モノクロームの嘘、プリズムのサヨナラ

モノクロームの嘘、プリズムのサヨナラ

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第一章 灰色のキャンバス

「ねえ、私のこと描いてよ」

放課後の美術室。

油絵具の特有の匂い――俺には『鈍い鉛の匂い』としか感じられないその空間に、場違いなほど明るい声が響いた。

キャンバスに向かっていた筆を止める。

振り返ると、窓枠に腰掛けた少女がいた。

透き通るような肌。少し跳ねたショートボブ。

逆光を浴びて、彼女の輪郭が滲んでいる。

「……断る」

「えー、ケチ。海斗(かいと)君、美術部エースなんでしょ?」

「元、だ。今は幽霊部員」

俺は再びキャンバスに向き直る。

そこにあるのは、真っ白な下地に、適当に塗りたくった黒い線だけ。

「それに、俺には色がわからない」

嘘ではない。

三年前のあの日から、俺の視界から色彩は消え失せた。

世界はモノクロ映画のように、白と黒、そして無限のグレーだけで構成されている。

ただ、一つだけ例外がある。

「そんなことないよ。海斗君の絵、すごく『熱い』もん」

彼女がひらりと床に降りる。

その瞬間、俺の視界が揺らいだ。

彼女の周囲に、爆ぜるような『オレンジ色』が舞う。

感情だ。

俺は、実際の色が見えない代わりに、人の感情が色として視えてしまう。

「……お前、名前は」

「真白(ましろ)。小鳥遊(たかなし)真白」

真白は、俺の隣に置いてある丸椅子を引き寄せ、勝手に座り込んだ。

覗き込んでくる瞳の奥で、好奇心という名の黄色い光が瞬く。

「ねえ、文化祭まであと一ヶ月でしょ? それまで私の絵、完成させてよ」

「なんで俺が」

「私の『遺影』にしてほしいから」

ぎょっとして彼女を見る。

真白は悪戯っぽく笑っていた。

その笑顔の周りに浮かぶ色が、オレンジでも黄色でもなく、深く冷たい『群青色』だったことに、俺は気づかないふりをした。

第二章 ノイズと色彩

それから毎日、真白は美術室に現れた。

「もっと笑って」

「こう?」

「違う、もっと自然に」

俺は溜息をつきながら、パレットの上で絵具を混ぜる。

チューブのラベルには『Vermilion』『Cobalt Blue』と文字が書いてあるが、俺の目には全て濃淡の違う泥にしか見えない。

だが、真白を見れば色がわかる。

彼女が笑うと、温かなピンク色が部屋を満たす。

怒ると、鮮烈な赤が飛ぶ。

俺はその『感情の色』を頼りに、手探りで絵具を選び、キャンバスに叩きつけていく。

「海斗君ってさ、いつも誰かと喧嘩してるみたいに描くよね」

ポーズを取りながら、真白が言う。

「格闘してるんだよ。見えないものと」

「ふうん。……でも、私は好きだな。その必死な感じ」

筆が止まる。

心臓が、少しだけ早鐘を打った。

俺の視界の端で、淡い若草色の光が灯る。

それは安らぎの色だ。

誰かといて、こんなに穏やかな色が視えたのは初めてだった。

「……動くな。描きにくい」

「はいはい」

窓の外では雨が降っているらしい。

雨音は、俺にはザーザーというノイズではなく、無数の灰色の針が地面に刺さる音に聞こえる。

けれど、この狭い美術室だけは別世界だった。

彼女がいるだけで、世界は極彩色に塗り替えられていく。

「ねえ海斗」

「ん?」

「もし私が消えたら、この絵はどうなるの?」

唐突な問い。

筆先がキャンバスを汚す。

「……消えるって、なんだよ」

「例え話だよ。完成する前に私がいなくなったら、この絵は未完成のまま?」

「完成させる。意地でも」

俺の言葉に、真白は満足そうに微笑んだ。

だがその時、俺は見てしまった。

彼女の輪郭が、テレビのノイズのように一瞬だけ『ズレた』のを。

そして、彼女の胸の奥から溢れ出した色が、絶望的なまでに暗い『黒』だったことを。

第三章 嘘つきのパレット

文化祭まであと三日。

絵は九割方完成していた。

背景の夕焼け。逆光の中の少女。

その笑顔は、我ながら息を呑むほど美しかった。

だが、何かが足りない。

「目だ」

描かれた真白の目は、どこか虚ろだった。

本物の彼女が持つ、あの眩しいほどの生命力が描けていない。

「海斗君、今日はもう帰ろうよ」

真白の声に力がなかった。

ここ数日、彼女の『色』はどんどん薄くなっていた。

かつてのような爆発的なオレンジやピンクは影を潜め、透明に近い水色が揺らめいているだけだ。

「あと少しなんだ。この目を仕上げたら……」

「だめ!」

鋭い声。

驚いて振り返ると、真白が悲痛な表情で立っていた。

「完成させないで……」

「なんでだよ。遺影にするんだろ? 縁起でもない冗談言ってたけどさ」

「冗談じゃないよ」

彼女が一歩、後ずさる。

「海斗君。思い出して」

「何を」

「私が、誰なのか」

ドクン、と頭痛が走る。

視界が激しく明滅する。

「君は、小鳥遊真白。俺のクラスメイトで……」

「違う」

真白が泣きそうな顔で笑う。

「クラスの名簿を見て。私の席なんて、最初からどこにもないよ」

筆が床に落ちた。

カラン、と乾いた音が響く。

記憶の蓋が、ガタガタと震えだす。

