影と記憶の編纂者
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影と記憶の編纂者

第一章 借り物の朝

朝の光が窓ガラスを撫で、埃を金色に染め上げる。僕の意識は、いつも深い霧の中から浮上するように始まる。目の前には、心配そうにこちらを覗き込むリナの顔があった。彼女の柔らかな髪から、陽だまりのような優しい香りがする。

「カイ、おはよう。今日のぶん、渡すね」

リナが僕の手にそっと触れる。その瞬間、冷たい水が血管を駆け巡るような感覚と共に、見知らぬ記憶が流れ込んできた。昨日の錬金術の授業で調合した薬液のツンとした匂い。放課後に友人たちと交わした他愛ない会話の温もり。夕暮れの鐘の音。それらはすべてリナのものであり、数秒前まで僕のものではなかったものだ。

「……ありがとう、リナ。昨日は、楽しかったみたいだね」

僕がそう言うと、彼女は少しだけ寂しそうな顔で微笑んだ。僕には、僕自身の過去がない。毎朝、誰かから「一日分の記憶」を借りなければ、僕は自分が誰で、ここがどこなのかさえ認識できない。借りた記憶は僕の中で上書きされ、決して持ち主には戻らない。だからリナは、僕に貸したぶんの昨日を、永遠に失うのだ。

ふと足元に目をやると、僕の影は床に薄く滲んだシミのように輪郭が曖昧だった。この『アルビオン学園』では、生徒たちの学びや成長が、自身の影に物理的な実体を与える。リナの影は彼女の隣で穏やかに揺らめき、アキラのような優等生の影は、まるで黒曜石の彫刻のように鋭く、独立した意思を持つかのように動く。

僕の影だけが、いつまでも形を成さない。記憶という土壌を持たない僕は、成長という名の根を張ることができないのだ。借り物の記憶で構成された僕は、まるで寄せ集めの木でできた、空っぽの人形に過ぎなかった。

第二章 揺らめく影たち

学園に不穏な噂が流れ始めたのは、秋風が校庭の落ち葉をさらい始めた頃だった。

「ねえ、聞いた? また記憶を失くした子が出たって」

「三年の先輩、昨日の試験範囲を丸ごと忘れちゃったらしいわよ」

生徒たちがひそひそと交わす言葉が、僕の耳を通り抜けていく。それは単なる物忘れではなかった。特定の出来事、特定の知識が、まるで綺麗に切り取られたかのように、彼らの頭から消え失せているのだという。

奇妙なことに、その現象と時を同じくして、一部の上級生たちの影が、以前にも増して濃く、力強く実体化していくのが見て取れた。特に学年首席のアキラの影は、今や彼本人と見紛うほどの存在感を放っていた。その影は、主の意思とは無関係に、廊下の隅でじっと他の生徒たちを観察していることがあった。まるで獲物を定める肉食獣のような、冷たい眼差しで。

僕の中で警鐘が鳴っていた。他人の記憶を糧とする僕の存在と、この記憶消失事件は、無関係ではないのではないか。僕がリナから記憶を借りるたびに感じる微かな罪悪感が、今は学園全体を覆う暗い霧となって心を蝕んでいく。

ある日の午後、渡り廊下でアキラとすれ違った。彼の影が、僕の足元の薄い影を一瞥し、その動きをぴたりと止めた。アキラ本人は僕に目もくれず通り過ぎていく。しかし、彼の影だけがそこに残り、まるで何かを渇望するかのように、僕に向かってゆっくりと手を伸ばしかけていた。ぞくりと背筋に冷たいものが走る。あの影は、何かを探している。僕の中にある、僕自身でさえ知らない何かを。

第三章 空白の学園史

リナが貸してくれた記憶の断片を頼りに、僕は学園の図書館の奥深くへと足を踏み入れた。高い天井まで届く書架には、革の匂いをさせた古書がびっしりと並んでいる。差し込む西日が埃を照らし、まるで時が止まったかのような静寂が支配していた。

