第一章 色のない食卓
夕暮れのスクランブル交差点は、腐った油絵の具をぶちまけたような悪臭を放っていた。
すれ違うサラリーマンの背中には、湿ったセメントみたいな灰色がへばりついている。重く、冷たく、触れれば指が汚れそうだ。
スマホを睨む女子高生の頭上からは、蛍光色のピンクがチカチカと点滅し、神経を逆撫でする電子音のような耳鳴りを伴って放射されている。
クラクションを鳴らすタクシー運転手からは、焼け焦げた鉄錆のような赤色が、熱波となって俺の肌を焼く。
俺、アキトの視界にとって、世界はいつだって暴力的なまでに騒がしい。
他人の感情が「色」として視覚化されるこの能力は、人の心の裏側を覗き見るには便利だが、平穏とは程遠い。常に他人の排泄物を浴びせられているようなものだ。
「……ただいま」
重い玄関のドアを開ける。
そこには、俺にとって唯一の安らぎであり、同時に最も不可解な「空白」があった。
「おかえりなさい、アキト」
キッチンから顔を出したのは、妻の美咲だ。
エプロンで手を拭きながら微笑む彼女の姿は、いつものように美しい。
けれど、俺の目は、彼女の輪郭を覆う異様な現象に釘付けになる。
彼女の周りだけ、色が抜け落ちているのだ。
喜びの黄色も、怒りの赤も、悲しみの青もない。
ただひたすらに、白。
それも、柔らかな雲のような白ではない。硬く焼き締められた磁器のような、あるいは何層にも塗り固められた修正液のような、拒絶的な「白」だ。
その厚みのある白が、彼女の内側にあるはずの感情を完全に遮断している。
「パパ、おかえり!」
リビングの床で絵を描いていた七歳の娘、愛理が駆け寄ってくる。
彼女もまた、俺の目には石膏像のように真っ白な塊に見えた。
「ああ、ただいま愛理」
俺は愛理の頭を撫でながら、指先に伝わる体温と、視覚情報の乖離に胸がきりきりと痛むのを感じた。
愛する家族の感情だけが、読めない。
俺が能力を持ってからずっと、彼女たちだけが例外だった。
「ねえパパ、見て。家族の絵」
愛理がスケッチブックを掲げる。
クレヨンで描かれた三人の人物。
「上手だな……」
褒めようとして、喉の奥で言葉が凍りついた。
絵の中の、美咲の顔の部分。
そこだけ、クレヨンの色が乗っていない。
塗り忘れたのではない。画用紙の繊維が毛羽立つほど、白のクレヨンで執拗に、何度も何度も塗りつぶされている。
「愛理、これ……ママの顔、どうしたんだ?」
「え?」
愛理が不思議そうに絵を覗き込む。
「ちゃんと描いたよ? ニコニコしてるでしょ」
俺の背筋に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。
愛理には見えている。俺にだけ、見えていない?
俺はリビングの飾り棚へ視線を走らせた。
先月、遊園地で撮った家族写真が飾られているフォトフレーム。
俺は震える手でそれを掴み、顔に近づけた。
「……嘘だろ」
写真の中の美咲と愛理の姿が、霧散し始めていた。
背景の観覧車は鮮明な色彩を保っているのに、二人だけが、現像液に浸けすぎたように白く飛び、輪郭が溶け出している。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
「アキト? どうしたの、顔色が悪いわ」
美咲が心配そうに覗き込んでくる。
その瞳の奥を探るが、返ってくるのは冷ややかなほどの「白」だけだ。
彼女は今、本当に心配しているのか?
それとも、俺が狂い始めたと冷笑しているのか?
