第一章: 晩餐会の薬指
午後七時。世界が群青と漆黒のグラデーションに沈む頃、九条家の食卓は完璧な調和を迎える。
シャンデリアの光が、クリスタルのグラスと銀食器を舐めるように照らし出す。その中央、湯気を立てるホワイトシチューの白さが、目に痛いほど鮮烈だ。
テーブルの端。九条レンは、スプーンを口元へ運ぶ手を止めた。硝子細工のように脆く、美しい容姿。色素の薄いプラチナブロンドの前髪が、長い睫毛に落ちる。瞳は不純物を一切含まない琥珀色。深海のような静寂。
首元には黒いベルベットのチョーカーが巻かれ、純白のワイシャツの襟元を引き締めている。その隙間から漂うのは、鼻をつくような甘ったるい薬品の香り。彼はそれを隠蔽すべく、今日も柑橘系のコロンを首筋に叩き込んでいた。
スプーンの上で、とろりとした乳白色の液体が揺れる。
そこには、人参でもジャガイモでもない、ピンク色のマニキュアが塗られた『左手の薬指』が鎮座していた。
九条レン「……パパ。ママの指、落ちてる」
レンの声は、鈴を転がすように澄んでいる。だが、そこには温度がない。
対面に座る男、九条秀一が顔を上げた。無精髭に覆われた頬、クマの濃い目元。薄汚れた白衣の下に見え隠れするのは、かつての栄光を物語るオーダーメイドのスーツ。彼はワイングラスを置き、慈愛に満ちた目でレン、そしてその隣に座る「母」を見つめた。
九条秀一「おっと、いけない。結び目が甘かったかな。湿気が多いと糸が緩むんだよ、人間も、洋服もね」
秀一は慣れた手つきで懐から医療用の持針器と絹糸を取り出すと、席を立った。「母」は微動だにしない。彼女の肌は陶器のように白く、表情は凍りついたように微笑んだままだ。秀一は彼女の左手を愛おしそうに撫で、レンの皿から指を摘み上げると、切断面に素早く針を通し始めた。
シュッ、シュッ。
肉を貫通する濡れた音が、クラシック音楽の旋律と混ざり合う。
慣れなくてはいけない。これが僕たちの愛の形なのだから。
レンはスプーンに残ったシチューを飲み込んだ。口の中に広がるのは、濃厚なミルクの甘みと、微かな鉄の錆びた味。
喉が痙攣しそうになるのを、冷たい水で無理やり押し流す。
九条秀一「よし、これで元通りだ。……レン、味はどうだ? 今日の『肉』は少し筋張っていたかもしれないが」
九条レン「ううん、すごく美味しいよ。パパの料理は世界一だ」
レンは完璧な角度で微笑んだ。口角を上げ、目を細め、幸福な息子を演じる。
この家では、エントロピーの増大は許されない。崩れ落ちる肉体は縫い止められ、腐敗は防腐剤でその進行を遅らされる。父は神に代わって、この朽ちゆくエデンを維持しているのだ。
父が「肉」と呼ぶそれが、昨日までニュースで捜索願が出されていた大学生であることを、レンは知っている。地下の冷凍庫には、まだ「新鮮なパーツ」が眠っていることも。
九条秀一「そういえば、ミオの右腕だがね……もう限界だ。壊死が肘まで来ている。新しい素材が必要だ」
父の視線が、レンの制服の袖口に向けられる。そこにあるのは品定めするような、粘着質な熱。
九条秀一「若くて、瑞々しい肌がいい。レン、学校にいい『生地』は入ったかい?」
レンの心臓が、肋骨を内側から叩いた。ドクン、ドクン。冷たい汗が背中を伝う。
九条レン「……探しておくよ」
嘘をついた。目星はついている。だが、それを父に差し出すことが何を意味するか、レンは理解していた。
食後の紅茶を啜りながら、レンは窓ガラスに映る自分を見つめる。
美しい少年。理想の息子。
だがその瞳の奥には、人ならざる虚無が広がっていた。
僕たちは、腐りながら生きている。
