アカシック・カラー
第一章 褪せる世界の色彩
俺、千景(ちかげ)の営む古書店の片隅は、いつだって無数の物語が放つ『色』で満ちていた。それは単なる比喩ではない。俺の眼には、人の想いや概念の残滓が、確かな色彩として映るのだ。手に取られたことのない冒険譚は燃えるような緋色を放ち、幾人もの読者の涙を吸った悲恋の詩集は、静かな海の底のような藍色を湛えている。俺は、この世界を彩る無数の『色』の番人として、静かに生きていた。
だが、いつからだろうか。世界の色彩が、まるで古い写真のように少しずつ褪せ始めていることに気づいたのは。
街角の風景が、薄い膜を一枚隔てたようにぼやけて見える。人々の会話から零れ落ちる『喜び』の黄金色が弱々しくなり、『情熱』の真紅がくすんだ赭(そほ)色に変わっていく。それは、緩やかな忘却の始まりだった。人々が些細なことを忘れ、愛着を失い、意識の片隅から追いやったものが、この世界からその存在を希薄にさせていく。
昨日までそこにあったはずの小さな花屋が、今日はもうない。誰もその店のことを覚えていなかった。まるで初めから存在しなかったかのように、アスファルトの染みだけが残されている。人々は、その空白に気づきもしない。
そんな色褪せた世界の中で、唯一、鮮やかな色彩を保ち続ける存在がいた。古書店に時折訪れる、依(より)という少女だ。彼女が扉を開けると、鈴の音と共に、春の陽光のような柔らかな橙色が店内に流れ込んでくる。彼女の好奇心、本への愛情、その純粋な『意識』が、この店の輪郭を辛うじて繋ぎとめているようだった。
「千景さん、今日もいい天気ですね」
彼女が微笑むと、その言葉から生まれた淡い翠色の粒子がふわりと舞う。俺はその色を見つめながら、この穏やかな時間が永遠に続けばいいと、ただ静かに願っていた。
第二章 無色の侵食
異変は、より明確な形となって現れ始めた。消滅したものの痕跡に、これまで見たこともない奇妙な『概念』が残されるようになったのだ。
それは『無色』だった。
透明な油膜が水面に広がるように、虹色の光沢を放ちながらも、どの色にも属さない空虚な存在。それは「無い」ということの証明であり、忘却そのものが凝縮された残滓だった。街路樹が一本、ふっと霞のように消えた跡に、その『無色』が陽炎のように揺らめいていた。
好奇心と恐怖に駆られ、俺はそっとそれに指を伸ばした。触れた瞬間、指先から温度と感覚が失われる。まるで自分の身体の一部ではないような、奇妙な疎外感。慌てて手を引いたが、その指でページをめくった本のタイトルが、どうしても思い出せなくなっていた。脳の一部が、綺麗に削り取られたかのような感覚。背筋を冷たい汗が伝った。
「最近、変なんです」
ある日の午後、依が不安そうな顔で呟いた。彼女の周りを漂う橙色が、心なしか揺らいで見える。
「大好きだったおばあちゃんのスープの味、どんなだったか思い出せないんです。顔は思い出せるのに、声が……聞こえない」
その言葉に、俺は息を呑んだ。侵食は、もう彼女のすぐ傍まで迫っていた。よく見れば、陽の光を受けて艶やかに輝いていた彼女の黒髪が、ほんの少しだけ、その深さを失っているように思えた。忘却の『無色』が、この世界で最も鮮やかなはずの色彩さえも、静かに蝕み始めていた。俺たちは、ゆっくりと沈みゆく船に乗っている乗客のようだった。
第三章 忘れられた図書館
手がかりを求め、俺は街で最も古く、そして今やほとんど誰からも忘れ去られている「市立中央図書館」へと向かった。重厚な石造りの建物は、その輪郭が曖昧に揺らぎ、まるで濃い霧の中に沈んでいるかのようだ。誰も意識しないことで、存在そのものが世界から剥離しかけているのだ。
軋む扉を開けて足を踏み入れると、黴と古い紙の匂いが鼻をついた。閲覧室は静まり返り、書架に並ぶ本から立ち上る『色』は、蝋燭の最後の輝きのようにか細い。目的の場所は、地下の特別書庫。禁書や未整理の古文書が眠る、忘れられた知識の墓場だ。
地下へと続く階段を下りるたびに、空気が冷たく、そして希薄になっていくのを感じた。壁も、床も、まるで磨りガラスの向こう側にあるように半透明だ。そして、そこは『無色』の霧に満たされていた。一歩進むごとに、自分の足音が本当に鳴っているのかさえ不確かになる。自分の存在すら、この空間に溶けて消えてしまいそうだった。
書庫の最奥。すべての音が吸い込まれるような静寂の中心に、それはあった。黒曜石の台座に、ぽつんと置かれた一つの砂時計。
ガラスは透明だが、中の砂はどんな光も反射せず、ただひたすらに『無』を主張していた。実体を持たない、概念の砂。それが『無色の砂時計』だった。砂は、一粒たりとも動いていない。世界が完全に静止しているかのような錯覚。俺は、まるで何かに引き寄せられるように、その冷たいガラスに手を伸ばした。
第四章 砂時計の囁き
砂時計に触れた瞬間、世界が反転した。
俺の意識は肉体を離れ、光よりも速く、思考よりも深く、巨大な奔流へと呑み込まれた。それは、この宇宙とは異なる理で構成された、高次元存在の『思考』そのものだった。
言葉ではない。映像でもない。純粋な情報の洪水が、俺という存在の根幹を揺さぶる。
