***第一章 忘却屋と奇妙な依頼***
湊(みなと)の仕事場は、古いビルの三階、埃と古書の匂いが混じり合う一室にあった。看板はない。客は皆、口コミだけを頼りに、この「忘却屋」の錆びついた鉄の扉を叩く。湊の仕事は、人の記憶を買い取ることだ。トラウマ、後悔、恥辱。人々が捨てたいと願う記憶の断片を、湊は専用の機械で抽出し、代わりにいくばくかの金銭を渡す。忘れたい記憶は、デジタルデータでもなければ、映像記録でもない。それは「感情の澱(おり)」として抽出され、湊の身体に流れ込んでくる。そして、その代償として、湊自身の記憶が一つ、ランダムに消去される。忘却は、忘却によってしか支払われない。それが、この世界の等価交換の法則だった。
「こんにちは」
ある雨の日の午後、扉が静かに開いた。現れたのは、品の良い薄紫色の和服をまとった、小柄な老婆だった。銀色の髪は綺麗に結い上げられ、その皺の一本一本に、穏やかながらも揺るぎない意志が刻まれているように見えた。
「いらっしゃいませ。依頼は?」
湊は無愛想に、事務的に尋ねた。感情に深入りすれば、自分の中の何かが削られていく。だから彼は、常に客と心の間に分厚い壁を築いていた。
老婆はゆっくりと椅子に腰かけると、まっすぐに湊の目を見た。その瞳は、深い湖のように澄んでいた。
「私の記憶を、一つ買い取っていただきたいのです」
「内容は?」
「夫との、最も幸せだった日の記憶です」
湊の動きが、一瞬止まった。鉛筆を握った指先に、微かな痺れが走る。ほとんどの客は、人生の汚点とも言うべき記憶を消したがってここに来る。借金の保証人になった後悔、恋人に裏切られた絶望、人前で犯した許されざる過ち。幸せな記憶を売りに来た者など、これまで一人もいなかった。
「……冗談でしょう。うちはゴミ捨て場であって、宝物庫じゃない」
「本気ですわ。私にとっては、今やそれが一番重たいのです」
老婆は静かに微笑んだ。その笑みは、まるでひび割れたガラス細工のように、痛々しくも美しかった。
「最高の値で買い取ってくださると聞きました。私、貯えは十分にございますの」
金の話が出たことで、湊は我に返った。訝しみながらも、彼は頷く。仕事は仕事だ。客の動機に興味はない。そう自分に言い聞かせた。
「分かりました。では、準備をします。お名前は?」
「千代と申します」
千代と名乗る老婆の依頼は、湊の心に奇妙な波紋を広げた。なぜ、人は最も美しい思い出を手放そうとするのだろうか。その問いは、雨音に混じって、湊の空虚な仕事部屋にいつまでも響いていた。
***第二章 色褪せる幸福と温かな追憶***
記憶の抽出は、翌日に行われることになった。湊は店の奥にある施術室へ千代を案内する。部屋の中央には、歯科医院の椅子に似たリクライニングチェアと、それに繋がる古めかしい機械が鎮座していた。無数の真空管とダイヤルが並び、微かな動作音を立てている。
「こちらへどうぞ」
千代は臆することなく椅子に腰掛け、湊が銀色のヘッドギアを彼女の頭に装着するのを黙って見ていた。ヘッドギアから伸びるケーブルが、機械へと繋がっている。
「少し、冷たいですよ」
湊が告げると、千代は小さく頷いた。
「対象となる記憶を、できるだけ鮮明に思い出してください。夫と過ごした、最も幸せだった日を」
湊は機械のコンソールに向き直り、ダイヤルを調整する。すると、目の前のモノクル型のスクリーンに、ノイズ混じりの映像が浮かび上がった。それは千代の脳内にある記憶の風景。感情の澱を抽出する過程で、その記憶は視覚情報として一時的にモニターされるのだ。
スクリーンに映し出されたのは、穏やかな春の日だった。桜並木の下を、少し若い千代と、人の良さそうな笑顔を浮かべた夫が歩いている。二人の手は固く繋がれ、交わされる会話は聞こえないが、その表情だけで幸福が満ち溢れているのが分かった。手作りのお弁当を広げ、笑い合う姿。縁側で並んでお茶を飲み、夕陽に染まる空を眺める背中。それはどこにでもある、ありふれた、しかし、かけがえのない一日だった。
