結晶喰らいのレクイエム
第一章 瑠璃色の後悔
母の左腕に、それを見つけたのは昼下がりのことだった。窓から差し込む陽光を浴びて、熟れた果実のように、ひとつの結晶が肌から生えていた。深い瑠璃色。まるで、遠い夜空のひとかけらを閉じ込めたかのようだ。僕、リクだけが、この奇妙な現象の正体を知っている。
「また、あのティーカップのこと?」
僕が尋ねると、母ははっとしたように腕を隠した。祖母の形見だった、薄い花柄のカップ。先日、母がうっかり手を滑らせて割ってしまったのだ。母の表情に、隠しきれない後悔の影が揺れる。
「ごめんね、リク。見苦しいものを」
「ううん。大丈夫」
僕は母の腕を取り、その冷たい結晶にそっと唇を寄せた。躊躇なく、カリ、と歯を立てる。硬質な砂糖菓子を砕くような音が、静かな部屋に小さく響いた。口の中に広がるのは、ひんやりとした塩味と、微かな土の香り。そして、母の記憶が流れ込んでくる。――指先から滑り落ちるカップの感触、床に砕け散る甲高い音、胸を締め付ける自己嫌悪の痛み。
僕はその感情の奔流を、ごくりと飲み込んだ。母の腕から瑠璃色の結晶は跡形もなく消え、元の滑らかな肌に戻っている。母は安堵のため息をつき、僕の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、リク」
その声は少しだけ震えていた。僕は黙って頷き、自分の右手の指先を見た。爪の生え際が、ほんのわずかに虹色に光り、硬質化している。これが、僕が払う代償。家族の悲しみや後悔を喰らうたびに、僕の身体は少しずつ、彼らの感情の結晶に侵食されていくのだ。
第二章 透ける世界、薄れる絆
この世界から、少しずつ「重さ」が失われていることに、人々は気づいていただろうか。街を歩けば、道行く人々の輪郭が陽炎のように揺らめいて見える。風が吹くと、まるで木の葉のようにその身体が透け、向こう側の景色がうっすらと浮かび上がる。人々は互いに目を合わせなくなり、会話は途切れがちで、その声はどこか実体を伴わない空虚な響きを持っていた。
父の書斎で、僕は古い書物の中に「家族の樹」の記述を見つけた。世界の根源に立つというその古の樹は、人々の家族という絆を養分として生きている。絆が希薄になれば樹は枯れ、人々の「存在の重さ」も失われるのだという。
「くだらん伝承だ」
書斎のドアにもたれていた父の肩に、僕は鈍色の結晶を見つけた。鉛のように重く、光を吸い込むようなその塊は、父の「諦め」の結晶だ。長年続けた研究が、打ち切りの憂き目に遭ったのだと先日母から聞いた。
父は僕の視線に気づくと、自嘲気味に笑った。
「こんなもの、放っておけばいい」
「駄目だよ」
僕は父の肩の結晶を口に含んだ。鉄錆のような、苦くざらついた味が舌を刺す。喉を通り過ぎる瞬間、父の長年の努力が無に帰した絶望が、冷たい塊となって僕の胸に落ちた。息が詰まる。僕自身の胸の中心部が、内側から硬い何かに変わっていくような圧迫感に襲われた。家族の感情を背負うということは、その重さを、自分の身体で受け止めるということなのだ。
第三章 祖母の記憶
祖母が危篤だという知らせが届いたのは、それから間もなくのことだった。病院の白いベッドで眠る祖母の身体は、ほとんど透き通っていて、シーツの模様がはっきりと見えた。そして、その痩せた胸の上には、今まで見たこともないほど大きく、複雑な模様を刻んだ結晶が鎮座していた。
それは、ひとつの宝石ではなかった。オパールのように虹色の光を放つ層、アメジストのような紫の層、エメラルドの深い緑の層。幾重にも重なったそれは、祖母が生涯をかけて溜め込んできた、無数の後悔と悲しみの集合体だった。
看護師が訝しげな顔でそれを見つめている。家族でさえ、これが何なのか知らない。僕だけが、その重さを知っている。
これを、喰らうのか?