何も分からない。
厚塗りの白い壁の前で、俺はただ立ち尽くした。
「なんでもない。ちょっと、目が疲れてるだけだ」
嘘をついた。
俺の言葉に含まれる焦燥の色は、きっと胆汁のような濁った緑色をしているだろう。
だが、彼女たちには俺の色など見えない。
「夕飯、すぐできるから。座ってて」
美咲は背を向け、キッチンへと戻っていく。
その背中が、以前よりも少し透けて見えたのは、俺の気のせいなのだろうか。
第二章 透明な亀裂
翌日のオフィスは、湿った段ボールの匂いと、無数の「退屈(澱んだベージュ)」色で満たされていた。
「アキトさん、顔死んでますよ」
隣のデスクの後輩、サトシが声をかけてくる。彼からは「好奇心」を示すオレンジ色が、炭酸の泡のようにプチプチと弾けていた。
「……家の写真が、消えかけてるんだ」
「は? 写真データが飛んだんですか?」
「違う。現像した写真だ。紙の上の像が、白く溶けていくんだよ。妻と、娘だけが」
サトシの手が止まる。オレンジ色の泡が消え、すっと「引いた」ことを示す薄ら寒い水色が漂う。
「それ、ヤバくないですか? 心霊現象的な……」
「お祓いに行けとか言うなよ。……俺には分かるんだ。これは心霊じゃない。もっと根本的な、何かの終わりだ」
俺はデスクに突っ伏した。
絆が断たれると、その存在の痕跡が世界から消える──そんな都市伝説じみた話を、どこかで聞いたことがあった気がする。
「アキトさん、奥さんと最近どうなんですか?」
「どうもこうも……普通だ。喧嘩もしてない」
「それが一番危ないって言いますよ。会話、あります?」
「あるさ。業務連絡みたいな会話ならな」
その時、スマホが震えた。
美咲からだ。
『愛理が学校で熱を出したみたい。迎えに行ってくる』
文字だけのメッセージ。そこには色も、声のトーンもない。
俺は『俺も向かう』とだけ打ち返し、席を立った。
病院の待合室は、消毒液のツンとした匂いと、患者たちが発する「不安」のネズミ色で充満し、息が詰まりそうだった。
診察室から出てきた美咲と愛理を見つけ、俺は駆け寄る。
「愛理! 大丈夫か?」
愛理はぐったりとして、美咲に抱きかかえられていた。
その小さな体を取り巻くはずの「白」い光が、以前より薄く、向こう側の景色が透けて見えそうだった。
「ただの知恵熱だって。点滴打ったら落ち着いたわ」
美咲が淡々と言う。
その表情は能面のように整っていて、微塵の動揺も読み取れない。
俺の目には、彼女が白いペンキを被ったマネキンのように見えた。
「……お前、怖くないのか?」
「え?」
「愛理がこんなになってるのに! 写真だって消えかけてるのに! なんでそんなに平気な顔してられるんだよ!」
待合室で声を荒らげてしまった。
周囲の視線(驚きの紫色)が突き刺さる。
美咲は少し目を見開き、そして静かに目を伏せた。
その反応すら、プログラムされた動作のように無機質に見える。
「ここで騒がないで。愛理が怖がるわ」
家に帰る車中、重苦しい沈黙が続いた。
後部座席で眠る愛理の寝息だけが、唯一の生体反応だった。
帰宅後、俺は再びフォトフレームを確認した。
朝よりも、進行していた。
遊園地の写真から、愛理の姿は完全に消滅し、美咲の姿も腰から下が透明になり始めている。
「見ろよ、美咲。これが現実だ」
俺はフレームを突きつけた。
「俺たちの何かが壊れかけてる。だから消えていくんだ。なあ、俺に何か不満があるなら言ってくれよ! 怒ってるなら怒れよ! 色を見せてくれよ!」
美咲は写真を見つめ、静かに言った。
「色がなきゃ、あなたは何も信じられないの?」
その言葉は、冷たい刃物のように俺の胸を抉った。
「信じたいさ! でも証拠が消えていくんだよ! 俺にはお前の気持ちが見えない。真っ白で、何を考えてるか分からないんだ!」
「……アキト」
美咲が手を伸ばしてくる。
俺の頬に触れようとしたその指先が、一瞬、半透明に透けて背景の壁紙が見えた。
恐怖が爆発した。
彼女まで消えてしまう。触れたら、崩れてしまうかもしれない。
「触るな!」
叫んで、彼女の手を払いのけた。
パチン、と乾いた音が響く。
美咲の手が空中で止まる。
彼女の顔から、表情が抜け落ちた。
いつもなら硬質に輝いている「白」が、フッと明度を落とし、まるで明かりの消えた空き家のような、虚無的な暗さを帯びた。
「……そう。分かったわ」
彼女は静かに手を下ろし、背を向けた。
その拒絶の背中は、どんな罵倒よりも雄弁に、俺たちの終わりを告げていた。
第三章 崩壊する白
それからの数日は、静かな地獄だった。
家の中にある「家族の痕跡」が、次々と神隠しに遭ったように消失していった。
洗面所に並んでいた美咲の歯ブラシが、ある朝突然なくなっていた。
冷蔵庫に貼ってあった愛理の学校のプリントが、ただの白紙に変わっていた。
スマホのカメラロールからは、二人が写っている画像データだけが破損し、黒いノイズに置き換わっていた。