三年前。交通事故。

目の前で砕け散った自転車。

赤。

視界を埋め尽くす、鮮血の赤。

あまりのショックに、俺は『色』を捨てた。

そして――『彼女の死』そのものを、記憶から消去した。

「嘘だ……」

「やっと気づいた」

真白の体が、足元から透け始めていた。

「海斗君が絵を描いている間だけ、私はここにいられたの。君の『見たい』という想いが、私を形作っていたから」

彼女は幽霊ではない。

俺の脳が生み出した、あまりにも鮮烈な幻覚。

または、俺の心が壊れないように守ってくれていた、イマジナリーフレンド。

「絵が完成したら、海斗君は現実を受け入れなきゃいけない。だから、私は消える」

第四章 消失点

「嫌だ!」

俺は真白の腕を掴もうとした。

だが、手は空を切った。

そこには冷たい空気しかない。

「描かない。完成させなければ、お前はずっとここにいるんだろ!?」

「それじゃあ、海斗君はずっと灰色の世界に閉じ込められたままだよ」

真白が、触れられない手で俺の頬を撫でる仕草をする。

温もりは感じない。

けれど、彼女から溢れ出る『愛おしさ』という名の黄金色が、俺の頬を濡らした。

「私ね、海斗君の描く絵が大好きだった」

「……」

「海斗君が見ている世界は、本当はこんなに綺麗なんだって、教えてくれたから」

彼女の姿が、急速に薄れていく。

「お願い。最後の仕上げをして。私を、海斗君の中で『思い出』にして」

俺は震える手で筆を拾った。

涙で視界が滲む。

だが、不思議と色は鮮明だった。

彼女が放つ、最後の輝き。

『ありがとう』の色。

『さようなら』の色。

そして、『愛してる』の色。

俺は叫び出しそうな心を押し殺し、その全てを筆に乗せた。

パレットの上で、色は混ざり合わない。

俺の心そのものを、キャンバスに叩きつける。

瞳に、光を入れる。

彼女が俺に向けてくれた、最高の笑顔の輝きを。

「――――できた」

呟いた瞬間。

美術室を満たしていた黄金の光が、ふわりと弾けた。

「うん。……最高傑作だね」

声は、もう耳には届かなかった。

心の中に直接響いたような、柔らかな余韻。

振り返ると、そこには誰もいなかった。

ただ、西日が差し込む埃っぽい美術室があるだけ。

丸椅子は、冷たく静まり返っている。

俺は崩れ落ちるように膝をついた。

第五章 世界が色づくとき

文化祭当日。

美術室は多くの生徒で賑わっていた。

その中心に、一枚の絵が飾られている。

タイトルは『プリズムの記憶』。

「すごい色彩……」

「写真みたいだけど、なんか泣けてくるな」

客の感想が聞こえる。

俺は、美術室の隅で窓の外を見ていた。

空は、抜けるように青かった。

校庭の木々は、目に痛いほど鮮やかな緑だ。

風船の赤、テントの白、生徒たちの制服の紺。

世界は、暴力的なほどの色に溢れて戻ってきた。

俺は、ポケットから一枚のキャンディを取り出す。

真白が好きだった、安っぽいイチゴ味のキャンディ。

包み紙は、彼女の笑顔と同じ、鮮やかなピンク色だ。

「……綺麗だよ、真白」

俺は呟く。

もう、返事はない。

けれど、俺の目には映っている。

この鮮やかな世界そのものが、彼女が俺に残してくれたギフトなのだと。

俺は絵筆を握りしめた。

痛みは消えない。

寂しさは埋まらない。

それでも、俺はこの色溢れる世界を描き続ける。

いつかまた、キャンバスの中で君に会うために。

絵の中の少女は、永遠に変わらない色彩で、俺に微笑みかけていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 海斗(かいと): 本作の主人公。美術部員。過去のトラウマにより「色彩」を失い、代わりに他人の感情をオーラのような色として視る共感覚を持つ。世界を冷笑的に見ているが、それは喪失感の裏返しである。
  • 小鳥遊 真白(たかなし ましろ): 海斗の前に現れる謎の少女。天真爛漫で強引な性格。彼女だけが海斗の視界の中で鮮やかな「色彩」を纏っている。その正体は、海斗が記憶の奥底に封じ込めていた「亡き幼馴染」の記憶が具現化した存在。

【考察】

  • モノクロと極彩色の対比: 海斗にとっての「モノクロ」は、悲しみから目を背けるための防衛本能(現実逃避)を象徴している。対して真白が纏う「色」は、喜びや悲しみといった「生の感情」そのものである。
  • 絵を描く行為の意味: 真白を描くことは、彼女を「記録」することではなく、彼女の不在を「認識」し、看取るための儀式として描かれている。絵の完成が彼女の消失(=成仏、あるいは受容)とリンクしている。
  • タイトルの「プリズム」: プリズムは光を分光して虹を作る。真白という存在が、海斗の灰色の心に光を通し、再び世界に色(感情)を取り戻させる役割を果たしたことを示唆している。
  • ラストシーンの救い: 真白は消えてしまったが、彼女のおかげで海斗の視界には色が戻った。これは「喪失は痛みを伴うが、世界をより美しく見せるための対価でもあり得る」という、逆説的な希望を読者に問いかけている。
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