エーデルワイスの檻
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エーデルワイスの檻

第一章 色のない世界

僕、相羽 蒼(あいば あお)の世界は、色と匂いで満ちている。

人の感情が、僕の網膜と嗅覚を直接刺激するのだ。喜びはキラキラと舞う橙色の光の粒子で、甘酸っぱい果実の香りがする。悲しみは足元に澱む深い藍色で、雨上がりの湿った土の匂いを伴う。怒りは空気を灼くような緋色の炎で、鼻をつく焦げた金属臭を放った。

けれど、ただ一つだけ。この全寮制の『エウダイモニア学園』で、誰もが共有しているはずの感情だけが、僕には見えなかった。

『未来への期待』。

生徒たちが語るそれは、陽だまりのように暖かく、蜂蜜のように甘い香りがするのだという。僕の目には、その輝きは映らない。僕の鼻は、その甘さを捉えられない。僕にとって、彼らの語る未来は、色のない、無臭の空白地帯だった。

第二章 金色の義務

「蒼、またぼうっとして。ちゃんと『夢の種』にお祈りしないと」

隣の席の陽菜が、心配そうに僕の机を覗き込む。彼女の手の中にある小さな鉢植えからは、今にも芽吹きそうな力強い生命力が、金色のオーラとなって立ち昇っていた。僕には見えないその光を、周囲の生徒たちはうっとりと見つめている。

この学園では、入学時に全員に『夢の種』が与えられる。そして、それを自らの『未来への期待』という感情で育み、花を咲かせることが卒業の絶対条件だった。

陽菜の種は、もうすぐだろう。彼女の周りには、いつも太陽を凝縮したような暖かな金色と、完熟した桃のような甘い香りが漂っている。

「……うん、やってるよ」

僕は嘘をついた。僕の鉢にある種は、入学した日からずっと、固く黒い沈黙を守っている。僕がどれだけ卒業を願っても、未来を想像しようとしても、そこには何の色も匂いも生まれなかった。

廊下の壁には、歴代の卒業生たちの肖像画が飾られている。彼らは皆、誇らしげに自分の咲かせた花を手にしていた。けれど、その肖像画の間に、時折ぽっかりと空白の額縁があるのを僕は知っていた。

花を枯らした者は、学園の『過去』に囚われる。

その存在は、まるで初めからいなかったかのように、皆の記憶から消え失せていく。空白の額縁は、その残酷な法則の静かな証明だった。僕の足元にも、いつかそんな空虚な場所ができるのかもしれない。その予感が、冷たい霧のように胸にまとわりついていた。

第三章 紫黒の花

事件が起きたのは、月が空に滲むような、湿った空気の夜だった。

学園の中庭に、悲鳴に似た静寂が広がった。その中心に、一人の生徒が立ち尽くしている。図書委員の、物静かな少女、静(シズク)だった。彼女の足元、本来なら金色の花が咲くはずの鉢から、信じられないものが天を衝いていた。

それは、夜の闇よりも深い、紫黒色の花だった。

花弁はねじれ、まるで苦悶の叫びがそのまま形になったかのようだ。そして、その花から放たれる匂いは、僕の感覚を暴力的に揺さぶった。錆びた鉄と、澱んだ水が混じり合ったような、絶望の腐臭。

「きゃっ……!」

誰かが短い悲鳴を上げた。見ると、静に近付いた生徒たちの鉢から、金色の光が糸を引くように吸い取られ、紫黒の花に飲み込まれていく。彼らの顔から血の気が失せ、甘い未来の香りが急速に掻き消えていった。

そして、静の身体が、陽炎のように揺らぎ始めた。

「待って、静さん!」

僕が叫ぶより早く、彼女の足元が影に沈み、まるで沼に引きずり込まれるように、その姿が過去へと呑まれかけていた。周囲の生徒たちは、何が起きたのか理解できないまま、ただ呆然と「誰かいたっけ?」と首を傾げている。記憶の消去が、もう始まっているのだ。

僕だけが、その場から動けなかった。僕だけが、静から立ち上る、コールタールのように粘りつく黒い絶望の色と匂いを、はっきりと捉えていた。

第四章 枯れた花弁の記憶

僕は、ほとんど無意識に走り出していた。目指すは、学園の大図書室の最奥。そこに飾られている、創設者の遺品だという『枯れた花弁』。

埃を被ったガラスケースの中で、それは羊皮紙のように乾ききって、静かに横たわっていた。何の変哲もない、ただの植物の死骸。けれど、学園に伝わる古い伝承が、僕の頭の中で鳴り響いていた。『過去に囚われた者だけが、その花弁から失われた選択肢を読み取れる』。