◇◇◇
第二章: 恋する解剖学
教室の空気を満たすのは、チョークの粉と制汗剤の匂い。
放課後の日差しが斜めに差し込み、埃が光の粒となって舞っている。
一ノ瀬カノン「ねえレンくん! これ見て、新作のフラペチーノ! 映えると思わない?」
スマートフォンの画面を突きつけてきたのは、一ノ瀬カノンだ。
栗色のボブカットがふわりと揺れ、大きな瞳が好奇心に輝いている。彼女は生きている。圧倒的に、暴力的なまでに「生」そのものだ。血色の良い頬、弾むような声、そして何より――。
レンの視線は、彼女が握るスマホではなく、その手首に吸い寄せられた。
萌え袖のニットカーディガンから覗く、白く滑らかな手首。静脈が薄っすらと青く透け、脈打つたびに生命のリズムを刻んでいる。
美しい。ミオの腕に、ぴったりだ。
無意識に、頭の中でメスを入れるラインを引いてしまった自分に気づき、レンは吐き気を催した。
九条レン「うん、綺麗だね。……カノンも、すごく」
一ノ瀬カノン「えっ、ちょ、何急に! レンくんってば、天然タラシなんだからー!」
カノンは顔を赤らめ、バシッとレンの肩を叩く。その掌の熱さが、制服越しにレンの冷え切った皮膚へと伝播した。
熱い。火傷しそうだ。
レンは一瞬、息を止めた。彼女の肌の温もりが、まるで電流のように神経を駆け巡る。それは死体のような自分の体温とは決定的に違う、「陽だまり」の熱だった。
彼女の手を掴み、その脈動を唇で確かめたいという衝動が湧き上がる。だがそれは捕食者の飢えなのか、それとも恋慕なのか、レンには判別がつかない。
一ノ瀬カノン「……レンくん? 顔色悪いよ? また貧血?」
心配そうに覗き込むカノンの瞳に、自分の歪んだ顔が映る。
九条レン「少し、めまいがしただけだよ。……ねえ、カノン」
言葉が、意思とは裏腹に滑り落ちる。
九条レン「今度の日曜日、家に来ない? 父さんが、珍しいお茶を入手したんだ」
カノンの表情がパッと明るくなった。
一ノ瀬カノン「行く! レンくんの家、豪邸なんでしょ? お父さんにも会ってみたいな!」
彼女は知らない。その「お父さん」が、彼女の腕を切り落とし、ホルマリン漬けにするためのメスを研いで待っていることを。
レンは口元を引きつらせて微笑んだ。
逃げてくれ。頼むから、僕を拒絶してくれ。
だが、彼女は無邪気に頷いた。その瞬間、レンの中で何かが決定的に軋む。
チャイムが鳴る。それは死刑執行の合図のように、無機質に響き渡った。
帰宅後、地下室へ向かうと、そこには腐臭が充満していた。
妹のミオが、ベッドの上でうめき声を上げている。右腕の皮膚はどす黒く変色し、甘酸っぱい膿の臭いが鼻腔を刺す。
九条秀一「ああ、なんてことだ。美しいミオが、こんな……。バクテリアめ、許さないぞ」
父は狂ったように壁を殴りつけていた。そしてレンを見ると、充血した目で問いかけた。
九条秀一「見つけたか? 代わりのパーツは」
レンは乾いた唇を開く。
九条レン「……日曜日に。極上の素材が、手に入るよ」
僕は、悪魔に魂を売ったのだ。
◇◇◇
第三章: 縫い目のない怪物
日曜日。空は皮肉なほどに晴れ渡っていた。
九条家の重厚な扉が開くと、カノンは目を丸くして息を呑んだ。
一ノ瀬カノン「うわぁ……すごい。お城みたい! でも、なんかちょっと、薬の匂いがする?」
彼女の鼻がひくひくと動く。レンは心臓が凍る思いで、微笑みを取り繕った。
九条レン「父が医者だからね。薬品の匂いが染み付いてるんだ。ごめんね」
リビングに通されたカノンは、アンティークの家具や壁に飾られた絵画に目を輝かせる。だが、彼女は気づかない。壁のシミが人間の血液であることや、飾られた花瓶の水が防腐液であることを。
