忘却屋と琥珀色の追憶

忘却屋と琥珀色の追憶

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第一章 苦い記憶と甘い記憶

俺の仕事は、人の記憶を買い取ることだ。客は忘れたい過去を差し出し、俺はそれに値段をつけて現金と引き換える。人は俺たちのような人間を、畏怖と少しの軽蔑を込めて「忘却屋(メモリア・ブローカー)」と呼ぶ。

古びた革張りの椅子が並ぶ俺の店は、アンティークショップのような佇まいをしている。壁一面の本棚には、買い取った記憶を封じ込めた小瓶が、まるで年代物のワインのように整然と並んでいた。客は皆、一様に俯き、消え入りそうな声で自らの記憶を語る。失恋の痛み、事業の失敗、取り返しのつかない過ち。それらの記憶は、俺の舌の上で、それぞれの物語にふさわしい味を帯びるのだ。

俺は買い取った記憶を、特殊な装置を使って液体に抽出し、テイスティングする。それが仕事の最終工程だった。裏切りの記憶は錆びた鉄の味がし、後悔の記憶は喉を焼く煙のように苦い。俺はそれらの味を記録し、分類し、小瓶に詰めて地下の貯蔵庫へ仕舞う。感情が摩耗した俺にとって、それは単なる味覚情報のデータ化に過ぎなかった。少なくとも、あの日までは。

その日、店のドアベルを鳴らしたのは、背中の曲がった小柄な老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い年月を物語っている。彼女は震える手で、一枚の古ぼけた写真をカウンターに置いた。夕焼けに染まる海辺で、若い女性が小さな男の子の手を引いて笑っている。

「この記憶を、買い取っていただけますか」

老婆の声は、乾いた葉が擦れ合うようにか細かった。

「忘れたい理由をお聞かせ願えますか。査定に関わりますので」

俺は事務的に問いかけた。大抵の客は、ここで堰を切ったように話し始める。しかし、老婆は静かに首を横に振った。

「理由は、ございません。ただ……忘れたいのです。私にとって、一番大切な記憶だからこそ」

一番大切な記憶を、忘れたい。その矛盾した言葉に、俺は初めて客に対して微かな興味を覚えた。

「結構です。では、始めましょう」

俺は老婆を店の奥の施術室へ案内した。ヘッドギアを装着した彼女が目を閉じると、モニターにノイズ混じりの映像が浮かび上がる。琥珀色に輝く夕日、潮の香り、肌を撫でる優しい風、そして幼い子供の笑い声。映像は断片的だったが、そこには圧倒的な幸福感が満ち溢れていた。

抽出された記憶は、小瓶の中で夕焼けと同じ琥珀色に揺らめいていた。俺は老婆に、破格の値段を提示した。彼女は何も言わず、深々と頭を下げると、覚束ない足取りで店を去っていった。

その夜、俺は一人、書斎でその琥珀色の液体をグラスに注いだ。普段はスポイト一滴で済ませるテイスティングを、なぜか今夜はゆっくりと味わいたい気分だった。グラスを傾け、液体を口に含む。

その瞬間、俺の世界は一変した。

それは、これまで味わったどの記憶とも違っていた。舌の上に広がったのは、焼きたての蜂蜜をかけたパンケーキのような、懐かしくて優しい甘さ。鼻腔をくすぐる潮風と陽だまりの香り。そして、心の奥底、凍てついていたはずの何かが、ポッと小さな火を灯されたような、温かい感覚。俺は、生まれて初めて「感動」という感情の味を知ったのかもしれない。その甘美な味は、俺の空っぽだった心を、静かに、しかし確実に侵食し始めた。

第二章 琥珀色の残響

琥珀色の記憶を味わって以来、俺の日常は微妙に狂い始めた。朝、窓から差し込む光が、以前よりもずっと優しく感じられる。街角で流れるクラシック音楽の旋律に、わけもなく胸が締め付けられる。それは、あの記憶の断片にあった、母親らしき女性が口ずさんでいたメロディだった。

