箱庭の残響、あるいは消えゆく世界の境界で

箱庭の残響、あるいは消えゆく世界の境界で

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第一章 薄明の街

俺の瞳には、世界が常に二重写しに見えている。

確固たる実体を持つ者たちは、その輪郭から鮮やかな光のオーラを放っている。生命力、目的、喜び。そういった感情が強いほど、その光は金色に輝き、揺るぎない存在感を世界に刻みつける。一方で、その光が弱い者たちは、まるで陽炎のように揺らめき、その姿は頼りなく透けていた。俺はそれを「存在値」と呼んでいた。

この薄明の街では、存在値の低い人々が増え続けている。彼らは煤けたような灰色のオーラをまとい、会話の声は風に溶け、その足音はアスファルトに吸い込まれて響かない。俺は彼らと視線を合わせることを避けて生きてきた。彼らの希薄な存在に触れると、自分の輪郭までが曖昧になっていくような、底知れぬ恐怖を感じるからだ。

最近、特に奇妙なことが起きている。街の象徴である古びた時計塔。何百年も時を刻み続けてきたはずのその石造りの塔が、日に日にその存在値を失っていた。かつては黄金の光を放っていたはずの塔が、今では水彩画のように滲み、空の色に溶けかかっている。まるで、人々の記憶からゆっくりと消去されているかのように。

俺はコートの襟を立て、街の喧騒から逃れるように路地裏へと歩を進めた。壁に背を預け、深く息を吐く。この能力は呪いだ。誰もが見過ごす「世界の終わり」の予兆を、俺だけが鮮明に見てしまっている。

第二章 硝子の少女

その少女と出会ったのは、雨上がりの公園だった。

水たまりがきらめくベンチに、彼女はひとり座っていた。その身体はほとんど透き通り、向こう側の景色が見えるほどだった。存在値は、今にも消えそうなほど低い。風が吹けば、硝子細工のように砕けてしまいそうな儚さ。俺は思わず目を逸らしたが、彼女が静かにこちらを見つめていることに気づいた。

「あなたには、私が見えるの?」

その声は、鈴の音のようにか細く、けれど不思議なほど芯があった。俺が戸惑いながら頷くと、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。その笑みは、ひび割れたガラスに差し込む一筋の光のようだった。

「リナ、っていうの」

「……カイ」

名を告げると、リナは嬉しそうに目を細めた。彼女の瞳の奥には、希薄な存在値とは裏腹の、強い意志の光が宿っていた。

「この世界から、『希望』が消えかかっているの。わかる?」

彼女の言葉に、俺は息をのんだ。確かに、最近「希望」という概念そのものが持つ輝きが、世界全体で急速に色褪せているのを感じていた。それは、人々の心が乾ききっていく音のようだった。

「どうにかしたい。消えちゃう前に」

自分の存在すらおぼつかない彼女が、世界のことを憂いている。その純粋な願いが、俺の心の奥で錆びついていた何かを、静かに溶かしていくのを感じた。俺は初めて、この呪われた能力を、誰かのために使ってみたいと思った。

第三章 存在の楔

「少しだけ、じっとしてて」

俺は震える指をリナの肩にかざした。自身の内側から、温かい金色の光――存在値を引き出し、ゆっくりと彼女に注ぎ込む。それは自分の命を削るような行為だったが、躊躇はなかった。リナの透き通っていた輪郭が、ほんのわずかに濃くなる。彼女は驚いたように自分の手を見つめ、そして俺の顔を見上げた。その瞳に浮かんだ感謝の色が、俺の胸を締め付けた。

「ありがとう……」

リナは、古くから伝わる『存在の楔』の伝説を話してくれた。かつて世界は、巨大な一つの結晶体の楔によって、その存在を安定させていたという。しかし、ある時その楔は砕け散り、無数の破片となって世界中に散らばった。その破片は、触れたものの存在値を一時的に固定する力を持っていた。

「図書館で見つけたの。ほとんどの破片は力を使ううちに濁って崩れてしまったけど、たった一つだけ、どんな力でも砕けない『核』があるって」

リナの声には、確信が満ちていた。

「それがあれば、きっと……」

俺たちは、その核を探し始めた。手掛かりは、街で最も存在が揺らいでいる場所。それは、あの時計塔以外に考えられなかった。二人で向かう道すがら、リナが不意に呟いた。

「カイの手、温かいね」

その一言が、孤独だった俺の世界に、確かな手触りを与えてくれた気がした。

第四章 管理者の囁き

時計塔の内部は、静寂と埃の匂いに満ちていた。軋む螺旋階段を上り詰め、最上階の鐘楼に辿り着いた時、俺たちはそれを見つけた。

鐘の真下に、それはあった。拳ほどの大きさの、透明な結晶体。周囲の希薄な空間とは対照的に、それだけが宇宙の全ての光を宿したかのように、眩い輝きを放っていた。『存在の楔』の核。これだ。

