存在の残響
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存在の残響

第一章 存在の揺らぎ

霧雨が、アスファルトの匂いを湿らせていた。街灯の光が滲み、輪郭を失った世界で、人々は影のように揺らいでいた。俺、カイの目には、その揺らぎが文字通りに見えていた。輪郭が透け、向こう側の景色が二重写しになる人々。彼らは皆、自らの「存在の量」を急速に失いつつあった。

「カイ、またそんな顔して。傘くらい差しなさい」

八百屋の店先で、女主人が苦笑しながら声をかけてきた。だが、その声もどこか遠く、彼女の腕は薄いガラス細工のように透けていた。彼女が差し出そうとした林檎も、その手の中で現実感を失いかけている。これが日常になった。誰もが少しずつ、世界から剥がれ落ちていく。まるで古い絵画の絵の具が、時間と共にひび割れていくように。

俺は黙って頷き、濡れた前髪をかき上げた。胸元が、冷たい雨のせいではない疼きを発していた。服の下、心臓の真上に鎮座する「混沌の光石」。それは、俺の体に生まれつき備わった、呪いであり、祝福でもあった。石は今、鈍い光を明滅させながら、世界の悲鳴に共鳴するかのように、静かに、しかし確かに脈打っている。

第二章 混沌の器

俺には、家族の誰かが死ぬたび、その者の生前の最も強い「愛情」を心身に取り込む能力があった。それは温かい奔流となって俺の魂に流れ込み、胸の光石に新たな色と輝きとして刻まれる。

最後に肉親を亡くしたのは、十年前に祖母を見送った時だ。穏やかな死だった。病室のベッドで、皺くちゃの手が俺の手を握った瞬間、祖母の生涯分の、深く、海のように静かな愛情が俺の中に流れ込んできた。それは陽だまりの匂いがする、優しい光だった。光石の渦の中に、柔らかな琥珀色の光が加わったのを覚えている。

だが、俺の中に宿るのは、祖母の愛だけではない。会ったこともない曽祖父の、厳格さの裏に隠された不器用な愛。若くして亡くなったという大叔母の、叶わなかった恋の切ない愛。さらに遡り、名も知らぬ幾世代もの祖先たちの、祈りにも似た、あるいは激情とも呼べるほどの愛情の集合体。それら全てが俺の中で混ざり合い、一つの巨大な混沌と化していた。喜びも悲しみも、執着も諦観も、全てが等価に渦を巻き、俺は時折、自分が誰なのか分からなくなるほどの感情の嵐に苛まれるのだった。

第三章 薄れゆく色彩

街角で小さな花屋を営むエマさんの姿が、日に日に薄くなっていくことに気づいたのは、数週間前のことだ。彼女は身寄りがなく、生涯を花と共に生きてきた老婆だった。人々が消え始める現象が顕著になってから、彼女の店を訪れる客は誰もいなくなった。愛を注ぐ対象も、注がれる愛もない彼女の存在は、風に吹かれる蝋燭の炎のように危うかった。

「カイ坊や。このシクラメン、持って行っておくれ」

ある日、店を訪れると、彼女はほとんど透けてしまった指で、一鉢の花を差し出した。その指先から、生命の熱が失われているのが、触れずとも分かった。

「もう、水をやる力も残ってないからね」

彼女は寂しげに笑った。その笑顔が、陽炎のように揺らめいて見える。

俺は何も言えず、鉢を受け取った。その瞬間、胸の光石が激しく脈動し、疼いた。俺の中に渦巻く巨大すぎる愛情の塊が、エマさんの枯渇した存在の量を感知している。もし、この愛を少しでも分け与えることができたなら。だが、俺にできるのは、ただ受け取ることだけだった。

翌日、花屋の前を通りかかると、店はもぬけの殻だった。シクラメンの鉢が一つ、ポツンと残されているだけ。エマさんの姿は、どこにもなかった。彼女がいたという記憶さえ、この世界から消え去ってしまいそうなほど、その場所は静まり返っていた。

第四章 星の嘆き

世界から色彩と音が失われていく。人々は互いに無関心になり、家族という繋がりさえもが希薄になっていくのが分かった。愛の欠乏が、世界の消滅を加速させている。俺は、この現象の原因が自分にあるのではないかという疑念から逃れられずにいた。なぜ俺の元にだけ、これほど多くの愛が集中しているのか。

その夜、混沌の光石がこれまでにないほど強く、熱く脈打ち始めた。それは警告のようでもあり、導きのようでもあった。俺は引き寄せられるように、街を見下ろす丘の上に立つ、古びた天文台へと足を運んだ。錆びついたドームの隙間から、星のない夜空が覗いている。

