レテ・オーシャンの灯台守

レテ・オーシャンの灯台守

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***第一章 忘却の海岸線***

意識が浮上したとき、最初に感じたのは肺を満たす潮の香りだった。それから、瞼の裏にちかちかと点滅する、優しくも奇妙な光。水沢湊(みずさわみなと)がゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見たこともない夜空だった。紫紺の天鵞絨(びろーど)を広げたような空には、白銀と黄金の二つの月が並んで浮かび、その双光が真下の海を照らしている。

「……どこだ、ここ」

掠れた声が自分のものとは思えなかった。体を起こすと、全身が砂にまみれていることに気づく。見渡す限り、寄せては返す波が燐光を放つ海岸線が続いている。現代日本のどこを探しても、こんな幻想的な場所があるはずがない。交通事故に遭ったはずだ。けたたましいブレーキ音、衝撃、そしてブラックアウト。それが最後の記憶。

「死んだのか、俺は」

自嘲気味に呟いたその時、不意に視界の端に巨大な影を捉えた。古びた石造りの灯台だ。風雨に晒され、蔦が絡みついたその姿は、まるで太古の巨人か墓標のように、静かに佇んでいた。その頂きだけが、二つの月とは異なる、温かな橙色の光を点滅させている。まるで、迷い人を手招きするように。

他に選択肢はなかった。湊はふらつく足取りで、その灯台を目指して歩き始めた。砂浜は歩きにくく、一歩進むごとに足が沈む。波の音だけが、この世界の唯一のBGMだった。

灯台の重厚な木の扉を叩くと、しばらくして、軋む音とともに内側から開かれた。現れたのは、深く刻まれた皺と、雪のように白い髭をたくわえた老人だった。老人は湊の姿を認めても、少しも驚いた様子を見せず、ただ静かな目で彼を見つめた。

「……目が覚めたかね」

老人の声は、長い間使われていない楽器のように、低く、少しだけ不器おちょこだった。
「あなたは……? ここは一体どこなんです?」
「わしか。わしは、ここの灯台守だ。名はカイとでも呼んでくれ」
老人はそう言うと、湊を中へと促した。「ここはレテ・オーシャン。忘却の海だ。そして、おぬしのような『忘れられた者』が流れ着く、終着点だよ」

忘却の海。忘れられた者。その言葉が、湊の胸に冷たい楔を打ち込んだ。自分が誰かに忘れられた? 家族は? 友人は? いや、違う。これは、死んだことの比喩表現なのだ。湊は、自分がもう二度と元の世界には戻れないという事実を、この穏やかすぎる海辺で突きつけられた。絶望が、燐光を放つ波のように、心の岸辺へと静かに押し寄せてきた。

***第二章 灯台守のメロディ***

カイとの奇妙な共同生活が始まった。灯台の中は、外見の古めかしさとは裏腹に、不思議な温かみに満ちていた。磨き上げられた木の床、壁一面に並ぶ古書、そして螺旋階段が最上階へと続いている。食事はいつもカイが用意してくれたが、それは決まって湊が懐かしいと感じる味だった。母がよく作ってくれた生姜焼き、風邪を引いた時に食べた卵粥。口にするたびに、忘れていたはずの記憶の断片が蘇り、湊の胸を締め付けた。

「どうして、俺の好きなものが分かるんですか」
ある晩、湊が尋ねると、カイはスープをかき混ぜながら静かに答えた。
「この世界の糧は『思い出』だ。おぬしが心のどこかで覚えている味が、ここに形を成す。それだけのことだ」

レテ・オーシャンは、あらゆるものが記憶と結びついていた。風が運ぶ香りは誰かが愛した花の記憶、遠くで聞こえる鐘の音は誰かが祝った祭りの記憶。ここは、忘れられた者たちの記憶の残滓で構成された世界だった。湊は元の世界への未練を捨てきれず、苛立ちと無力感に苛まれた。カイはそんな湊を責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ黙ってそばにいた。

カイは寡黙な男だったが、時折、灯台の窓から海を眺めながら、鼻歌を歌う癖があった。それは、どこか物悲しく、それでいて優しいメロディ。湊はその旋律に、なぜか聞き覚えがあるような、ないような、もどかしい感覚を覚えた。

「その歌、なんですか?」
「……さあな。いつからか、口をついて出るようになった。誰かがわしを忘れる前に、歌ってくれたのかもしれん」

カイはそう言って、寂しそうに笑った。その横顔に、湊は言いようのない既視感を覚える。それは、記憶の深い霧の向こう側にある、大切な何かを手繰り寄せようとするような感覚だった。

湊はこの世界に流れ着いて、もう幾つの月が満ち欠けしただろうか。時間の感覚は曖昧だった。元の世界への執着が薄れ始め、この静寂に慣れてきた自分に気づくと、ふと恐ろしくなる。俺も、このまま誰かを、何かを忘れて、この海の藻屑になるのだろうか。そんな思いが、鉛のように心を重くした。

***第三章 写真の中の真実***

その日、カイは食料――誰かの思い出の欠片――を採りに行くと言って、灯台を留守にした。湊は一人、螺旋階段を上り、窓から双月の光が差し込む書斎で時間を潰していた。ふと、視線が最上階へと続く、さらに細い階段へと向かう。そこはカイから「灯りを守るための大事な場所だから」と、立ち入りを固く禁じられている場所だった。

禁じられれば破りたくなるのが人の性というものだろうか。あるいは、この世界とカイという男の根源に触れたいという渇望だったのかもしれない。湊は吸い寄せられるように、その階段を上った。