噂の出どころを辿るうち、すべての謎がこの図書館に繋がっている気がしたのだ。司書のシオリ先生は、僕の姿を認めると、何も言わずに奥の部屋へと続く小さな扉を指さした。

扉の先は、書庫というよりは聖域に近かった。部屋の中央に置かれた黒檀の書見台に、一冊だけ、分厚い本が置かれている。装丁は豪華だが、タイトルはない。僕は恐る恐るその本に手を伸ばし、ページをめくった。

中は、すべてが空白だった。インクの染み一つない、真っ白なページが延々と続いている。これが『学園史』だと、借り物の記憶が囁いていた。しかし、なぜ白紙なのだろう。

僕がその滑らかな紙面に指で触れた、その瞬間だった。

まるで水面にインクを落としたかのように、淡い光の文字がページに浮かび上がったのだ。それは、僕がこれまで借りてきた記憶の断片――リナが教えてくれた魔法陣の描き方、別の生徒から借りた昨日の昼食の味、そして、今朝感じた陽だまりの香り。さらに、僕が直接関わっていないはずの、学園で失われた記憶の数々も、星座のように瞬きながら現れては消えていく。

この本は、僕という存在を介して、失われた記憶を集めている。そして、影たちはその記憶を奪い、この本へと運んでいるのではないか。僕の全身から急速に血の気が引いていくのを感じた。僕は、この学園にとって、一体何なのだ?

第四章 影の襲撃

夕暮れが学園を茜色に染める頃、事件は起こった。図書館からの帰り道、僕とリナは中庭でアキラと鉢合わせた。彼の表情はいつになく険しく、その背後に立つ影は、もはや墨汁のような闇そのものだった。

「カイ……お前から、それを引き剥がす」

アキラが呟くと同時に、彼の影が弾かれたように動き出した。狙いは僕ではない。リナだ。鋭利な爪を持つ漆黒の腕が、彼女の心臓めがけて伸ばされる。

「危ない!」

リナを守るように、彼女の穏やかだった影が輝きを増し、アキラの影の前に立ちはだかった。光と闇が激突し、耳をつんざくような甲高い音と、空気が震えるほどの衝撃が巻き起こる。しかし、力の差は歴然だった。リナの影は徐々に押し込まれ、その光が弱まっていく。

僕は、何もできずに立ち尽くしていた。僕には、実体を持つほどの影がない。守る力がない。リナが僕のために、また何かを失おうとしている。

――嫌だ。

その想いが、僕の身体を突き動かした。僕は無我夢中で駆け出し、リナを庇うようにして、アキラの影の腕に自らの手を触れた。

瞬間、世界が反転した。

アキラの影が奪い集めてきた、おびただしい数の記憶が、濁流となって僕の中に流れ込んできた。喜び、悲しみ、怒り、絶望。何百人分もの人生が、僕の空っぽの器の中で暴れ狂う。頭が割れるような激痛と共に、図書館で見た『学園史』の空白のページが脳裏を駆け巡り、凄まじい速度で文字に埋め尽くされていく。

「う…あ…あああああっ!」

悲鳴は僕のものだったのかさえ分からない。意識が途切れる寸前、僕を心配そうに見つめるリナの涙と、驚愕に目を見開くアキラの顔が見えた気がした。

第五章 学園の心臓

目覚めた場所は、見慣れない天井の高い部屋だった。暖炉の火が静かにはぜる音がする。身体を起こすと、傍らの椅子に腰かけていたシオリ先生が、穏やかな瞳で僕を見つめていた。

「気分はどうかな、カイ君」

「僕は……」

混乱する僕に、先生は静かに語り始めた。この学園の、そして僕という存在の真実を。

このアルビオン学園は、単なる教育機関ではない。優れた才能を持つ生徒たちの学び、成長、経験、そのすべてを「集合的無意識」――いわば学園全体の知性として蓄積し、未来永劫にわたって保存するための巨大な装置なのだと。

生徒たちの影が実体化するのは、彼らの成長が記憶として結晶化する過程の現れ。そして、最も成長した者の影は、他の生徒たちの成熟した記憶を効率よく収集し、「器」へと運ぶ役割を担う。アキラの影の行動は、その本能に従ったものだった。