俺が恐る恐るそれに手を伸ばし、指先が触れた瞬間――世界が反転した。

轟音と共に、膨大な情報が脳内に流れ込んでくる。それは映像であり、感情であり、法則そのものだった。

《――同調を確認。管理者コード、認証完了――》

頭の中に直接響く、無機質な声。それは、この世界の真実を語り始めた。

この世界は、創造主によって作られた有限の「箱庭」であること。

箱庭は常に新しい存在を生み出し続けるため、定期的に過剰な存在を淘汰する「リセットサイクル」が発動すること。

そして、俺の持つ「存在値を操作する能力」は、そのサイクルを円滑に進めるための調整役――「管理者」として、あらかじめ組み込まれたシステムの一部に過ぎないこと。

《対象個体『リナ』は、優先的淘汰対象です。速やかに存在値を吸収し、サイクルを完了させてください》

声は冷徹に告げる。目の前で心配そうに俺を見つめるリナが、ただ消されるべきデータの一つに過ぎないと。俺の役目は、彼女のような存在を効率よく消去することだと。

ゴォン、と時計塔の鐘が鳴った。それはまるで、世界の終わりを告げるような、ひび割れた哀しい音だった。

第五章 境界の決断

絶望が、冷たい水のように全身を巡った。管理者? 淘汰? 俺がリナを消すための存在だと?

《拒否は世界の崩壊を招きます。それはあなたの望む結末ですか?》

管理者の声が、思考を侵食しようとする。世界の安定と、たった一人の少女の命。天秤にかけるまでもない、とシステムは囁く。

だが、俺の脳裏に浮かんだのは、リナのあの微笑みだった。ひび割れたガラスに差す光のような、儚くも美しい微笑み。彼女がくれた温もり。俺が管理者だというのなら、俺が守りたいものを守って何が悪い。

「黙れ」

俺は楔の核を強く握りしめた。

「俺は管理者じゃない。ただ、リナと一緒にいたいだけだ!」

俺は自身の能力のベクトルを、心の底から逆転させた。吸収し、淘汰するのではない。与え、創造し、道を切り開くために。楔の核が俺の意志に応えるように、これまで感じたことのないほどの膨大な光を放ち始めた。

「リナ、来てくれ!」

俺は彼女の手を掴み、走り出した。目指すは、この箱庭世界の果て。空がプログラムのグリッド模様を覗かせる、世界の「境界」へ。管理者の声が怒りと警告の声を上げるが、もう俺には届かなかった。リナの手の温かさだけが、俺の唯一の真実だった。

第六章 伝説の残響

世界の果ては、静寂に包まれていた。空には幾何学的な光の線が走り、足元の大地はデータの海のように揺らめいている。ここが、箱庭の壁。

俺はリナに向き直り、精一杯の笑顔を作った。

「怖くないか?」

彼女は首を横に振った。その瞳は俺を真っ直ぐに見つめ、絶対の信頼を寄せてくれていた。それだけで、俺はもう迷わなかった。

楔の核を天に掲げ、俺はそこに自身の全存在を注ぎ込んだ。金色のオーラが滝のように流れ込み、俺の身体は足元から光の粒子となって崩れ始める。痛みはない。ただ、途方もない解放感があった。

「カイ……っ!」

リナの悲痛な声が聞こえる。

「行って。君たちの世界は、この箱庭の外にあるんだ」

楔は俺の存在と引き換えに、巨大な門へと姿を変えた。境界の壁が裂け、その向こう側から、俺たちの世界には存在しない、どこまでも温かく優しい光が溢れ出してくる。新しい世界の夜明けだ。

リナや、街で消えかけていた人々の魂が、その光に引かれるように門へと吸い込まれていく。

「忘れない。あなたのこと、絶対に……」

涙を流すリナに、俺は最後の力で微笑みかけた。俺の輪郭はもう、ほとんど残っていない。

「『希望』は、消えたりしない」

リナの姿が門の向こうに消えたのを見届け、俺は完全に光と一体化した。門を支える最後の楔として、俺はこの世界の法則そのものになった。名前も、記憶も、やがてこの箱庭から消え失せるだろう。

世界から全ての存在が去り、完全な静寂が訪れた。ただ、空っぽになった箱庭の中心で、時折きらめく一つの光の粒子だけが、かつてここにいた一人の青年の伝説を、永遠に囁き続けているかのように、静かに舞っていた。

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