俺は必死で抗った。
高級なケーキを買い、週末の旅行を提案し、愛理と遊ぶ時間を無理やり作った。
だが、俺が空回りすればするほど、二人の周りの「白」は硬度を増し、俺を跳ね返す分厚い殻となっていく。
「パパ、痛い」
リビングで、愛理の手を握りしめていた俺は、ハッとした。
力の加減を忘れるほど、強く握りすぎていた。
愛理の手が、おぼろげな陽炎のように揺らいで見えたからだ。繋ぎ止めておかなければ、霧になって消えてしまいそうだった。
「ごめん、愛理……」
「パパ、怖い顔してる。誰かと戦ってるみたい」
七歳の子供の直感は、残酷なほど正確だ。
俺は戦っていた。見えない「消失」という現象と。そして、感情を見せない妻という「壁」と。
隣にいた美咲が、愛理を庇うように引き寄せる。
その動作が、俺を敵とみなす動きに見えた。
「もういいわ、アキト。無理をしないで」
その夜、限界が訪れた。
風呂から上がると、美咲がリビングのソファでぐったりと座り込んでいた。
照明が暗いせいではない。
彼女の存在そのものが、薄くなっている。
輪郭が曖昧になり、向こう側のカーテンの柄が、彼女の体を透過して見えていた。
「美咲!」
駆け寄って肩を掴む。
感触がない。
まるで冷たい空気を掴んでいるようだ。
質量が消えている。
「アキト……ごめんなさい……」
彼女の声は、壊れかけたラジオのように途切れ途切れだった。
顔を上げる彼女の目は、焦点が合っていない。
「どうしてだ! 俺はこんなに努力してるのに! どうして消えるんだ!」
俺は半狂乱で叫んだ。
彼女の感情を見ようと目を凝らす。
しかし、そこにあるのはやはり「白」だ。
だが、それは以前のような静かな白ではない。
今にも破裂しそうなほどに膨張した、高密度の光の塊。
俺の中で、何かが切れた。
「いい加減にしろよ……!」
俺は彼女の、実体の怪しくなった肩を揺さぶった。
「隠すなよ! カッコつけるなよ! 俺たちが消えかけてるんだぞ!? なのに、どうしてまだすましているんだ! 怒りでも軽蔑でもいい、お前の本当の中身を見せろよ!」
「……見えないの?」
美咲が、消え入りそうな声で囁いた。
その瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。床に落ちた雫すら、すぐに蒸発して消える。
「私には……こんなに、溢れているのに……!」
彼女の胸の奥で、膨張した「白」が脈動した。
ドクン、と俺の鼓膜を震わせる音がした。
第四章 剥がれる仮面
「ふざけるな!」
俺は恐怖と苛立ちで、声を張り上げた。
「溢れてるだと? 何もねえじゃねえか! お前はずっとそうやって、能面みたいに澄まして、俺を見下してたんだろう! 『感情が見える可哀想な夫』を、高みから見物してたんだろ!」
俺の言葉は汚かった。最低だった。
だが、止まらなかった。
彼女が消えてしまう恐怖が、攻撃性へと転化していた。
「色を見せろよ! 泥臭い、汚い色を! 俺に見える形で出してみろよ!」
その時だった。
「うるさいッ!!」
美咲の叫び声が、リビングの空気を切り裂いた。
鼓膜が破れそうなほどの絶叫。
彼女が立ち上がる。その瞬間、実体が戻ったかのように床がドンと鳴った。
「あんたに何が分かるのよ!」
美咲が俺を睨みつける。
その表情は、美しい妻のものではなかった。
鼻水を垂らし、顔を歪め、鬼のような形相をしていた。
「見下してる? ふざけないでよ! 私は怖かったのよ!」
バキィッ!
俺の視界で、美咲を覆っていた「白」に亀裂が入った。
ガラスが割れるような鋭い音と共に、硬質な白の表面に稲妻のようなヒビが走る。
「あんた、いつも人の顔色ばっかり見てるじゃない! 上司が不機嫌ならペコペコして、私が少しでも疲れた顔をすればオロオロして! 『俺が悪いのか?』って顔して!」
「な……」
「そんなの見せられたら、私、笑うしかないじゃない! 辛くても、悲しくても、怒りたくても! 私が負の感情を出したら、あんたが傷つくから! あんたが壊れそうだから! だから必死で塗りつぶしてたのよ!」
ビキビキビキッ!
亀裂が広がる。
白い仮面の奥から、灼熱の光が漏れ出す。
「本当は不安で押しつぶされそうだった! 育児も辛かった! あんたが仕事でヘトヘトになって帰ってくるのを見て、愚痴ひとつ言えない自分が惨めだった! でも、あんたにとっての『安らげる家』でいたかったのよ! バカみたいに真っ白なキャンバスでいたかったのよ!」
美咲が俺の胸をドンと突き飛ばした。
痛い。物理的な痛みが、そこにあった。
「色が見えるのが何よ! 目の前の妻が、必死で笑顔作って震えてるのも気づかないくせに! 偉そうなこと言わないでよ!」
彼女の拳が、雨あられと俺の胸に降り注ぐ。
「寂しかった! 怖かった! ムカついた! 大好きだった! 全部ぐちゃぐちゃなのよ!」
パリーンッ!!
