第一章 嘘つきたちの工房
「雨の音じゃない。それは、ベーコンを焼く音だ」
男は指先だけでキーボードを弾くように叩き、波形モニターを睨みつけた。
スタジオの防音扉が、重たい空気ごとおしとやかに閉まる。
「瑛二(えいじ)さん、もっとこう……湿り気が欲しいんです。都会の雨じゃなくて、紫陽花の葉を濡らすような」
ディレクターの男が、ガラスの向こうで申し訳なさそうに両手を合わせる。
瑛二は無言で首を振った。
喉元にある古傷が、蛍光灯の下で白く浮き上がる。
彼は声を出さない。出せないのだ。
その代わり、手元のメモ帳にペンを走らせ、ガラス面に押し付けた。
『了解。濡れた雑巾と、扇風機を使う』
ここは「フォーリー・スタジオ」。
映画やドラマの効果音――足音、衣擦れ、ドアの開閉音――を、アナログな手法で作り出す場所だ。
瑛二はこの道二十年の職人であり、声を失ってからは、世界中のあらゆる「音」が彼の言葉になった。
作業を再開しようとヘッドホンに手をかけた時、インターホンが鳴った。
予約のない客だ。
モニターに映っているのは、白い杖をついた若い女性だった。
華奢な肩が、小刻みに震えている。
瑛二はディレクターに目配せをし、「休憩」のサインを出してロビーへ向かった。
扉を開けると、湿ったアスファルトの匂いとともに、その女性――花音(かのん)が顔を上げた。
「……あの。ここに行けば、失くした音が見つかると聞いて」
焦点の合わない瞳が、瑛二の気配を探して彷徨う。
瑛二は彼女の手を取り、掌に指で文字を書いた。
『どんな音だ』
花音は一瞬驚いたように身を強張らせたが、すぐにその意味を理解し、ギュッと杖を握りしめた。
「母の、嘘です」
瑛二の眉がぴくりと動く。
「母は十年前、私を施設に預けて姿を消しました。その時、最後に私に言ったんです。『すぐに戻ってくるからね』って」
花音の声は、張り詰めたピアノ線のように危うかった。
「でも、その言葉の裏で、母は何か別の音を立てていました。それが何だったのか……私、どうしても思い出せなくて。あれが何だったのかを知らないと、私は一生、前に進めない」
瑛二は溜息をつき、ポケットからコインを取り出した。
それを床に落とす。
チャリン、と硬質で冷たい音がロビーに響いた。
『俺は魔法使いじゃない。音を作るだけの詐欺師だ』
そう書こうとして、止めた。
彼女の耳が、落ちたコインの音を追ってわずかに動いたからだ。
その仕草が、かつて自分が愛し、そして失った音の世界への執着と重なった。
瑛二は彼女の手をもう一度取り、ゆっくりと書いた。
『やってみよう』
第二章 記憶の周波数
スタジオの中は、ガラクタの山だ。
錆びたトースター、大量の砂利、古い傘、折れたバイオリンの弓。
一見すればゴミ屋敷だが、瑛二にとっては極上のオーケストラだった。
花音をパイプ椅子に座らせ、瑛二はマイクの前に立った。
「その時、お母さんはどこにいましたか?」
スマホの読み上げソフトを使って質問する。
「玄関です。雨の日でした。母は濡れたレインコートを着ていて……私の頭を撫でて、ドアノブに手をかけました」
瑛二は頷き、準備を始める。
まずは、レインコートの衣擦れ。
彼は薄手のビニールシートを丸め、自分の体に擦り合わせた。
カサッ、キュッ。
「……違います。もっと、重たい音」
花音が首を振る。
瑛二はビニールを濡れたタオルに変え、湿り気を演出する。
グジュッ、パスッ。
「近いです。でも、もっと……痛そうな音でした」
痛そうな音。
瑛二の手が止まる。
衣擦れが痛いとはどういうことか。
彼は思考を巡らせる。
「すぐに戻る」という言葉。
それは嘘だった。
ならば、その動作にも嘘が混じっているはずだ。
瑛二は、古い革鞄を持ち出し、その留め金を外す音を録った。
カチャリ。
「違います」
次に、重いブーツを履いて、その場で足踏みをした。
コツ、コツ。
「違います!」
花音の声が悲痛な響きを帯びる。
「もっと、心が削れるような……母さんは、笑っていたんです。声は笑っていたのに、音だけが泣いていたんです!」
瑛二はヘッドホンを外し、長考に入った。
「声は笑い、音は泣く」。
それは、相反する感情が同時に存在した証拠だ。
彼はスタジオの隅にある簡易キッチンへ向かった。
水を張ったボウルを用意する。
そして、自分の指を水に浸し、ゆっくりと引き上げた。
ポチャン。
違う。
これじゃない。
瑛二は目を閉じた。
十年前の雨の日。
子供を捨てようとする母親。
しかし、声は明るく振る舞う。
その極限状態での「動作」とは。
