第一章 歪な絵本の国
男は毎夜、香炉に火を灯す。白檀と、名も知らぬ乾燥した薬草が混じり合った、甘くも苦い煙。それが部屋を満たす頃、意識は現実の重力から解き放たれ、柔らかな落下感と共に、約束の場所へと沈んでいく。
彼の名は深町湊(ふかまちみなと)。かつては光と空間を操る新進気鋭の建築家だったが、今はただの「夢潜り(ドリーム・ダイバー)」だ。目的はただ一つ。三年前の事故で深い眠りに落ちたままの妹、栞(しおり)を連れ戻すこと。
意識が着地したのは、いつもと同じ、クレヨンで描かれたような丘の上だった。空はマーマレードを溶かしたような橙色で、綿菓子のような雲がゆっくりと流れている。足元には、栞が好きだった絵本に出てくるような、丸みを帯びた花々が風に揺れていた。世界のすべてが、優しく、暖かく、そして懐かしい。
「お兄ちゃん、こっちだよ!」
丘の下から、銀鈴を転がすような声がした。振り返ると、白いワンピースを着た栞が、麦わら帽子を片手に大きく手を振っている。事故に遭う前の、日焼けも知らない、無垢な笑顔。湊の胸が、愛しさと罪悪感でちりりと痛む。
「今行くよ、栞」
駆け下りた丘の先には、二人が子供の頃に夢見たような、レンガ造りの小さな家が建っていた。湊は現実で、その家の設計図を何度も描いた。妹のための家。いつか、本当に建ててやるはずだった家。
「ねえ、お兄ちゃん。今日は何して遊ぶ? 蝶々を追いかける? それとも、雲の船に乗る?」
「栞の好きなのでいいよ」
湊は妹の頭を優しく撫でた。柔らかな髪の感触は、驚くほどリアルだ。だが、この完璧な世界には、僅かな、しかし無視できない「ノイズ」が存在した。視界の端で、風景が時折、砂嵐の走るテレビ画面のように乱れる。空に浮かぶ雲の形が、意味もなく脈動する。この世界が、栞の無意識が作り出した不安定な地盤の上にある証拠だ。
「栞。そろそろ、こっちに……」
「やだ!」
湊が本題を切り出そうとすると、栞はぷいと顔を背ける。彼女の表情が曇った瞬間、マーマレードの空に、一筋の灰色の亀裂が走った。世界が、彼女の感情に呼応して軋む。
「まだ遊びたいの。お兄ちゃんと、ずっとここにいたいの」
その言葉は、湊にとって甘い毒だった。この偽りの平穏に浸っていたい誘惑と、彼女を救わねばならないという使命感が、心の中でせめぎ合う。世界の崩壊が始まっている。この美しい絵本の国が、完全に色を失ってしまう前に、世界の「核」となっている栞の意識のコアを見つけ出し、現実へ引き上げなければならない。湊は、歪み始めた空を見上げ、固く唇を結んだ。夜は、まだ始まったばかりだ。
第二章 影法師の問い
夢の世界での日々は、奇妙な法則に支配されていた。栞が「道がない」と思えば道は消え、「川を渡りたい」と願えば、どこからか小舟が現れる。ここは、妹の認識が物理法則を支配する唯我論的な王国だった。湊は建築家としての知識を総動員し、この歪な世界の構造を読み解きながら、栞の心を傷つけないよう慎重に、世界の「核」へと繋がる道を探っていた。
「お兄ちゃん、見て! お魚が空を飛んでる!」
栞が指さす先では、鱗をきらめかせた魚の群れが、鳥のように空を泳いでいた。湊は微笑みながらも、その異常な光景に潜む世界の不安定さを感じ取る。世界の綻びは、日増しに大きくなっていた。美しい風景に、まるで黒いインクを染み込ませたような染みが広がり始めている。
そして、その染みから、奇妙な存在が現れるようになった。「影法師」だった。人の形をしているが、輪郭は揺らめき、顔には目も鼻も口もない、ただの黒い影。それは、世界のバグのように、何の前触れもなく湊の前に現れた。
「何故、安寧を乱す?」
影法師は、声帯を持たないはずなのに、直接脳内に響くような声で問いかけた。その声は、冷たく、感情がなかった。
「彼女を救うためだ。現実へ連れ戻す」
「ここが現実ではないと、誰が決めた? 彼女はここで笑っている。幸福だ。お前が持ち込もうとしている『現実』とやらに、これ以上の幸福があるのか?」
湊は言葉に詰まった。影法師の言葉は、彼の心の最も柔らかい部分を的確に抉ってくる。栞は確かに、ここで幸せそうに笑っている。痛い治療も、先の見えないリハビリもない、理想郷。自分は、本当に彼女のために行動しているのだろうか。それとも、ただの自己満足なのか。
湊は、影法師を栞の深層心理に巣食う「現実への恐怖」の現れだと解釈した。これを乗り越えなければ、彼女を救うことはできない。
「それでも、だ。偽りの幸福に意味はない。俺は……俺は、妹に生きてほしいんだ」
「『生きて』、か」
影法師は、嘲るように揺らめいた。「面白いことを言う。お前こそが、この世界に最も強く囚われているというのに」
その言葉の意味を、湊はまだ理解できなかった。彼は影法師を振り払い、栞の手を引いて、さらに世界の奥深くへと進んでいく。背後で、影法師が静かに呟いた言葉は、風に掻き消されて聞こえなかった。
「哀れな創造主よ……」
第三章 琥珀の真実
幾夜も重ねた探索の果てに、湊はついに世界の中心へとたどり着いた。そこは、広大な空洞のような空間で、天も地もなく、ただ一本の巨大な琥珀の樹が、自ら淡い光を放ちながらそびえ立っていた。無数の枝葉は、凍った時間のように静止し、その輝きは神々しささえ感じさせた。ここが、この世界の核に違いない。栞の意識は、きっとこの樹の中で眠っている。