「そして君こそが、その記憶を集め、編纂するために創られた、たった一つの『器』なのだよ」

僕が自分自身の記憶を持たないのは、他者の記憶という膨大な情報を受け入れるために、純粋な空白である必要があったから。僕が毎朝記憶を借りていたのは、器が正常に機能するための最低限のOSをインストールするようなものだった。そして『学園史』は、僕という器に集められた記憶を記録する、学園の心臓そのものだった。

「創立者は、個人の天才が死と共にその知性を失うことを嘆いた。だからこそ、この学園を創った。個を超えた、永遠に成長し続ける知性を生み出すために」

僕は、壮大な計画のために用意された、ただの器。その事実に、声も出なかった。

第六章 最後の選択

シオリ先生の話を聞き終えた僕は、再び『学園史』の前に立っていた。あの一件以来、本のページは目に見えるほどの光を放ち、無数の記憶が美しい模様を描いている。

「すべての記憶は集まった」と先生は言う。「あとは君が、それと一つになるだけだ。君が『学園史』そのものになることで、編纂は完了する」

それは、僕という個人の消滅を意味していた。

「だが、選択肢はもう一つある」

先生が指さしたのは、本の最終ページだった。そこには、一つの人影のようなものが描かれている。

「それは、この学園の創立者にして、最初の『器』の試作品だった者の記憶だ。それを君自身に取り込めば、君は『カイ』という一人の人間として、過去を持って生きることができるだろう」

個としての自分を取り戻すか。それとも、学園という巨大な知性の一部となるか。

僕は目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、いつも僕を心配してくれたリナの笑顔だった。僕に敵意を向けていたように見えたアキラの、苦悩に満ちた顔。そして、僕に記憶を貸してくれた、名も知らぬ多くの生徒たちの日常の輝き。

僕が取り戻すべき過去など、どこにもない。僕を形作ってきたのは、彼らが僕に与えてくれた、温かい記憶の数々なのだから。それらを無かったことにして、見知らぬ誰かの過去を生きるなんて、僕にはできなかった。

僕は、静かに目を開けた。

「先生。僕は、僕の役割を果たします」

第七章 記憶の編纂者

僕は、ゆっくりと『学園史』に両手を置いた。決意を伝えると、本は眩いばかりの光を放ち、僕の身体を優しく包み込む。指先から身体が粒子に分解され、光の奔流となって本の中へと吸い込まれていく感覚。痛みはなかった。ただ、温かい何かに還っていくような、不思議な安らぎがあった。

個人としての『カイ』の意識が、水に溶ける絵の具のように薄れていく。その代わりに、学園が創立されてから今日までの、すべての生徒たちの喜びや悲しみ、発見と挫折の記憶が、巨大な交響曲となって僕を満たしていく。ああ、これが僕が求めていたものだったのかもしれない。誰か一人ではない、ここにいるすべての人の繋がり。それが、僕の本当のアイデンティティだったのだ。

学園に散らばっていた影たちは、その役割を終えたように静かに主の足元へと収まっていく。これからは彼らが、生徒たちの成長の輝きを、僕――『学園史』――へと届ける、穏やかな守護者となるだろう。

……図書館の静寂の中、リナは一人、輝き続ける『学園史』の前に立っていた。もうカイはいない。けれど、この本がカイそのものなのだと、彼女は感じていた。

ふと、彼女は本の最終ページに、新しい文字が浮かび上がっているのに気づく。それは、彼女がカイに最後に貸した記憶にはなかった、たった一言。カイ自身が、借り物の記憶の中で育んだ、彼だけの言葉。

金色のインクで、こう綴られていた。

『ありがとう』

リナの頬を、一筋の温かい涙が伝った。彼は消えたのではない。この学園の過去と未来を紡ぐ、永遠の物語になったのだ。風がページをめくるたび、学園には新しい記憶が刻まれていく。カイという名の、優しい編纂者によって。


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