最上階の小部屋は、灯台の心臓部である巨大なレンズがゆっくりと回転しているだけの、簡素な空間だった。しかし、その壁の一角に、小さな木製の額縁が一つ、ひっそりと飾られているのが目に入った。

湊はそれに近づき、息を呑んだ。

色褪せた一枚の家族写真。優しそうな笑顔の女性。その隣で、まだ幼い自分が彼女の手にしがみついている。そして、その二人を包み込むように肩を抱いている、一人の男。

その男の顔は、カイと瓜二つだった。いや、違う。皺の数と髭を除けば、カイその人だった。

写真の裏には、震えるような文字でこう記されていた。『湊、三歳の誕生日。父さんと母さんと』

頭を殴られたような衝撃。忘却の彼方に沈んでいた記憶の扉が、凄まじい勢いでこじ開けられる。そうだ、俺の父親。俺が幼い頃に海難事故で死んだと聞かされていた父さん。顔も、声も、思い出せないほど昔のことだと思っていた。でも、違った。忘れていたんじゃない。忘れてしまっていたんだ。

脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックする。公園で肩車をしてくれた大きな背中。一緒にお風呂で歌った、あのメロディ。そうだ、カイが口ずさんでいたあの歌は、父さんがいつも歌ってくれた歌だ。

湊が呆然と立ち尽くしていると、背後で階段の軋む音がした。振り返ると、そこには息を切らしたカイが立っていた。彼の目は、驚きと、深い哀しみに濡れていた。

「……見て、しまったのか」
「父さん……なのか……?」

湊の声は震えていた。カイ――いや、父、水沢航(わたる)は、ゆっくりと頷いた。

「湊……すまない。お前がここに流れ着いたと知った時、俺は……どうしていいか分からなかった。息子まで、この忘れられた者の終着点に来てしまったことが、辛くて……」

航は、事故で死んだ後、誰からも忘れられたわけではなかった。妻が、そして幼い湊が覚えていてくれたから、すぐにはこの世界には来なかった。しかし、時が経ち、湊が成長し、父の記憶が薄れていくにつれて、彼の存在は元の世界から希薄になり、ついにこのレテ・オーシャンに流れ着いたのだという。

「お前が覚えていてくれた思い出の味が、俺の糧だった。お前が忘れかけていた歌が、俺をここに繋ぎとめていた。それなのに……俺は、お前に名乗ることさえできなかった」

湊は、自分がどれほど残酷なことをしていたのかを悟った。父親を「忘れる」ことで、彼をこの孤独な世界に追いやった。そして、自分もまた死んでここに流れ着き、父に再び孤独を突きつけていたのだ。涙が、止めどなく頬を伝った。それは絶望の涙ではなく、長年の時を経て再会できた、温かい涙だった。

***第四章 君を忘れない***

父と息子は、失われた時間を取り戻すように語り合った。航は湊の成長した姿に目を細め、湊は初めて知る父の優しさと苦悩に胸を打たれた。レテ・オーシャンの静かな時間は、二人にとってかけがえのない宝物になった。湊はもう元の世界に帰りたいとは思わなかった。父がいるここが、彼のいるべき場所だとさえ感じ始めていた。

しかし、穏やかな時間は永遠ではなかった。ある朝、湊は自分の指先が、陽光に透けていることに気づいた。

「……どういうことだ、父さん」
航は、いつかこの時が来ると分かっていたかのように、静かに言った。
「お前は、まだ完全に『忘れられた者』じゃない。母さんが……お前の母さんが、今もお前のことを強く覚えている。だから、この世界はお前を完全な住人として受け入れられないんだ」

湊の存在は、元の世界からの記憶の引力と、この忘却の世界の理の間で揺れ動いていた。存在が不安定になれば、やがてはこの世界からも消えてしまう。それは、二度目の、そして完全な「死」を意味した。

「そんな……。やっと会えたのに、また別れるなんて……嫌だ!」
「湊、聞け」

航は湊の肩を強く掴んだ。「お前は、忘れられてはいけない存在なんだ。母さんの記憶の中で、生き続けなくちゃならない。それが、お前の役目だ」

父の言葉は、灯台の光のように、湊の心を貫いた。自己中心的で、自分の孤独ばかりを嘆いていた自分が、誰かの記憶の中で生きることの尊さを、初めて理解した。父は、忘れられる哀しみを誰よりも知っている。だからこそ、息子に同じ道を歩んでほしくなかったのだ。

湊の体は、日に日に透明度を増していった。別れの時が近いことを、二人とも悟っていた。

最後の夜、二人は灯台の最上階に上り、双月の光を浴びながら海を眺めた。
「父さん、ありがとう。俺、父さんのこと、絶対に忘れないから」
「ああ」航は息子の透けかかった頭を、優しく撫でた。「俺も、お前と再会できたこの記憶を、永遠に忘れない。それが、俺がここで生きていく理由になる」

湊の足元から、体が光の粒子となってほどけていく。
「母さんによろしくな」
父の最後の言葉を胸に、湊は微笑んだ。視界が真っ白な光に包まれる。ありがとう、父さん。さようなら。

湊が完全に消えた後、レテ・オーシャンには変わらぬ静寂が戻った。航は一人、灯台の頂に立ち、再びその灯りに火を入れた。それは、いつかまた流れ着くかもしれない、孤独な『忘れられた者』を導くための道標。そして何より、最愛の息子と過ごした日々という「決して忘れられない記憶」を胸に、この永遠の役目を引き受けていくという、彼の静かな誓いの光だった。

忘却の海の灯台守は、今日も、誰かのために光を灯し続ける。その光が、遠いどこかの世界の、誰かの心に残る温かな記憶と、繋がっていると信じながら。

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