「栞!」
湊は叫んだ。しかし、返事はなく、ただ自分の声が無限の空間に吸い込まれていくだけだった。栞の姿はどこにもない。代わりに、琥珀の樹の根元に、あの影法師が静かに佇んでいた。
「ようやく来たか、創造主よ」
「栞はどこだ! 彼女をどうした!」
湊は激情に駆られ、影法師に掴みかかろうとした。だが、その手は虚しく影をすり抜ける。
「彼女は、ここにはいない。最初から、どこにもいなかった」
「何を……何を言っている!」
「まだ分からぬか。この世界は、深町栞の夢ではない」
影法師はゆっくりと湊の方を向いた。のっぺらぼうだったはずのその顔に、うっすらと輪郭が浮かび上がる。それは、憔悴し、絶望に歪んだ……湊自身の顔だった。
「この世界は……お前の夢だ。深町湊」
雷に打たれたような衝撃が、湊の全身を貫いた。思考が停止する。目の前の影法師は、紛れもなく自分自身。妹を失った悲しみと、事故を防げなかった罪悪感、そして耐え難い現実から逃避したいという渇望が生み出した、彼自身の影。
「嘘だ……」
「嘘ではない」
影法師――湊の影は、無慈悲に真実を告げる。
「栞は、三年前のあの日、事故で即死した。昏睡状態などではない。お前は、その現実を受け入れられなかった。だから、この『琥珀のまどろみ』の世界を創り出し、理想の妹の幻影と共に、永遠に終わらないおままごとを続けてきたのだ」
世界の全てが、音を立てて崩れ始めた。マーマレードの空は砕け散り、クレヨンの花々は色を失って塵と化す。湊が信じてきたすべてが、足元から崩壊していく。自分は、妹を救うヒーローなどではなかった。ただの哀れな現実逃避者。世界の崩壊は、妹の意識の限界ではなく、自分自身の精神が限界に達していた証拠だったのだ。
「ああ……あぁぁぁ……」
湊はその場に崩れ落ちた。琥珀の樹に亀裂が走り、中から眩い光が溢れ出す。彼が必死に守ろうとしていた世界は、彼自身が作り出した、壮大で、あまりにも悲しい虚構だった。
第四章 硝子の朝
世界の崩壊が進む中、湊の前にかすかな光が集まり、人の形を成した。白いワンピースを着た、幻影の栞だった。しかし、その表情は、これまで見せた無邪気な笑顔ではなく、慈愛に満ちた、どこか寂しげな微笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃん」
その声は、湊自身の心の奥底から響いてくるようだった。彼が作り出した幻でありながら、彼女は、彼が最も聞きたかった言葉を、そして最も聞きたくなかった言葉を紡ぎ出す。
「もう、いいんだよ」
栞の幻影は、そっと湊の頬に手を伸ばした。その手は透けていたが、確かな温もりがあった。
「たくさん遊んでくれて、ありがとう。私のために、こんなに素敵な世界を作ってくれて、ありがとう。でもね、私はもう、どこにもいないの」
涙が、湊の目から止めどなく溢れた。罪悪感と悲しみが、濁流となって彼を飲み込もうとする。
「俺のせいだ……俺が、あの時……」
「ううん。お兄ちゃんのせいじゃない。だから、もう自分を許してあげて」
幻の妹は、静かに首を振る。「私のことは忘れて、なんて言わない。でも、思い出の中に閉じこもらないで。お兄ちゃんには、お兄ちゃんの時間があるんだから。生きて」
その言葉は、残酷な現実への宣告であると同時に、温かい赦しでもあった。湊は選択を迫られていた。このまま崩壊する偽りの安寧と共に消え去るか。それとも、妹のいない「硝子の現実」を受け入れ、たった一人で朝を迎えるか。
湊は、震える手で、栞の幻影の手を握った。
「……ごめんな、栞。そして、ありがとう」
彼は、嗚咽を堪えながら、最後の別れを告げた。「さよならだ」
その言葉が引き金だった。湊が現実を受け入れた瞬間、琥珀の樹はまばゆい光を放って砕け散り、世界は無数の光の粒子となって、静かに消滅していった。
ふっと、意識が浮上する。
瞼越しに感じる、朝の光。鼻腔をくすぐるのは、埃と古書の匂い。ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。窓の外では、現実の太陽が昇り、世界を新しい一日で染め上げている。
湊は、ゆっくりと体を起こした。部屋の隅に置かれた香炉からは、最後の煙が細く立ち上っていた。視線を移すと、本棚の上に、一枚の写真が飾られている。屈託なく笑う、本物の栞。その横には、彼がかつて情熱を注いだ、未来都市の建築模型が静かに佇んでいた。
喪失感が消えたわけではない。悲しみが癒えたわけでもない。胸には、今もぽっかりと穴が空いている。だが、その穴を塞いでいた偽りの琥珀はもうない。これからは、この痛みも、温かい思い出も、すべて抱えて生きていくのだ。
湊はベッドから降り、窓を開けた。ひんやりとした朝の空気が、彼の頬を撫でる。彼は写真立ての栞に、そっと微笑みかけた。
「おはよう、栞。……行ってくるよ」
その声には、もう迷いはなかった。硝子のように脆く、しかしどこまでも透明な現実の中へ、彼は静かに一歩を踏み出した。