ふと、瑛二の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。
自分が声を失った事故の日。
叫びたくても叫べない喉が、ヒューヒューと空気を吸い込む音。
彼はハッとして、マイクのゲイン(入力感度)を最大まで上げた。
そして、自分の喉元の傷跡を指で押さえ、息を殺した。
『息を止める音』。
無音ではない。
肺が空気を欲して痙攣し、喉の奥が僅かに鳴る、生命の軋み。
彼はそれを録音し、さらに、濡れたタオルを強く握りしめる音を重ねた。
水滴が床に落ちる音ではない。
水が繊維の中に押し込められ、逃げ場を失ってじわりと染み出す音だ。
それを再生した瞬間、花音の肩が大きく跳ねた。
第三章 真実のノイズ
「……これ……」
花音の手が、空を掴むように彷徨う。
「この音……衣擦れじゃない。母さんが、自分の腕を……」
瑛二はモニターを見つめたまま、静かに頷いた。
花音には見えていないが、彼は確信していた。
母親は、レインコートの袖越しに、自分の腕を爪が食い込むほど強く掴んでいたのだ。
「行きたくない」「離れたくない」という衝動を、痛みでねじ伏せるために。
あの時の「キュッ」という音は、ビニールの摩擦音ではなく、母が自分自身を傷つける音だった。
「……母さん、痛かったんだ」
花音の目から、音もなく涙が溢れた。
「私を捨てるのが平気だったんじゃない。私に見えない場所で、こんなに……こんなに苦しい音をさせていたんだ」
瑛二は、次のトラックを再生した。
それは、彼が想像で補完した音だ。
ドアが開く音。雨の音。
そして、ドアが閉まる直前、極めて小さな、しかし明確な音。
『ごめんね』
それは言葉ではない。
口の中で舌が動き、唾液が弾ける微細な音から、瑛二が逆算して作った「言葉にならなかった吐息」だ。
花音はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
その泣き声は、スタジオの吸音材に吸い込まれず、瑛二の鼓膜ではなく、骨に直接響いてきた。
彼はマイクのスイッチを切った。
これ以上は、誰にも聞かせてはいけない音だ。
第四章 調律された心
一時間後。
花音は落ち着きを取り戻し、温かい紅茶を飲んでいた。
「ありがとうございました」
彼女の声は、来た時よりも少し低く、しかし芯のある響きに変わっていた。
「私、ずっと母を恨んでいました。嘘つきだって。でも、あの音は……あの嘘は、私を守るための防波堤だったんですね」
瑛二はスマホに文字を打ち込み、読み上げさせた。
「音は嘘をつきません。でも、優しく歪むことはあります」
花音は微笑んだ。
その笑顔は、雨上がりの紫陽花のように瑞々しかった。
「瑛二さん。最後に一つだけ、お願いしてもいいですか?」
彼女は立ち上がり、杖を持った。
「私の『これから』の音を、作ってください」
瑛二は少し考え、スタジオの床に散らばっていた小石を拾った。
そして、それを靴底で踏みしめ、強く、一歩を踏み出す音を録った。
ザッ。
乾いた、力強い音。
迷いのない音。
彼はそのデータをUSBメモリに入れ、彼女の掌に乗せた。
「……素敵な音です」
花音はそれを大切そうにポケットにしまい、深々と頭を下げた。
第五章 エンドロールの向こう側
花音が帰った後、スタジオには再び静寂が戻った。
瑛二は、先ほど録音したデータの波形を見つめていた。
そこには、花音の涙の成分と、母親の隠された愛の成分が、デジタル信号となって刻まれている。
「瑛二さん、さっきのテイク、OK出ましたよ」
ガラスの向こうから、ディレクターが親指を立てた。
どうやら、休憩前に録っていた雨の音が採用されたらしい。
瑛二は苦笑した。
プロの仕事として作った「完璧な雨音」よりも、一人の少女のために作った「歪んだノイズ」の方が、遥かに美しく響いた気がしたからだ。
彼は窓を開けた。
外はもう雨が上がっている。
街の喧騒が流れ込んでくる。
車の走行音、遠くのサイレン、誰かの笑い声。
普段は耳障りなそれらの音が、今は愛おしい人生のサウンドトラックのように聞こえた。
瑛二は喉に手を当て、声にならない音で呟いた。
(いい音だ)
世界は、語られない想いで満ちている。
それを拾い上げ、形にするのが自分の仕事だ。
彼は次の仕事に取り掛かるために、ヘッドホンを耳に当てた。
その横顔は、職人のそれに戻っていたが、瞳の奥には、確かな体温が宿っていた。
モニターの中で、波形が生き物のように跳ねた。
それはまるで、誰かの鼓動のように、力強く脈打っていた。
(了)