湊は、その温かな光景から目が離せなかった。自分の記憶には、もうこんなにも純粋な幸福の色合いは残っていない。仕事を重ねるたびに、自分の誕生日を祝ってくれた両親の顔はぼやけ、初めて自転車に乗れた日の高揚感は消え、友と夜通し語り明かした日の熱気は失われた。他人の不幸を吸い取るたびに、自分の幸福が削られていく。それがこの仕事の宿命だった。
抽出プロセスが始まった。機械が低く唸り、千代の記憶から「幸福」という感情の澱が、光の粒子となってケーブルを伝い、湊の中へと流れ込んでくる。それは、まるで温かい陽だまりに包まれるような、心地よくも切ない感覚だった。そして、その光が湊を満たした瞬間、等価交換の原則が発動する。
湊の脳裏から、一つの情景がふっと掻き消えた。それは、幼い頃、熱を出した自分のために、母親が夜通し看病してくれた記憶だった。林檎のすりおろしの甘酸っぱい味、冷たいタオルの感触、子守唄を歌う優しい声。それらが、まるで古びたフィルムが焼き切れるように、跡形もなく消え去った。代わりに残ったのは、理由の分からない虚しさと、心にぽっかりと空いた穴だけだった。
「……終わりました」
湊は汗ばんだ手でヘッドギアを外し、感情の抜け落ちた声で告げた。千代はゆっくりと目を開ける。その瞳は、先ほどまでの湖のような深さを失い、どこか遠くを見ているようだった。
「ありがとうございました」
千代は静かに立ち上がると、約束の金額が詰められた分厚い封筒をテーブルに置いた。
「これで、私も……」
彼女は何かを言いかけて、唇を噛んだ。そして、湊に深く一礼すると、一度も振り返らずに部屋を出ていった。
一人残された部屋で、湊はスクリーンに映し出されたままの、千代の「元」記憶を眺めていた。桜並木の下で笑う夫婦の姿。それはもう千代のものではなく、湊が引き受けた記憶だった。温かいはずの光景が、自分の失われた記憶の代償だと思うと、ひどく冷たく、残酷なものに感じられた。
***第三章 等価交換の真実***
数日が過ぎても、湊の心は晴れなかった。千代から受け取った幸福な記憶は、確かに彼の中に存在している。しかし、それは借り物の温かさでしかなく、自分の記憶を失った喪失感を埋めるには至らなかった。それどころか、その記憶を見るたびに、自分の空虚さが際立つようで苦しかった。なぜ、あんなにも美しい記憶を、彼女は手放したのか。その疑問が、鉛のように心を重くしていた。
いてもたってもいられなくなり、湊は千代が封筒に記していた住所を頼りに、彼女の家を訪ねることにした。古い木造の平家で、庭には手入れの行き届いた草花が咲いていた。湊が呼び鈴を鳴らすと、中から現れたのは千代ではなく、四十代くらいの女性だった。
「あの、先日こちらにお住まいの千代さんにお世話になった者ですが……」
「母に? ……どうぞ、お入りください」
娘と名乗る女性に招き入れられ、湊は仏壇のある居間に通された。そこには、千代の記憶で見た、あの優しい笑顔の夫の写真が飾られていた。
「母は今、施設におりますの」
娘は静かにお茶を淹れながら言った。
「アルツハイマー病が、進んでしまって。もう、私のことも、自分のことも……ほとんど分からなくなってしまいました」
その言葉に、湊は息を呑んだ。
「先日、母があなたの所へ伺ったと聞きました。大金を払って、記憶を消してもらったと。一体、何を……」
娘が訝しげに尋ねる。湊は答えることができなかった。
その時、娘はふと何かを思い出したように、棚から一冊の古い日記帳を取り出した。
「これは、父が亡くなる少し前から、母がつけていた日記です。もしよろしければ……母を理解する手がかりになるかもしれません」
湊は促されるままに、日記帳を開いた。そこには、千代の震えるような文字で、夫への想いと、日に日に記憶を失っていく彼を見守る苦しみが綴られていた。
『あの方が、私の名前を忘れました。私の淹れたお茶を飲みながら、「あなたはどなたですか」と尋ねるのです。胸が張り裂けそうです』
『今日は、昔二人でよく歩いた桜並木に連れて行きました。あの方は、ただ綺麗な桜だと笑うだけでした。あの日のことを覚えているのは、もう私だけになってしまいました』
ページをめくる手が震えた。そして、最後の日記に書かれた一文に、湊は目を奪われた。