静はまだ完全には消えていない。僕はガラスケースを叩き割り、カサリと乾いた音を立てる花弁を掴むと、中庭へと引き返した。

「静さん!」

もう彼女の輪郭はほとんど透明になりかけている。僕は、引きずり込まれようとする彼女の手を掴み、その手に『枯れた花弁』を押し付けた。

その瞬間、世界が爆ぜた。

僕の脳内に、奔流のようにイメージが流れ込む。それは静の記憶。無数の分かれ道。医者になる未来、ピアニストになる未来、名もなきパン職人になる未来、旅人になる未来――。あまりにも多くの可能性が、彼女の前に広がっていた。

彼女は、期待していなかったのではない。期待しすぎていたのだ。どの道を選んでも、選ばれなかった無数の未来が失われる。その選択という行為そのものへの『恐怖』が、彼女の中で『絶望』へと変わり、あの紫黒の花を咲かせたのだ。

そして僕は、花弁を通して、この学園の真実を視てしまった。

白亜の校舎、美しい庭園、生徒たちの金色の期待。その全てが、巨大な歯車の一部だった。この学園は、生徒たちの『未来への期待』をエネルギー源として、たった一つの『確定された未来』へと時間を固定する巨大な装置。卒業とは、その定められた未来を無条件に受け入れる儀式に過ぎなかった。

『絶望の花』は、そのシステムに対する強烈な拒絶反応。だからこそ、システムは彼女を『過去』という名のバグ領域へと排除しようとしていたのだ。

第五章 未来の檻

僕が『未来への期待』を感じ取れないのは、欠陥ではなかった。

この学園のシステムに、僕の感情はエネルギーとして認識されていなかったのだ。僕は、この未来の檻の中で、唯一のイレギュラーであり、自由な観測者だった。

「蒼……くん……?」

かろうじて、静の声が聞こえる。彼女の瞳には、僕の姿が映っていた。

「未来は、一つじゃない」僕は言った。「怖いのは、当たり前だ」

僕の手の中で、『枯れた花弁』が微かに熱を帯びる。その真の力は、失われた『期待』と『絶望』を一時的に具現化させること。

今なら、できる。

この偽りの楽園を、終わらせることができる。

陽菜が、他の生徒たちが、不安げに僕らを見ていた。彼らの世界では、静はもう存在しない人なのだろう。けれど、僕の隣には、確かに彼女がいる。未来への恐怖に震える、一人の人間がいる。

それで、十分だった。

第六章 現在を咲かせる者

僕は、静の手を引いたまま、自分の教室へと戻った。机の上には、固く閉ざされたままの僕の『夢の種』。

僕は『枯れた花弁』を、その黒い種の上に置いた。

そして、祈る。

未来への期待ではない。静から流れ込む、選択への『恐怖』と『絶望』。花弁を通して視た、無数の『失われた選択肢』という名の、不確かな『希望』。その全てを、僕の空っぽの鉢に注ぎ込んだ。

「咲け」

僕の種が、音を立てて割れた。

そこから伸びた芽は、金色でも紫黒色でもなかった。それは、あらゆる色を内包した、透明な光の奔流だった。咲いた花は、虹色とも無色とも言えない、名状しがたい輝きを放ち、その光は学園のシステムの中枢を貫いた。

ゴウ、と地鳴りがした。ステンドグラスが砕け散り、白亜の壁に亀裂が走る。学園を覆っていた見えないドームが、ガラスのように砕け散った。

そして、解放された。

学園が排除し続けてきた、無数の『過去』が。忘れ去られた生徒たちの記憶が、選ばれなかった未来の可能性が、奔流となって僕たちに流れ込んでくる。

世界が、本来の混沌とした姿を取り戻していく。

第七章 解放された空

気が付くと、僕たちは崩壊した学園の瓦礫の上に立っていた。

生徒たちは、混乱していた。けれど、その瞳には今までなかった色が宿っていた。喜びと悲しみ、期待と不安が複雑に混じり合った、本物の『現在』の色。陽菜が僕を見て、何か言おうとして、言葉を探している。彼女の周りには、もう単純な金色はなかった。けれど、その代わりに、雨上がりの虹のような、複雑で美しいグラデーションが揺らめいていた。

僕の隣で、静が空を見上げていた。彼女の身体は、もう消えかかってはいない。

「……ありがとう」

彼女の頬を、一筋の涙が伝った。それは、深い藍色と、朝焼けの淡い橙色が混じり合った、不思議な色をしていた。

僕たちの頭上には、もう天井はない。どこまでも続く、不確かな空が広がっているだけだ。無数の道が、夜空の星のように瞬いている。どの星へ手を伸ばすのか、もう誰も教えてはくれない。

けれど、それでいい。

僕は初めて、自分自身の内側に、確かな色を感じていた。それは、未来への期待でも、過去への後悔でもない。ただ、今この瞬間にここにいるという、静かで、力強い、大地の匂いを伴った透明な色だった。

僕たちの、本当の時間が、今、始まる。

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