第一章 沈黙の病室
消毒液の匂いが、鼻の奥をツンと刺す。白で統一された無機質な空間に、規則正しく響く電子音だけが生命の証のようにこだましていた。ベッドに横たわる妹、美咲の顔は、窓から差し込む冬の午後の光を浴びて、人形のように青白かった。昨日、交差点で車にはねられたのだと、警察から連絡があった。
「……。」
父は腕を組んだまま、微動だにせずベッドを見つめている。母は、美咲の冷たい手を両手で包み込み、ただ静かにそこに座っていた。誰も、何も言わない。この息が詰まるような沈黙が、俺、涼太の神経を少しずつ削り取っていく。
「なんでだよ……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「なんで二人とも、何も言わないんだ! 美咲はこんなになってるのに。『早く元気になって』とか、『ごめんね』とか、何か言うことがあるだろ!」
俺の叫びに、父はゆっくりと顔を上げた。その深い皺が刻まれた顔には、悲しみ以外の何の感情も浮かんでいないように見えた。母は一度だけ俺に視線を向けたが、すぐにまた娘の手に目を落とした。その指先に、僅かに力がこもったのが分かった。
俺たちの家族は、昔からこうだった。重要な局面であればあるほど、言葉を失う。感謝も、謝罪も、そしておそらくは愛情さえも、彼らは言葉にして伝えることをしない。俺が大学に合格した時も、父はただ背中を一度叩いただけだった。母は、好物のハンバーグを молчаливо 食卓に並べた。
それが、この家の不文律。俺がずっと疎ましく、そして冷たいと感じてきた、奇妙なルールだった。感情を言葉で伝え合うことを知っている恋人や友人との関係と比べるたび、俺は自分の家族が欠陥品のように思えてならなかった。
だから、今この瞬間も、俺は両親の沈黙が許せなかった。意識のない妹を前にして、祈りの言葉一つ捧げない彼らの姿は、愛情の欠如の何よりの証拠に思えた。俺は壁を殴りつけたい衝動を必死にこらえ、病室を飛び出した。冷たい廊下の空気が、火照った頬を撫でていった。
第二章 色褪せたアルバム
実家に戻っても、両親は病院に泊まり込むと言って帰ってこなかった。静まり返ったリビングで、俺は本棚の奥にしまわれていた古いアルバムを手に取った。ページをめくると、色褪せた写真たちが、饒舌に過去を語り始めた。
七五三の日、慣れない袴にむずかる俺の隣で、美咲が満面の笑みを浮かべている。写真の中の父と母も、確かに微笑んでいた。だが、そこに添えられた母の几帳長面な文字には、『涼太、七歳。美咲、五歳。健やかな成長を願う』とあるだけで、お祝いの言葉はない。
小学校の運動会。リレーで転んで膝を擦りむいた俺が、悔し涙に濡れている写真。駆け寄ってきた母は、「ごめんなさい」とは言わなかった。ただ、黙って俺を保健室に連れて行き、その温かい手で丁寧に傷口を消毒し、真っ白な包帯を巻いてくれた。その時の、母の手のひらの感触だけが、妙に生々しく記憶に残っている。
誕生日には、父は決まって腕を振るった。俺の好きなものばかりが並ぶ食卓は、ささやかながらも祝祭のようだった。だが、父の口から「生まれてきてくれてありがとう」という言葉を聞いたことは一度もなかった。彼はただ、満足そうに俺の食べる姿を眺め、自分も молчаливо 箸を進めるだけだった。
俺は、そんな家族の在り方がずっと不満だった。言葉にしてくれなければ分からない。行動だけでは、その裏にある本当の気持ちなんて推し量れない。だから俺は、大学進学を機に家を出た。恋人ができた時、彼女が「好きだよ」「ありがとう」と些細なことでも言葉にしてくれることが、乾いた心に染み渡るように嬉しかった。それこそが、正常な人間関係なのだと信じていた。
アルバムの最後のページに、一枚の写真が挟まっていた。十年ほど前だろうか。近所の川で撮ったものだ。幼い美咲が、ずぶ濡れの俺の腕を必死に引いている。そうだ、思い出した。あの時、俺は足を滑らせて溺れかけたんだ。美咲が岸辺から木の枝を伸ばして、助けてくれた。
その時の記憶は、なぜか途切れ途切れだった。ただ、恐怖と安堵でぐちゃぐちゃになった感情のまま、俺が何かを叫んだことだけは覚えている。何を叫んだのかは、思い出せない。写真の中の俺は泣きじゃくり、美咲は心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。その写真の裏には、やはり母の文字で『涼太、川辺にて。大事に至らず』とだけ、記されていた。
第三章 失われた記憶の川
数日後、奇跡的に美咲は意識を取り戻した。医師も驚くほどの回復力だった。知らせを受けて病院に駆けつけた俺と両親は、ベッドの上でか細いながらも微笑む美咲の姿に、言葉を失った。父の目には、初めて見る光が宿っていた。母は、ただ静かに涙を流していた。