忘却屋の仕事にも支障が出始めた。客が語る悲痛な記憶を味わうたびに、以前は感じなかった鈍い痛みが胸に走るのだ。錆びた鉄の味は、もはや単なる情報ではなく、誰かの心の出血そのものとして感じられた。煙のように苦い後悔は、俺自身の喉を焼き、呼吸を苦しくさせた。感情の摩耗したフィルターが剥がれ落ち、他人の痛みがダイレクトに流れ込んでくる。

俺は苛立ち、地下の貯蔵庫に籠もった。壁一面に並ぶ、他人の過去。その一つ一つの小瓶が、無数の人生の墓標のように見えた。俺は、あの琥珀色の小瓶を手に取った。もう一度味わえば、この不可解な感覚の正体がわかるかもしれない。

再び口に含んだ記憶は、やはり温かく、そして切ないほどに甘かった。

―――カイト、見てごらん。お空が燃えているみたいね。

不意に、脳内に直接、優しい声が響いた。カイト。それは、俺の名前だった。

映像が鮮明になる。小さな手が、温かい大きな手に包まれている。見上げると、逆光の中に微笑む女性の顔があった。顔の輪郭はぼやけているが、その声が、眼差しが、絶対的な愛情に満ちていることだけは分かった。

「……誰だ」

俺は無意識に呟いていた。この記憶は、俺のものではない。老婆のものだ。なのに、なぜこれほどまでに懐かしく、まるで自分が体験したことのように感じるのか。琥珀色の残響は、俺の中で増幅し、俺自身の記憶との境界線を曖昧にしていく。

俺は、生まれて初めて、買い取った記憶の「その後」を知りたくなった。あの老婆は今、どうしているのだろう。一番大切な記憶を失い、平穏に暮らしているのだろうか。それは忘却屋の掟を破る行為だった。我々は客のプライバシーに干渉しない。それが暗黙のルールだ。

しかし、俺を突き動かす力は、もはや単なる好奇心ではなかった。それは、失われた半身を探し求めるような、根源的な渇望だった。

俺は店のカウンターの裏から、老婆が署名した契約書を引っ張り出した。そこに記された住所は、この街から少し離れた海辺の町だった。俺はコートを羽織り、店の扉に「臨時休業」の札をかけると、夜の街へと駆けだした。琥珀色の記憶が、俺を導いているかのように。

第三章 空白の頁

海辺の町は、記憶の中の風景と同じ、穏やかな潮の香りに満ちていた。契約書に記された住所は、古びた平屋建ての家だった。庭には手入れの行き届いた花壇があり、優しい生活の気配が漂っている。俺は深呼吸を一つして、玄関のドアをノックした。

ドアを開けたのは、二十代くらいの若い女性だった。俺が老婆―――サチコさんという名前の女性を訪ねてきたことを告げると、彼女は訝しげな表情を浮かべたが、やがて何かを察したように俺を家の中へ招き入れた。彼女はサチコさんの孫娘だという。

「祖母なら、あそこに」

彼女が指差した縁側には、車椅子に座ったサチコさんが、ただぼんやりと海を眺めていた。その瞳は虚ろで、俺が店で会った時のかすかな光さえも失われているように見えた。

「あの…祖母は、アルツハイマー型認知症なんです。病気の進行が早くて、もう、ほとんどのことは……私のことも、時々わからなくなります」

孫娘は声を詰まらせた。

俺はサチコさんに近づき、声をかけた。しかし、彼女は何の反応も示さない。記憶を売ったことで、彼女の心は完全に空白になってしまったのだろうか。だとしたら、俺がしたことは、彼女の魂を奪う行為だったのではないか。罪悪感が鉛のように俺の腹に沈んだ。

俺が失意のうちに帰ろうとした時、孫娘が俺を呼び止めた。

「あなたが来るような気がしていました。祖母が、これを。『忘却屋さん』と名乗る人が来たら、渡してほしい、と」

彼女が差し出したのは、一冊の分厚い日記帳だった。表紙には『私の宝物へ』とだけ記されている。

俺は近くの公園のベンチに座り、震える手で日記を開いた。そこに綴られていたのは、サチコさんの人生そのものだった。そして、ページをめくるうちに、俺は呼吸を忘れた。

日記には、彼女の一人息子、『カイト』の成長が、愛情に満ちた言葉で綴られていた。初めて立った日、初めて話した言葉、そして、夕焼けの海辺を二人で散歩した日のこと。それは、俺が味わった琥珀色の記憶、そのものだった。