全身が震えた。こんなものを喰らってしまえば、僕の身体はもう、僕自身のものではなくなるだろう。だが、祖母の穏やかな呼吸を見ていると、この重荷を背負ったまま逝かせてはいけないと、強く思った。
僕は覚悟を決め、その巨大な結晶に顔を埋めた。ひとかけらずつ、ゆっくりと、しかし確実に砕いていく。口にするたびに、祖母の人生が、激流となって僕の意識に流れ込んできた。――若き日の祖父への、伝えられなかった「愛している」という言葉。幼い息子、つまり僕の父を、たった一度だけ厳しく叱ってしまった夜の罪悪感。友との些細なすれ違い。ささやかで、しかし生涯彼女の心を苛み続けた、数えきれないほどの小さな棘。
それは、一人の人間の、愛と後悔に満ちた、あまりにも濃密な一生だった。
第四章 原初の欠片
祖母の記憶の奔流の中で、僕はひとつの光景に辿り着いた。
若い頃の祖母が、月の光だけが差し込む静謐な森の奥深くに立っている。彼女の目の前には、心臓のように淡い光を放ちながら脈動する、巨大な透明の結晶があった。それが「原初の結晶」だと、僕は直感的に理解した。
『この家族だけは、永遠に幸せであってほしい。どんな悲しみも、後悔も、この手で払いのけられますように』
記憶の中の祖母が、そう強く願いながら結晶に触れた瞬間――パリン、と澄んだ音を立てて、結晶に亀裂が走った。そして、砕け散ったひとかけらが祖母の手に吸い込まれていく。
そうか。これだったのか。
僕の一族にだけ結晶が現れる理由は、世界中の家族の絆を支える「原初の結晶」の欠片を、我々が代々受け継いできたからだ。世界から失われた「後悔を浄化する力」を、僕の家族が、その身に引き受けていたのだ。祖母の純粋な願いが、皮肉にも我々をこの呪縛に繋ぎとめていた。
意識が現実に戻った時、僕の身体の半分以上は、光を乱反射する半透明の結晶に変わっていた。腕を動かそうとすると、ガラス同士が擦れるような、軋んだ音が響く。もう、自分の意志で立つことすらままならなかった。
第五章 最後の食事
僕は、自分の運命を悟った。僕は砕けた「原初の結晶」の欠片をその身に集めた、新たな器。そして、枯れゆく「家族の樹」を再生させるための、最後の供物となるのだ。
動けない僕の周りを、父と母が静かに囲んでいた。彼らの身体は以前よりもずっと濃く、確かな実体を取り戻し始めている。僕が彼らの後悔を喰らったからだ。
妹のサラが、泣きじゃくりながら僕の結晶化した手に頬を寄せた。
「お兄ちゃん…いやだよ、石になっちゃうなんて…」
彼女の透き通った瞳からこぼれた涙が、頬を伝い、小さな光る雫となった。それは、今まで僕が食べてきたどの結晶とも違う、ダイヤモンドダストのように純粋な輝きを放っていた。
兄を失う悲しみ。それは、紛れもなく負の感情のはずなのに、そこには温かい愛情の色が満ちていた。
僕は最後の力を振り絞って、サラに微笑みかけた。そして、彼女の頬で輝くその小さな結晶を、そっと舌で掬い取った。
口の中に、甘く、優しい温もりが広がる。サラの、僕への愛情そのものの味がした。心が満たされていく。ああ、これが、僕が最後に食べるべき感情だったのだ。
「ありがとう、サラ。これで、全部だ」
家族が見守る中、僕の身体は内側から強い光を放ち始め、やがて完全に、ひとつの光り輝く結晶の塊へと姿を変えた。
第六章 記憶の花は咲く
個としてのリクの意識が途切れると同時に、彼の結晶化した身体は無数の光の粒子となってふわりと舞い上がった。それは窓から吸い出されるように空へと昇り、街の中心で枯れ果てていた、巨大な「家族の樹」へと降り注いでいった。
光の粒子が触れるたび、黒くひび割れていた樹皮に命が吹き込まれ、みるみるうちに艶を取り戻していく。枯れた枝からは新しい芽が吹き、天に向かって力強く伸びていく。僕が喰らった家族たちの後悔は、その樹の新たな枝となったのだ。
やがて、その枝の先々に、色とりどりの花が咲き始めた。
母の後悔は、優しい瑠璃色の花に。父の諦めは、未来への希望を宿した力強い銀色の花に。そして、祖母の生涯にわたる無数の後悔と愛は、その全てを祝福するような、美しい虹色の花となって咲き誇った。
最後に、サラの悲しみから生まれた枝に、ひときわ清らかな、純白の小さな花が一輪、そっと開いた。
花々から放たれた光の種子が、風に乗って世界中に広がっていく。その種子に触れた人々は、忘れていた家族への想い、伝えられなかった感謝、些細なすれ違いへの後悔を思い出し、再び強く手を取り合った。透けていた身体は確かな「重さ」を取り戻し、世界は温かい色彩に満たされていった。
サラは、再生した「家族の樹」を丘の上から見上げていた。無数の花々を咲かせたその樹全体が、まるで優しく微笑む兄の姿のように見えた。
彼はもういない。けれど、彼の愛は、この世界のすべての家族の絆の中に、永遠に生き続ける。サラの頬を、涙ではない、温かい風が撫でていった。空はどこまでも青く、新しい物語の始まりを告げていた。