盛大な破砕音と共に、美咲を覆っていた分厚い「白」が弾け飛んだ。
その破片がキラキラと舞い散る中、俺は見た。
ドロドロとした暗い赤。
深海のような冷たい青。
焼けつくような嫉妬の紫。
そして、それらを全て包み込むような、黄金色の光。
それらが混ざり合い、渦を巻き、まるで暴風雨の中の夕焼けのように、激しく、汚く、そしてどうしようもなく美しい色彩となって吹き荒れていた。
「……あ……」
俺は圧倒され、膝から崩れ落ちた。
これが、美咲の色。
無感情なんかじゃない。感情が多すぎて、強すぎて、色が飽和して白く見えていただけだったのだ。
彼女は、俺のために、この激流をたった一人でせき止めていたのか。
「ごめん……ごめん、美咲……」
俺は彼女の腰に腕を回し、泣きじゃくる彼女にしがみついた。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量が、俺の体に流れ込んでくる。
「俺が、馬鹿だった。お前の色を見るのが怖かったのは、俺の方だ……」
俺は、彼女の完璧な白に甘えていたのだ。
彼女の汚い色を見なくて済む安らぎに、浸っていただけだった。
「見せてくれ、もっと。お前の全部を。汚い色も、全部俺が受け止めるから……!」
「……バカアキト……」
美咲が俺の背中に腕を回し、爪が食い込むほど強く抱きしめ返してくる。
彼女から溢れ出す色彩の奔流が、俺の視界を埋め尽くした。
最終章 七色の夜明け
俺たちは、泥のように眠った。
目が覚めると、リビングの床で二人、折り重なるように倒れていた。
窓から差し込む朝日が、埃の舞う部屋を照らしている。
「……おはよう」
腕の中の美咲が、身じろぎする。
彼女の肌には、しっかりとした重みと温かさがあった。透明化なんて嘘だったかのように、確かな実存感がある。
俺は恐る恐る、目を開けて彼女を見た。
「!」
息を呑む。
彼女の周りには、もうあの拒絶的な「白」の壁はない。
代わりに、淡いピンクと、少しのけだるいグレー、そして照れ臭そうなオレンジ色が、オーロラのように揺らめいている。
なんて複雑で、人間臭い色だろう。
「……すごい顔してるわよ、あなた」
美咲がふふっと笑う。その目尻には涙の跡があり、髪はボサボサだ。
けれど、今まで見たどの瞬間よりも、今の彼女が一番美しかった。
「パパ! ママ!」
寝室のドアが勢いよく開き、愛理が飛び出してくる。
彼女は俺たちを見つけ、弾丸のように飛び込んできた。
「愛理!」
俺たちが受け止めると、愛理の周りにも、安心の緑と、甘えの黄色が混ざり合った、小さな虹がかかっていた。
彼女の色も戻っている。いや、初めてちゃんと見えたのだ。
俺は震える手で、床に落ちていたフォトフレームを拾い上げた。
ガラスにはヒビが入っている。
中の写真は、端の方が黒く焼け焦げ、変色していた。
一度失われた時間は、完全には元通りにならないのかもしれない。傷跡は残る。
けれど、写真の中央。
俺と美咲と愛理の三人は、以前よりも鮮烈な色彩を放ち、そこに確かに存在していた。
色褪せることのない、強烈な生の証として。
「戻った……」
「ううん」
美咲が俺の肩に頭を乗せ、写真を見つめる。
彼女から流れ込む「愛おしさ」のローズ色が、俺の視界を優しく染める。
「新しくなったのよ」
俺は頷き、二人を強く抱きしめた。
窓の外では、街が動き出している。
一歩外に出れば、また濁った灰色や攻撃的な赤色が渦巻く世界が待っているだろう。
俺の能力は消えていない。これからも他人の感情の汚泥にまみれ、疲弊する日は続くだろう。
だが、もう怖くはない。
家に帰れば、この複雑で、面倒くさくて、目も眩むような「極彩色」が待っているのだから。
俺は妻の怒りの赤に怯え、悲しみの青に寄り添い、喜びの黄色を分かち合うだろう。
もう、白紙のキャンバスなんていらない。
俺たちは、互いの色をぶつけ合い、塗り重ねて、見たこともない絵を描いていくのだ。
「ねえパパ、写真撮ろうよ!」
愛理が俺のスマホを持ってくる。
画面のノイズは消えていた。
「そうだな。最高のやつを撮ろう」
俺はカメラを構える。
レンズ越しに見る家族は、どんな魔法よりも、どんな芸術よりも輝いて見えた。
シャッターを切る。
そこには、世界で一番美しい色が焼き付けられた。