影写師と空白のパレット
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影写師と空白のパレット

第一章 色褪せた街の影法師

石畳の街は、常に無数の色で満ち溢れていた。喜びは陽光のような黄金色に、悲しみは夜の川面を思わせる藍色に、そして怒りは燃え盛る炎の赤色に。人々は感情のオーラを身に纏い、言葉以上に雄弁に自らを語っていた。

その色彩の洪水の中で、カイトだけはほとんど無色だった。

彼の営む『影写工房』の古びた扉を開ける者は、失われた感動を求める人々だ。カイトは『影写師』。他人の記憶に深く潜り、その人物が経験した最も鮮烈な感動の瞬間を、影としてこの世に再臨させる能力を持っていた。

「素晴らしい能力ね」と人々は言う。しかし、彼らは知らない。一つの感動を影として呼び覚ますたび、カイト自身の記憶の中から、同質の感動が一つ、永遠に消え去ることを。彼の内なる世界は、他人の鮮やかな記憶と引き換えに、少しずつ色彩を失い、モノクロームの風景画のように色褪せていく。

工房の隅、埃を被った机の上には、一つの万華鏡が置かれていた。かつては覗くたびに千変万化の色彩を見せたという、師の形見。だが今のそれは、何度覗き込んでも、ただ空虚な光の破片を映すだけだった。まるで、カイトの心そのものを象徴しているかのように。彼は冷えた指先でその筒に触れ、今日もまた、依頼人を待つ。街の喧騒が、磨りガラスの向こうでぼんやりと滲んでいた。

第二章 紅涙の依頼

工房の扉が、軋むような音を立てて開かれた。現れたのは、深い皺の刻まれた顔に、ひときわ濃い深紅の残像を揺らめかせた老婆だった。その色は、長い年月を経てもなお色褪せることのない、純粋な愛情の証。

「影写師様……で、いらっしゃいますかな」

老婆はエマと名乗った。彼女の依頼は、半世紀も前に亡くなった夫との、生涯でただ一度の感動をもう一度見たい、というものだった。

「あの人が、初めて私に愛を告げてくれた丘の上。あの時の夕焼けの……あの光を、もう一度」

エマの瞳から、紅色の涙が一筋、頬を伝った。それは彼女の放つオーラと同じ色をしていた。

カイトは黙って頷いた。これまで幾度となく、人々の過去をなぞってきた。幸福の絶頂、歓喜の瞬間。それらはどれも眩い光を放ったが、古の伝承に謳われる『真の感動』――全ての色を内包するという『虹色の発光』だけは、一度たりとも再現できたことがない。まるで、この世界からその感情だけが、ごっそりと抜き取られてしまったかのように。

「お引き受けします」

カイトの声は、井戸の底から響くように平坦だった。エマの深紅の残像が、安堵に微かに揺れる。その代償として、カイトの記憶からどの夕焼けが消えるのだろう。彼は、もはや思い出すことさえできなくなっていた。

第三章 追憶は金色の調べ

カイトはエマの皺深い手にそっと触れた。目を閉じると、老婆の記憶の海へと意識が沈んでいく。冷たい水の底へ、さらに深く。やがて、温かな光が見えた。

次の瞬間、工房の壁に、影が躍り出た。

それは半世紀前の丘の上だった。影絵となった若いエマと、朴訥そうな青年が、燃えるような夕日を背に立っている。風が二人の髪を揺らし、草の匂いが漂ってくるかのようだ。やがて青年が何かを囁くと、若いエマの影の輪郭から、凄まじい光が放たれた。

金色。純粋な喜びと、至上の幸福が溶け合った、溶かした蜂蜜のような黄金色。

その光は工房を満たし、壁の染みさえも神々しく照らし出した。老婆のエマは、嗚咽を漏らしながらその光景に見入っている。影の中の自分と、愛しい人。失われたはずの時が、確かにそこにあった。

「ああ……ああ……」

影がその役目を終え、壁に溶けるように消えていく。エマは何度も頭を下げ、涙で濡れた顔で工房を去っていった。

一人残されたカイトは、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われた。何かを失った。そうだ、確か幼い頃、故郷の海に沈む夕日を見て、世界はこんなにも美しいのかと息を飲んだ記憶があったはずだ。だが今、その情景を思い出そうとしても、ただ灰色のノイズがちらつくだけだった。また一つ、彼の色が消えた。

第四章 空っぽの万華鏡

虚しさが霧のようにカイトの心を覆っていた。彼は無意識に、机の上の万華鏡を手に取った。色を失った、ただのガラスの筒。自嘲するように、彼はそれを覗き込んだ。

いつもと同じ、光の欠片が乱反射するだけの、意味のない模様。

だが、その時だった。

先ほどエマの記憶に触れた指先が、万華鏡の縁に触れた。指にはまだ、あの金色の感動の残光が微かに宿っている。その光が万華鏡のレンズを通った瞬間――ほんの一瞬、信じられないものが彼の目に映った。