九条秀一「ようこそ、お嬢さん。息子の友人が来るなんて、久しぶりだ」
奥の扉から現れた秀一は、完璧な紳士の仮面を被っていた。整えられた髪、新品の白衣。だが、その手には手術用のゴム手袋がはめられている。
一ノ瀬カノン「初めまして! 一ノ瀬カノンです。お招きありがとうございます!」
カノンが頭を下げたその時、秀一の目が彼女の腕に釘付けになった。獲物を見つけた獣の目。瞳孔が開き、口元が微かに歪む。
九条秀一「素晴らしい……。骨格、皮膚の張り、血管の配置。まさに黄金比だ」
一ノ瀬カノン「え? あの、おじ様?」
不穏な空気を察知したカノンが後ずさる。レンは一歩前に出た。
九条レン「パパ、まだ早いよ。お茶も出してない」
九条秀一「茶などいらん。鮮度が命だ。恐怖でアドレナリンが出すぎると、肉の味が落ちる」
秀一は背後に隠していたメスを取り出した。銀色の刃がギラリと光る。
カノンの顔から血の気が引いた。
一ノ瀬カノン「え……嘘、でしょ? レンくん、これ、ドッキリ?」
助けを求めるようにレンを見るカノン。レンは動けなかった。父の命令は絶対だ。この家のルールだ。
だが、秀一の口から出た次の言葉が、レンの世界を粉砕した。
九条秀一「レン、押さえていろ。……まったく、お前は一番『出来が悪い』な。オリジナルの息子はもっと賢かったんだが」
時が止まる。
九条レン「……え? オリジナル?」
秀一は面倒くさそうにため息をついた。
九条秀一「忘れたのか? ああ、記憶回路のバグか。お前は三年前に死んだ息子の死体をベースに、二十人のパーツを継ぎ接ぎして作った『キメラ』だ。脳の一部も人工物だよ」
耳鳴りがした。キーンという高い音が脳髄を駆け巡る。
視界が明滅する。自分が人間だと思っていた? この痛みも、葛藤も、恋心さえも?
九条秀一「お前がカノン君に抱いていた感情も、私が埋め込んだ『良心の回路』の誤作動に過ぎん。お前は人間じゃない。ただの動く標本だ」
レンは自分の手を見た。手首の縫合痕。チョーカーの下の継ぎ目。
すべてが符合する。なぜ怪我をしても血が出にくいのか。なぜ腐敗の臭いに安らぎを覚えるのか。
一ノ瀬カノン「いやぁぁぁ!! 来ないで!!」
カノンの悲鳴が響く。だがレンの耳には届かない。
自分が「共犯者」ですらなかったという事実。父にとって自分は、愛する息子ではなく、ただの「修理したオモチャ」だったのだ。
ガラガラと音を立てて、レンの自我が崩落していく。
◇◇◇
第四章: 臓物仕掛けの愛
「動くな!!」
カノンが部屋の隅に追い詰められ、腰を抜かしている。秀一の手にはメスだけでなく、骨を切断するための電動ノコギリが握られていた。ウィィィンというモーター音が、死の旋律を奏でる。
九条秀一「さあ、腕を頂こう。ミオが待っているんだ」
一ノ瀬カノン「やだ、やだぁ! 助けて、レンくん!!」
カノンの絶叫が、レンの思考回路を焼き切った。
良心のバグ? 偽物の感情? どうでもいい。
今、目の前で震えている彼女だけが、この狂った世界で唯一の「本物」だ。
レンはカノンを庇うように立ちはだかった。
九条レン「やめろ……パパ」
九条秀一「退け、失敗作。メンテナンスが必要か?」
秀一が冷徹な目でメスを構える。レンは笑った。乾いた、壊れた笑いだった。
九条レン「メンテナンス? いいよ、してあげる。……僕が、パパを」
レンはテーブルの上のフルーツナイフを掴むと、秀一に向かうのではなく――自らの腹部に突き立てる。
グチュリ。
鈍い音が響き、カノンが悲鳴を上げる。
