静止した秒針の卒業
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静止した秒針の卒業

第一章 羽のように軽い思考と、鉛の思索

僕、空木 朔(うつぎ さく)の体は、思考の質量を物理的に感じる。

他愛ない雑談に興じ、空っぽの言葉を交わしている時、体は風船のように膨らんで、地面から数ミリ浮き上がるような浮遊感を覚える。けれど、ひとたび物事の本質を深く見つめようとすれば、足元に鉛が流れ込み、肺が水銀で満たされ、意識そのものが地核へと引きずり込まれるかのような重圧に苛まれるのだ。

僕が通う『共鳴学園』は、そんな僕の体質を笑わない、不思議な場所だった。ここでは、生徒たちの集合的な感情の波長が、物理法則を書き換える。試験前の焦燥は廊下を無限に引き伸ばし、文化祭前の高揚は一日を数時間に短縮する。教室の壁は時折オーロラのように揺らめき、向こう側に見たこともない風景を映し出すこともあった。それが、僕らの日常だった。

だが、その日常に溶け込まない異質な存在がいた。『固定された生徒たち』だ。

彼らは、学園の空間や時間がどれほど歪もうと、一切影響を受けない。いつも同じ時刻に、同じ場所で、同じ行動を繰り返す。窓辺で微笑み続ける少女。廊下で同じページの文庫本を読みふける少年。彼らの周りだけ、時間が凍りついているかのようだった。

他の生徒たちは、彼らを風景の一部のように気にも留めない。しかし僕には、彼らの存在が、完璧な絵画に落ちた、じわりと広がるインクの染みに見えてならなかった。彼らを思うたび、僕の体はゆっくりと、しかし確実に、地面へと沈み込んでいくのだった。

第二章 歪みのノイズ

最近、学園の歪みが危険な領域に達し始めていた。共鳴の波長が乱れ、不協和音を奏でているのだ。音楽室のピアノはひとりでに悲鳴のような旋律を奏で、中庭の噴水はインクのような黒い水を噴き上げた。歪みは、もはや日常のスパイスではなく、学園そのものを蝕む病巣と化していた。

「危ない!」

友人の声に振り返る暇もなく、僕の体は強い力で突き飛ばされた。さっきまで僕が立っていた場所の床が、まるで熱したバターのようにどろりと溶け落ち、奈落のような闇が口を開けていた。

「朔、最近ぼーっとしてることが多いぞ。考えすぎは良くないって」

「……ああ、ごめん」

友人の言葉は正しかった。僕は『固定された生徒たち』について考えすぎていた。そして気づいてしまったのだ。学園の危険な歪みは、決まって彼らの周辺で発生していることに。彼らの不動の存在が、学園のしなやかな感情の流れを堰き止め、澱みを生み出している。彼らは静かなるノイズであり、学園を崩壊へと導く時限爆弾だった。

なぜ彼らは変わらないのか? なぜ僕らと違う世界を生きているのか?

その問いが頭をよぎるたび、僕の足はコンクリートの床に深く根を張り、一歩も動けなくなるのだった。

第三章 開かれた教科書

答えを求め、僕は学園で最も時間の流れが遅い場所、古い埃とインクの匂いが満ちる第二図書室へと向かった。そこで、僕は運命の本と出会う。

『思考の重み』

背表紙が擦り切れたその古書は、誰が置いたのか、常に書見台の上で同じページが開かれていた。しかし、その本がただの古書でないことに、僕はすぐに気づいた。僕が『固定された生徒たち』について、思考の深度を増していくにつれて、ページに印刷された活字が、まるで生き物のように蠢き始めたのだ。

僕は集中した。意識を針の先端のように鋭く尖らせ、謎の中心へと突き立てる。体が悲鳴を上げる。肩に、背に、見えない巨人の掌がのしかかる。床が軋み、僕の靴がメリメリと音を立てて沈んでいく。

その瞬間、教科書の文字が完全に溶解し、セピア色の光を放った。

紙の上に映し出されたのは、僕らの知らない過去の学園だった。今よりもずっと素朴な木造校舎。楽しそうに笑い合う、見知らぬ生徒たちの姿。そして、その中心には、いつも窓辺で微笑んでいる『固定された生徒』の少女――永峰 詩織の面影があった。しかし、教科書の中の彼女は、今の彼女とは違い、泣き、怒り、心から笑っていた。

これは、誰かの記憶だ。この学園に封印された、あまりにも重い、誰かの記憶の断片なのだ。

第四章 静止した教室

学園の崩壊は、もう目前に迫っていた。空は不吉な紫色に染まり、校舎の至る所で空間の亀裂が走り、悲鳴のような風が吹き抜けている。

僕にはもう、時間がなかった。

『思考の重み』を抱え、僕は永峰 詩織がいつもいる、西校舎三階の窓辺へと向かった。一歩進むごとに、僕の体は数キログラムずつ重くなっていく。もはや歩行ではなく、泥濘の中を進むような苦行だった。