そして、最後の方のページに、衝撃的な事実が記されていた。

カイトが八歳の時、交通事故に遭ったこと。奇跡的に命は助かったが、脳に損傷を負い、事故以前の記憶、特に母親に関する記憶だけを綺麗に失ってしまったこと。そして、感情の起伏が乏しくなってしまったこと。

『あの子の中から、私が消えてしまった。あの子を愛した記憶は、私の中にだけある。でも、それもいつか、この病が汚してしまうだろう。ならば、いっそ。一番美しい記憶のまま、あの子に託そう。あの子が忘れてしまった、あの子自身の宝物を、いつかあの子自身が見つけられるように』

日記を持つ手が、震えていた。俺が失っていた過去。俺が買い取った記憶。俺が追い求めていた琥ăpadă色の追憶は、すべて、俺自身のものだったのだ。

母親は、病で歪んでしまう前に、最も純粋な愛情の記憶を、息子の俺に手渡してくれた。忘却屋になった俺に。それは、偶然ではなかった。彼女は、俺が自分の記憶を探し求めていることを、魂のどこかで感じ取っていたのかもしれない。

忘れていたはずの涙が、頬を伝って日記のページに染みを作った。それは、とても温かくて、しょっぱい味がした。

第四章 再会

全てのピースがはまった時、俺の心に流れ込んできたのは、堰を切った激流のような感情だった。失われたと思っていた愛情、忘れていた温もり、そして、母親の深い愛に対する感謝。感情が乏しいと思っていたのは、ただ、その感じ方を忘れていただけだったのだ。俺は、空っぽではなかった。

俺は再び、母の家へと走った。

縁側に座る母は、先ほどと変わらず、ただ静かに海を見つめている。俺は彼女の前にひざまずき、その皺の刻まれた冷たい手を、そっと両手で包み込んだ。

「母さん。ただいま」

俺の声は震えていた。しかし、彼女の瞳は虚ろなまま、俺を映してはいない。もう、彼女の中には、息子という存在は残っていないのかもしれない。絶望が胸をよぎる。

それでも、俺は諦めなかった。俺は、母が俺に託してくれた記憶を、今度は俺が母に返す番だと思った。

俺は静かに、あのメロディを口ずさみ始めた。琥珀色の記憶の中で、母が俺に歌ってくれた子守唄。拙いハミングだったが、俺は心を込めて歌った。

すると、奇跡が起きた。

母の虚ろだった瞳が、わずかに揺れた。焦点が合い、真っ直ぐに俺の目を見つめる。その瞳の奥に、懐かしい光が宿った。そして、一筋の涙が、深い皺を伝って流れ落ちた。

「……かい…と……?」

消え入りそうな、しかし確かな声で、彼女は俺の名前を呼んだ。

言葉にはならなかった。俺はただ、何度も頷き、母の手を強く握りしめた。記憶は失われても、魂に刻まれた愛は、決して消えることはない。俺たちは、言葉も時間も超えて、確かに再会したのだ。

俺は忘却屋を辞めた。地下貯蔵庫に眠っていた無数の記憶は、然るべき機関に委託し、持ち主の元へ返せるよう手配した。もう、誰かの記憶を奪う必要はない。

俺は母のそばで、新しい日々を生きることにした。母の記憶が戻ることはないかもしれない。明日には、また俺のことを忘れてしまうかもしれない。

それでも、良かった。

俺たちは毎日、あの海辺を散歩する。夕日が世界を琥珀色に染める頃、俺は母の手を引く。母は何も覚えていないけれど、俺が子守唄を口ずさむと、決まって少女のように微笑むのだ。

記憶は、売買する商品じゃない。失われた過去を嘆くためのものでもない。それは、未来を紡いでいくための、温かい光なのだ。

俺は母の隣で、空っぽだった心が、温かい琥珀色の光で満たされていくのを感じていた。

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