レンは躊躇なくナイフを横に引いた。裂けた腹から溢れ出したのは、鮮血ではなく、防腐液に浸かった青白い臓器と、詰め込まれた綿、そして複雑に絡み合ったワイヤーだった。
九条レン「見てよパパ!! これが僕の中身だ!! 美しいだろう!?」
レンは自らの腸を引きずり出し、父に突きつける。その異臭。薬品と錆とカビの混じった、冒涜的な匂い。
九条秀一「な……なんと……」
秀一の目が釘付けになる。グロテスクに垂れ下がる内臓。その機能美。人工と天然が混ざり合った、歪な芸術品。
マッドサイエンティストとしての本能が、攻撃の手を止めさせた。
九条秀一「ああ……美しい。左右の腎臓の縫合が、これほど馴染んでいるとは……奇跡だ」
その隙を見逃さなかった。
レンは引きずり出した腸を鞭のように振るい、父の首に巻き付けた。
「愛してるよ、パパ。ずっと一緒にいようね」
レンは父の耳元で囁いた。血と防腐液に塗れた抱擁。レンの体温のない体が、父の熱を奪っていく。
九条秀一「が、はっ……レン、おま、え……」
レンは手にしたメスを奪い取り、父の頸動脈へと滑らせる。
噴き出す赤。それはレンの中身とは違う、温かい生命の色だった。
一ノ瀬カノン「あ……あ、あ……」
カノンは目の前で繰り広げられる親子の殺し合いを見て、白目を剥いて泡を吹いた。彼女の精神は、許容量を超えて砕け散った。
◇◇◇
第五章: 腐らない食卓
警察が踏み込んだ時、屋敷は静寂に包まれていた。
異臭の通報を受けた警官隊は、ダイニングルームの扉を開けた瞬間、その場に凍りつく。
そこには、美しい地獄があった。
テーブルには豪華な食事が並んでいる。
席についているのは、三人。
一人目は、人形のように動かない少女、一ノ瀬カノン。彼女は空虚な目で虚空を見つめ、口元から涎を垂らしながら、機械的にスプーンを動かしている。
二人目は、壁と椅子、そして自身の肉体が複雑に縫い合わされ、家具の一部と化した「何か」。かつて九条秀一だった肉塊だ。その顔は剥製のように加工され、永遠の笑顔で食卓を見守っている。
そして三人目。
父の汚れた白衣を羽織り、優雅に紅茶を啜る少年、九条レン。
彼の腹部は乱雑に、しかし芸術的な手際で縫い合わされていた。
「き、貴様ら……何をした……」
警官の声に、レンはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、以前よりも澄み渡り、深い狂気を湛えている。
九条レン「お静かに。食事中ですよ」
レンは立ち上がり、カノンの口元をナプキンで優しく拭った。
九条レン「カノン、こぼしてるよ。……ふふ、可愛いね。君はずっと、そのままでいて」
カノンは反応しない。彼女の心は壊れ、レンの世話なしでは生きられない「生きた人形」になってしまった。だが、レンにとってはそれが至上の幸福だった。彼女はもう逃げない。拒絶しない。永遠にレンのそばにいる。
レンは、壁と融合した父に視線を向けた。
九条レン「パパも喜んでる。これで、家族はずっと一緒だ」
彼は知っている。自分が人間でないことも、この幸せが歪んでいることも。
だが、継ぎはぎの心臓は、確かに温かい血液を送っている気がした。
レンはメスを手に取り、父の腕から剥がれ落ちそうになった皮膚を丁寧に縫い直した。
「ほつれてるよ。直してあげる」
終わらない晩餐会へようこそ。ここでは誰も腐らない。誰も死なない。ただ、永遠に縫い合わされ続けるだけ。
レンは微笑んだ。その笑顔は、あまりにも無垢で、吐き気がするほどに美しかった。
物語は終了しました。バッドエンド:縫合されたエデン