天文台の中央に立った時、声が聞こえた。それは音ではなく、直接脳内に響く思念の波だった。

《……見つけたぞ、歪みの揺り籠よ》

目の前に、光とも闇ともつかない、人ならざる何かが揺らめいていた。上位の存在。この世界の法則を司る、根源的な意志。

《汝らは、我らが与えた『愛』という絆を履き違えた。血縁という小さな檻にそれを閉じ込め、他者を排斥し、所有し、その本質を見失った。愛は淀み、世界は生命力を失ったのだ》

その存在は、俺の胸の光石を指した。

《汝の内に宿るその巨大な愛こそ、歪みの極致。家族という閉じた環の中で過剰に濃縮され続けた、愛の墓標だ。故に我らは決めた。この失敗した世界を一度、無に還す》

絶望的な宣告だった。俺は、やはり世界の終焉を引き起こすための、呪われた存在だったのだ。

第五章 最後の灯火

膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。俺の存在が、この悲劇の中心。その事実に、魂が軋むような痛みを覚えた。だが、その瞬間。俺の内なる混沌が、静かに、しかし力強く応えた。

渦巻く無数の感情の中に、一つの共通した輝きが見えた。それは、血縁という枠を超えた、純粋な祈りだった。子を想う母の愛。友を想う友の愛。名も知らぬ誰かの幸せを願う、見返りを求めない愛。俺の中に流れ込んだ愛は、確かに家族という器を通ってきたものだった。しかし、その根源にあったのは、もっと普遍的で、広大な何かだった。

そうだ、これは墓標などではない。歪んでいるかもしれない。混沌としているかもしれない。だが、これは紛れもなく、人類が紡いできた愛の可能性の結晶なのだ。上位の存在が絶望した、その先にあるはずの、新しい愛の形。

俺はゆっくりと立ち上がった。胸の光石は、まるで俺の決意を肯定するかのように、温かい光を放っている。

「……間違っているのは、あんたの方だ」

俺は、星なき空を仰ぎ、静かに呟いた。

「愛は、閉じ込めるものじゃない。与え、分かち合うものだ。それを見せてやる」

第六章 愛の再分配

俺は丘を駆け下り、人々が消えかけている街の中心、噴水が涸れた広場へと向かった。そこに立つと、胸の光石に両手を重ねる。目を閉じ、内に渦巻く全ての愛情に意識を集中させた。ありがとう、と心の中で呟く。祖母に、曽祖父に、会ったこともない全ての祖先たちに。あなたたちの愛は、俺の中で確かに生きていた。そして、これから世界の中で生き続ける。

「行け」

光石が、俺の意志に応えて砕け散る。

パリン、と硝子が割れるような清らかな音が響き渡った。同時に、俺の肉体は足元から光の粒子となって解け始めた。胸から溢れ出したのは、混沌の光。琥珀色、深紅色、瑠璃色、虹の全ての色が混ざり合った、無数の愛の光片だった。それらは奔流となって天に昇り、やがて優しい光の雨となって、静かに世界へと降り注いでいった。

透けていた人々の輪郭が、みるみるうちに確かなものになっていく。失われた色彩が街に戻り、止まっていた時間が再び動き出す。俺の意識が薄れていく中で、最後に見たのは、見知らぬ者同士が、ごく自然に手を取り合い、互いの存在を確かめ合うように微笑み合う光景だった。ああ、これで良かったのだ。

第七章 新しい家族

カイという青年が、その存在と引き換えに世界を救ってから、どれほどの時が経っただろうか。世界は再生し、人々は新しい絆の形を見出していた。血の繋がりだけが家族ではない。魂が共鳴し、互いを思いやる心さえあれば、誰もが誰かの家族になれる。そんな当たり前の真実が、世界の新しい法則となっていた。

ある晴れた日の午後。公園で、一人の少女が駆け出して転んでしまった。泣き出した少女に、最初に駆け寄ったのは母親ではなかった。ベンチに座っていた見知らぬ老婆だった。老婆は皺の刻まれた優しい手で少女の膝の土を払い、涙を拭ってやる。

「痛かったね。もう大丈夫だよ」

その瞬間、二人の間に、ほんのりと温かい光が灯って消えた。それは誰の目にも見えない、微かな光。

風が木々を揺らし、光の粒子が舞う。街の喧騒、子供たちの笑い声、恋人たちの囁き。その全てに、彼の愛は溶け込んでいる。存在は失われても、その残響は世界の隅々にまで満ち、全ての生命の心に宿る、普遍的な愛の源となって、永遠に息づき続ける。


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