『あの方が全てを忘れてしまった世界で、私だけが幸せな記憶を抱えて生きるのは、あまりにも辛い。まるで、私だけが彼を過去に置き去りにしてしまったようです。私も、全てを忘れて、あの方と同じ場所へ行きたい。でも、もし私まで忘れてしまったら、私たちの生きた証は、この世界から完全に消えてしまう。……そうだ、一つだけ方法がある。「忘却屋」の噂は本当だろうか。彼ならば、私の記憶を「保存」してくれるかもしれない。私が忘れても、あの日の幸せが、どこかに残り続けるのなら……』
全身に鳥肌が立った。千代の目的は、忘却ではなかった。それは、究極の「保存」だったのだ。夫が失い、やがて自分も失うであろう記憶を、消える前に誰かに託すこと。自分が忘れた後も、自分たち夫婦が生きた証が、温かい記憶としてこの世界のどこかに残り続けること。それが彼女のたった一つの願いだった。
彼女は、記憶を消すための代金ではなく、その記憶を永遠に預けるための「信託料」として、あの金を支払ったのだ。そして、湊が自分の記憶を代償にしていることすら、おそらく見抜いていた。それでも彼女は、自分の最も大切な記憶を、心をすり減らしながら生きる見ず知らずの青年に託した。それは、あまりにも切なく、そして、あまりにも深い愛の形だった。
湊は日記を閉じ、窓の外を見た。あの日と同じように、雨が降り始めていた。しかし、その雨音はもう、空虚な響きではなかった。
***第四章 記憶の番人***
忘却屋の仕事場に戻った湊は、もう一度、あの機械の前に座った。そして、スクリーンに千代から買い取った記憶を映し出した。
桜並木の下で、寄り添って歩く夫婦。縁側で、穏やかに微笑み合う二人。以前は借り物のようで居心地の悪かったこの光景が、今は全く違う意味を持って見えた。これは、千代と彼女の夫が生きた証そのものだった。彼らの愛の結晶であり、湊に託された聖なる遺物だった。
湊は、自分の失われた記憶のことを思った。母親の温もり、友との誓い。それらはもう二度と戻らない。しかし、その代わりに、今、彼の心の中には千代の温かい記憶が確かにある。それは他人の記憶かもしれない。だが、その記憶に込められた想いの重さと尊さを知った今、それはもはや他人事ではなかった。
湊は、自分が単なる「忘却屋」ではなく、「記憶の番人」なのだと悟った。人々が捨てたいと願う不幸な記憶も、誰かが遺したいと願う幸福な記憶も、全ては誰かが生きた証だ。それらを引き受け、自分の記憶と引き換えに守り続ける。なんと孤独で、なんと崇高な仕事だろうか。
彼の内面を長年覆っていた、皮肉と虚無感の硬い殻が、音を立てて砕けていくのを感じた。空っぽになったと思っていた心に、千代から受け取った温かい光が、じんわりと満ちていく。それは、失った自分の記憶とは違う種類の、しかし確かな温もりだった。誰かの想いを引き継ぐことで得られる、新しい形の「幸福」だった。
湊は静かに立ち上がり、窓辺に立った。雨はいつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差し込む夕陽が、街を黄金色に染めている。彼はこれから、何人もの記憶を買い取り、そして自分の記憶を失い続けるだろう。だが、もう恐れはなかった。失うたびに、彼は何かを託される。その一つ一つが、彼の心を少しずつ豊かにしていくはずだから。
机の上に、千代の記憶が保存されたクリスタルのオブジェが、夕陽を受けて静かに輝いていた。それはまるで、小さな灯火のようだった。湊はそっとそれに触れる。ひんやりとした感触の奥に、確かに、あの日の桜並木の温かさが宿っている気がした。
湊は、初めて自分の仕事を誇りに思った。彼は記憶の番人として、これからもここで、失われた想いたちを守り続けていく。その胸には、託された者だけが知る、切なくも優しい光を灯しながら。
忘却屋と最後のリコレクション
文字サイズ:
この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?
あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。
0 / 200
本日、あと3回