「お兄ちゃん……心配かけてごめんね」
「いいんだ、無事でよかった。本当に……」
俺は美咲の手を握った。温かかった。生きている。その事実だけで、胸がいっぱいになった。しばらくして、俺はふと、あの川での出来事を思い出し、口にした。
「お前も、昔、俺が川で溺れかけた時に助けてくれたよな。あの時のお返しができたかな」
軽い冗談のつもりだった。だが、美咲はきょとんとした顔で首を傾げた。
「え? 私が、お兄ちゃんを助けた……? そんなこと、あったっけ」
その言葉に、俺の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。忘れている? あの命懸けの出来事を? 冗談だろう。しかし、美咲の表情は真剣そのものだった。
その夜、病院の帰り道、父が初めて重い口を開いた。冬の夜空の下、白い息を吐きながら、父はぽつりぽつりと語り始めた。
「涼太。お前に、話しておかなければならないことがある。我々の一族に代々伝わる、呪いのような……制約の話だ」
父の口から語られた事実は、俺の価値観を根底から覆すものだった。
我々の血筋は、ある特別な代償を背負って生きているのだという。それは、「愛してる」「ありがとう」「ごめんなさい」という三つの言葉を、本当に心を込めて口にした時、その言葉を向けた相手との間で共有する、最も幸福で美しい記憶が一つ、完全に消え去るというものだった。
「だから我々は、言葉を禁じた。大切な記憶を、お前たちとの思い出を守るために。言葉ではなく、行動で示すことだけが、我々に許された愛情表現だったんだ」
俺は愕然とした。では、あの川での出来事は。
「そうだ。お前はあの日、助けられた直後、美咲に向かって無我夢中で叫んだんだ。『美咲、ありがとう!』と。……その瞬間、美咲の中から、お前を命懸けで助けたという、彼女にとって誇らしく、そして美しい記憶が消えた。我々は、お前の命が助かったことと引き換えに、その記憶を失うことを受け入れた。美咲自身も、後から事情を聞いて、納得してくれた。お兄ちゃんが無事なら、それでいいと」
足元から世界が崩れていくような感覚に襲われた。冷たいと思っていた家族。愛情が足りないと感じていた日々。そのすべてが、俺の身勝手な誤解だった。沈黙は、冷たさの証ではなかった。それは、記憶という名の宝物を守るための、必死で、そして究極の愛情表現だったのだ。父の作るハンバーグも、母が巻いてくれた包帯も、すべてが言葉以上の「愛してる」であり、「ありがとう」であり、「ごめんなさい」だったのだ。
俺は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。夜空の星が、涙で滲んで見えた。
第四章 言葉よりも温かいもの
美咲はすっかり元気になり、退院した。兄を助けた記憶は、戻らないままだ。だが、俺はもうそれを悲しまなかった。失われた記憶の代わりに、俺がこれから、新しい思い出を作っていけばいい。
退院して初めての週末、俺は美咲を近所の公園に散歩に誘った。冷たい風が二人の間を吹き抜ける。美咲が「少し寒いね」と肩をすくめるのを見て、俺は何も言わずに自分の着ていた厚手のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「え、お兄ちゃんがいいの?」
俺はただ、 молчаливо 頷いた。
公園の隅で、石焼き芋の屋台が甘い香りを漂わせていた。俺は財布を取り出し、一番大きくて、湯気の立つ熱々の芋を二つ買った。そして、一つを美咲に手渡す。幼い頃、父がいつも俺にしてくれたことと、全く同じように。
美咲は、熱い芋をハフハフと冷ましながら、不思議そうに俺の顔を見つめていた。そして、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「お兄ちゃん……なんだか、今日、すごく優しいね」
その言葉は、どんな「ありがとう」よりも深く、温かく俺の心に染み渡った。俺はただ、照れくさくて、少しだけ笑って見せた。
俺たちは、これからも大切な言葉を胸の奥にしまい込んだまま生きていくのだろう。愛も、感謝も、謝罪も、決して声には出さずに。だが、もう寂しくはない。言葉を交わさずとも、ジャケットの温もりや、焼き芋の甘さで、俺たちは繋がっている。
失われた記憶の空白は、これから生まれる新しい、言葉にならない温かい思い出によって、きっと満たされていくはずだ。家族とは、交わした言葉の数で測るものではないのかもしれない。共に過ごした時間の中で、 молчаливо 分け合った温もりの総量で、その絆の深さは決まるのだ。
夕焼けが、俺たち二人の影を長く、長く地面に伸ばしていた。その影は、まるで言葉を交わさなくても、ぴったりと寄り添っているように見えた。