空虚な光の破片の向こう側で、認識できないはずの色が、陽炎のように揺らめいたのだ。

それは赤でも青でもなく、緑でも黄色でもない。言葉では定義できない、名もなき色彩の断片。虹の、ほんの小さなひとかけらのような輝き。

「……!」

カイトは息を飲んだ。慌てて何度も覗き込むが、もうその色は見えない。だが、確かに見たのだ。この世界では誰にも認識できないはずの『禁忌の色』。虹色の不在。その謎を解く鍵は、この万華鏡と、自分自身の内にあるのかもしれない。

人々はなぜ、虹色の感動を失ったのか。

なぜ、自分の能力をもってしても、それは再現できないのか。

答えを得るための方法は、一つしかなかった。だがそれは、影写師にとって最大の禁忌。自らの記憶を、その手で写し取る行為。残された、最後の一つの感動を犠牲にすることだった。

第五章 最後の一枚の記憶

カイトの中に残された、最後の鮮やかな記憶。それは、まだ両親が生きていた遠い昔の夜。三人で丘に寝転び、満天の星空から降り注ぐ流星群を見上げた時の記憶だった。

夜空を切り裂く無数の光の筋。

隣で息を飲む母の温もり。

力強く肩を抱いてくれた父の腕の感触。

畏怖と歓喜が入り混じった、あの時の胸の高鳴り。

これが、今のカイトを形作る、最後の礎だった。これを失えば、彼は本当に『空白』になる。だが、謎の核心に触れるためには、この道しか残されていなかった。

彼は工房に鍵をかけ、誰にも邪魔されないようにした。覚悟を決めて、自らの影に手を伸ばす。ひんやりとした影の感触は、自分自身の肌に触れるよりも生々しい。

「……さよなら」

誰に言うでもなく呟き、能力を発動させた。自身の記憶の最も深い場所へ、最後の潜水を始める。意識が遠のいていく。光の雨が降り注ぐ夜空の光景が、まるで古いフィルムのようにノイズを立てて焼け落ちていく。温もりも、音も、匂いも、感動も、全てが砂のように指の間からこぼれ落ちていった。

第六章 虹の器

全てが、消えた。

カイトの意識は、完全な白に染め上げられた。名前も、過去も、喜びも、悲しみも。彼を構成していた全ての要素が洗い流され、そこにはただ、空っぽの器だけが残された。

静寂。

だが、その完全な静寂と空白の中に、何かが流れ込んでくるのを感じた。

それは、一つの強烈な感情ではない。もっと微細で、無数で、名前さえ持たない感覚の奔流。窓から差し込む朝日の暖かさ。床板の軋む音。遠くで鳴く鳥の声。空気中に漂う微かな埃の匂い。今まで意識の外にあった、世界を構成するありとあらゆる要素が、感覚の洪水となって、彼の空白を満たしていく。

その瞬間、カイトの身体から光が溢れ出した。

それは、誰も見たことのない光だった。

黄金色でも、藍色でも、深紅色でもない。

世界に存在する全ての色が溶け合い、調和し、一つの巨大な輝きとなった、柔らかな『虹色の光』。それは、特定の感情の色ではなかった。世界そのものが持つ、無数の微細な感情の輝きそのものだったのだ。

『真の感動』とは、何か特別な出来事の中に宿るのではなかった。それは、ただ、この世界に存在しているという、その事実の中にこそ満ち溢れていた。人々は、自らの強烈な感情の色に目が眩み、その普遍的な輝きを『禁忌の色』として認識できなくなっていたのだ。

第七章 世界が初めて色づく日

カイトから放たれた虹色の光は、工房の窓を抜け、街全体を優しく包み込んだ。

街行く人々は、足を止めて空を見上げた。なんだ、この光は。

その光に照らされた瞬間、彼らは初めて気づいた。石畳の一つ一つの模様の美しさに。すれ違う人の瞳の奥にある、言葉にならない想いに。風が運ぶパンの焼ける香りに。自分自身の心臓が、確かにこの胸で鼓動しているという、その厳然たる事実に。

「ああ……」

誰からともなく、感嘆の息が漏れた。それは、自分たちが生きているこの世界が、こんなにも美しく、愛おしいもので満ち溢れていたという発見に対する、根源的な感動だった。

人々の身体から、次々と新しい色の光が生まれ始めた。それは今まで誰も見たことのない、複雑で、繊細で、名付けようのない無数の色彩だった。世界は、初めて本当の色を取り戻したのだ。

工房の中心で、カイトは静かに立っていた。記憶を失った彼の瞳は、赤子のように澄み切っている。彼は自分が誰なのかも、何をしたのかも知らない。ただ、色とりどりの光を放ち始めた人々を、そして美しく色づいた世界を、穏やかな微笑みを浮かべて見つめていた。

彼の足元で、あの万華鏡が虹色の光を浴び、その内側から初めて、まばゆいばかりの色彩をきらきらと放っていた。空白になった器は、世界で最も美しい輝きで満たされていた。

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