れる。十五年という歳月をかけて、和樹の想いが、巡り巡って僕の元へ届けられた。あまりにも残酷で、そして、あまりにも優しい真実だった。

第四章 時の栞が示す未来

僕は、店から持ってきた『星降る夜の約束』を、陽菜の祖母に差し出した。

「これを、陽菜ちゃんに……。これは、和樹と僕、二人の本です」

その夜、僕は店に戻り、カウンターで夜を明かした。和樹の手紙を何度も読み返し、涙が枯れるまで泣いた。夜空には、絵本と同じ、満天の星が輝いていた。まるで和樹が、そこから僕を見ているようだった。

数日後、陽菜がひょっこりと店に顔を出した。その手には、僕が渡した絵本が大事そうに抱えられている。

「おばあちゃんから、全部聞きました」

陽菜は静かに言った。

「桐島さんも、寂しかったんですね」

その言葉に、僕は堰を切ったように話し始めた。和樹との思い出、喧嘩した日のこと、僕の後悔、そして、彼がどれほど大切な親友だったか。陽菜は、僕の話をただ黙って聞いていた。そして、すべてを話し終えた僕に、ふわりと微笑んだ。

「お母さんも、和樹おじさんも、きっと空の上で喜んでいます。やっと会えたねって」

その笑顔は、僕を縛り付けていた十五年分の呪いを、優しく解き放ってくれるようだった。痛みは消えない。後悔がなくなるわけでもない。でも、それはもう、僕を苛むだけの棘ではなくなっていた。和樹の優しさと、陽菜の母親の想い、そして陽菜自身の真っ直ぐな心が、痛みを温かい光で包み込んでくれたのだ。

季節は巡り、街に冬の匂いが満ちる頃には、陽菜は『時の栞』の常連になっていた。学校帰りに立ち寄り、僕の淹れたココアを飲みながら、学校であったことを話していく。僕はもう、人と関わることを恐れてはいなかった。失う痛みを知っているからこそ、今ここにある繋がりの温かさを、大切にできると知ったからだ。

店の入り口の古い看板の隣に、僕は小さな木彫りの栞を吊るした。それは、手先が器用だった和樹を真似て、僕が初めて彫ったものだ。不格好な渡り鳥の形をした栞は、風に揺れるたび、カラカラと優しい音を立てる。

それは、過去と未来を繋ぐ、時の栞。

窓から差し込む柔らかな西日が、僕と陽菜、そして本棚に眠る数多の物語を、等しく照らしていた。星降る夜の約束は、形を変え、時を超えて、今、確かにここに息づいている。物語は終わらない。誰かの想いを受け取った者がいる限り、それは新しい頁を開き、続いていくのだ。

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