「永峰さん」

声をかける。彼女は振り向かない。ただ、変わらぬ微笑みを窓の外に向けているだけだ。

僕は覚悟を決めた。自らの思考の質量を、極限まで高める。彼女の謎、学園の真実、失われた記憶、そのすべてを僕という器に注ぎ込み、存在そのものを一つの巨大な問いへと変える。

「う……ぐっ……!」

骨が軋み、視界が赤く染まる。意識が途切れそうになるその刹那、僕は震える手を伸ばし、彼女の肩に触れた。

瞬間、世界が反転した。

重力も、音も、匂いも、すべてが消え失せた。僕が立っていたのは、歪みのない、完璧な静寂に包まれた教室だった。窓の外には、どこまでも青い、雲一つない空が広がっている。時計の秒針は、十二の文字を指したまま、ぴくりとも動かない。

そして、僕の目の前には、初めて驚きの表情を浮かべた永峰 詩織が立っていた。

「……あなた、は……誰?」

彼女の声は、何十年も使われなかった楽器のように、掠れて響いた。

第五章 記憶の質量

そこは、時間が停止した世界だった。詩織をはじめとする『固定された生徒たち』が生きる、永遠に変わらない学園の姿だった。

彼らは、かつてこの学園に実在した生徒たちだった。しかし、ある悲劇的な事故によって、彼らは志半ばでその命を奪われた。彼らの死を深く嘆いた学園の創設者は、自らの強い感情と、学園の共鳴の力を使い、彼らが最も輝いていた『幸せな一瞬』を切り取り、この静止した世界に封印したのだ。

『思考の重み』は、創設者が遺した後悔の日記だった。

「私たちは、学園の『安定』の象徴でなければならなかった。私たちがこの幸福な瞬間を信じ続ける限り、学園は永遠に安泰だと、あの方は信じていた」と詩織は語った。

だが、それは間違いだった。成長も変化も、卒業すらもない世界は、緩やかな死と同じだった。彼らの『変わらない』という強すぎる意志が、変化し続ける現実の学園の『感情の波長』を拒絶し、深刻な不協和音を生み出していたのだ。彼らは学園を守るための礎ではなく、その流れを堰き止める巨大なダムと化していた。

僕には二つの道が示された。僕の思考の質量をもって、この偽りの世界を破壊し、彼らを消し去るか。あるいは、僕自身もこの永遠の静寂の一部となり、学園と共に崩壊の運命から逃れるか。

詩織は静かに僕を見つめていた。その瞳には、諦めと、ほんの少しの羨望が浮かんでいた。

第六章 思考の卒業式

破壊か、同化か。究極の選択を前に、僕は目を閉じた。僕の思考は、創設者の日記の最も深い場所へと沈んでいく。そこにあったのは、後悔の念だった。

『彼らを解放してあげたかった。永遠に閉じ込めるのではなく、未来へと送り出してあげたかった』

それが、創設者の最後の、最も重い思考だった。

僕は目を開けた。詩織に向き直り、静かに告げる。

「どちらも選ばない」

僕は、僕の持ちうる最も重く、そして最も尊い思考を練り上げた。それは『破壊』の怒りでも、『同化』の諦めでもない。出会いと別れ、喪失の痛みと、それでも未来へと歩み出す希望。人が生まれ、そして死ぬまでに経験する、あらゆる感情の質量を凝縮した思考だった。

「君たちに、『卒業』を贈る」

僕がそう告げた瞬間、僕の体から放たれた思考の質量が、光の波となって静止した世界に広がった。それは暴力的な破壊ではない。止まっていた秒針を、そっと指で押してあげるような、穏やかで、しかし決定的な一撃だった。

詩織の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。何十年という時を経て、初めて流した涙だった。彼女の唇が、かすかに動く。

「……ありがとう」

彼女は微笑んだ。いつも浮かべていた作り物の微笑みではない、心の底からの、切なくて美しい笑顔だった。彼女の体が、他の生徒たちの体が、桜の花びらのように光の粒子となって舞い上がり、どこまでも青い空へと溶けていく。

それは、世界で一番静かで、一番優しい卒業式だった。

気づくと、僕は元の学園の廊下に立っていた。体の重みは消え、まるで羽が生えたように軽い。空から降り注ぐ光は柔らかく、学園を満たす感情の波長は、穏やかで心地よい旋律を奏でている。

崩壊の危機は去った。しかし、僕だけが知っている。この平和が、何の上に成り立っているのかを。窓辺にも、廊下にも、もう彼らの姿はない。風景の一部だったはずの彼らの不在が、僕の胸にだけ、ぽっかりと温かい空洞を作っていた。

僕は空を見上げた。あの日、彼らが溶けていった空を。

学園はこれからも変化し、時間は流れ続けるだろう。

僕もいつか、この学園を卒業する。彼らが教えてくれた、切なさと希望の重みを、この体に感じながら。

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