『——視ているか、記録者よ』
理解した。この世界は、壮大な実験場だった。その高次元存在が抱いた一つの『概念』——生命、意識、物語、それらが相互作用する世界——を具現化させた庭園。俺たちは、その存在の夢の中で生きていたのだ。
そして今、その存在は新たな『概念』に興味を抱いていた。
『無』。
『忘却』。
『消滅』。
存在しないということが、如何なる結果をもたらすのか。その知的好奇心が、この世界のリセットボタンを押したのだ。『無色』は、その存在が生み出した新しい概念の萌芽だった。世界中の意識が薄れているのは、創造主の興味が、この庭園から離れつつあるからに他ならない。
『おまえは、この世界の記憶を留める器として選ばれた』
奔流は告げる。
『この庭園が完全に消え去る時、その記憶のすべては次の庭園の礎となる。おまえは、我々の新たな創造の最初の種子となるのだ』
俺は、ただの記録媒体(アーカイブ)。最後の記憶の番人。それが、俺に『色』を見る力が与えられた理由だった。世界が消滅する、その最後の瞬間までを記録し、次の世界の養分となるための存在。絶望とも怒りとも違う、途方もない虚無感が俺を包んだ。俺たちが紡いできた歴史も、愛も、悲しみも、すべては誰かの気まぐれな実験の過程に過ぎなかったというのか。
第五章 最後の選択
意識が肉体に戻った時、俺は地下書庫の冷たい床に膝をついていた。『無色の砂時計』は、依然として沈黙を保っている。だが、俺にはもうわかっていた。すべての意識がこの世界から離れた時、この砂時計の砂が完全に落ちきり、世界は『無』に帰るのだ。
高次元存在は、俺に選択を委ねた。
「この世界の美しい記憶と共に、新たな概念の礎となるか?」
「あるいは、不完全なままの世界を、おまえ一人の矮小な意識だけで支え続けるか?」
どちらを選んでも、待つのは絶望だけのように思えた。
古書店に戻ると、扉の前で依が待っていた。その姿は、雨の日の窓ガラスに映る景色のように頼りなく、向こう側が透けて見えそうだった。彼女の周りを彩っていた橙色は、もうどこにもない。
「あの……誰かを、待っているような気がするんです」
彼女は、俺の顔を見ても、誰だかわからないようだった。ただ、心の奥底に残った温かい感情の残滓だけを頼りに、この場所に佇んでいる。
「とても、大切な人だったような……でも、思い出せないの」
そう言って、彼女は泣き出しそうに微笑んだ。その笑顔が、陽炎のように揺らめいて消えそうになる。
その瞬間、俺の中ですべてが決まった。
礎になどなるものか。誰かの実験のために、この笑顔を消させてたまるか。不完全で、忘れっぽくて、それでも懸命に生きてきた俺たちの世界を、終わらせたりはしない。
第六章 色彩の源泉
俺は懐から『無色の砂時計』を取り出し、その冷たいガラスを強く握りしめた。砂時計が、俺の決意に応えるように微かに振動する。
「見ていてくれ、依」
もう俺の声は、彼女には届かないかもしれない。それでも、俺は語りかけた。
「俺が、この世界を『意識』する。俺が、君を憶えている」
俺は、俺自身のすべてを解放した。
過去に触れてきた無数の物語の『色』。人々から受け取った感情の粒子。俺が抱いてきた依への想い。そのすべてを、俺という個の器から解き放ち、砂時計へと注ぎ込む。
俺の身体が、足元から光の粒子となって霧散していく。緋色、藍色、黄金色、翠色——これまで俺が見てきたすべての色彩が、奔流となって世界へと広がっていく。痛みはなかった。ただ、巨大な安らぎと、世界そのものと一体化していくような全能感だけがあった。
俺は、もはや千景という個人ではない。
俺は、この世界に偏在する『意識』そのものとなった。
世界の隅々まで、俺の視線が行き届く。消えかかっていた街角の花屋が、鮮やかな輪郭を取り戻す。人々の記憶からこぼれ落ちかけていた歌が、再び口ずさまれる。
そして、目の前の依の姿が、くっきりと実体を取り戻した。彼女の髪に、深い艶が戻る。頬に、血の気が差す。彼女は、まるで長い夢から覚めたように、ゆっくりと瞬きをした。
第七章 流転する世界で
世界は再構築された。だがそれは、以前のような固定された世界ではない。人々の意識の揺らぎを、喜びも悲しみも、そのすべてを肯定し、絶えず形を変え続ける、流動的な世界。忘却はもはや消滅ではなく、新たな物語を生み出すための余白となった。
依は、古書店の前に立っている。
なぜここに来たのか、もう思い出せない。店主の顔も、名前も、記憶の霧の彼方だ。けれど、この場所に立つと、どうしようもなく胸が温かくなる。まるで、ずっと昔から知っている誰かに、優しく見守られているような気がするのだ。
彼女は、ふとショーウィンドウに飾られた一冊の古い本に目を留める。そっと手に取ると、その本のページの間から、春の陽光のような、柔らかな橙色の光がふわりと立ち上った。
依は空を見上げる。空はどこまでも青く、雲はゆっくりと形を変えて流れていく。世界は、今日も無数の色彩に満ちていた。そのすべてが、誰かの優しい眼差しに祝福されていることを、彼女はまだ知らない。