忘却前夜のプロムナード

忘却前夜のプロムナード

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第一章 忘却を待つファインダー

僕の通うこの海辺の学園には、一つの絶対的な掟がある。

卒業式の日に、生徒は全員「忘却の門」をくぐらなければならない。門を抜けた先で、僕たちは高校生活三年間の記憶の全てを失う。ただ一つ、魂が最も強く希求した、たった一つの情景だけを残して。それは「祝福」なのだと大人たちは言う。過去に縛られず、真っ白な未来へ羽ばたくための、優しい儀式なのだと。

馬鹿げてる。僕はいつもそう思っていた。

だから僕は、誰とも深く関わらないように生きてきた。どうせ全て消えてしまう思い出に、意味などない。友情も、恋愛も、文化祭の熱狂も、卒業アルバムに寄せ書きされる言葉さえも、忘却の前では等しく無価値だ。

僕は写真部の部室の窓から、ファインダー越しに世界を切り取っていた。レンズを通せば、喧騒も色彩もどこか他人事になる。卒業までの時間をやり過ごすには、それが一番いい方法だった。

「――見つけた! 水瀬湊くん、だよね?」

突然、背後から弾むような声がした。振り返ると、そこにいたのは月島響。太陽の光を吸い込んでそのまま髪の色にしたような、快活な少女。クラスは違うが、その底抜けの明るさは有名だった。僕のような日陰の住人とは、接点があるはずもない。

「何の用?」

ぶっきらぼうに返すと、彼女はまったく怯まずに、きらきらした瞳で僕に一枚の写真を突きつけた。それは僕がコンクールに出した、夕暮れの教室を撮った一枚だった。

「この写真、すごく綺麗。光の捉え方が、なんだか……寂しいけど、優しい」

「……感想なら結構だ」

「違うの! あなたなら、わかるかもしれないって思ったんだ」

彼女はぐっと身を乗り出した。甘いシャンプーの香りが鼻をかすめる。

「私と一緒に、この運命に抗ってみない?」

突拍子もない言葉に、僕は思わず眉をひそめた。抗う? 忘却の掟に?

「無駄なことだ。誰も逆らえない」

「でも、もしかしたらって思うの! この学園の七不思議、『記憶の保管庫』って話、知ってる? そこに行けば、失われるはずの記憶を全部保存できるんだって」

馬鹿げた都市伝説だ。僕はカメラを構え直し、ファインダーに目を当てた。会話を終わらせるための、僕なりの合図。しかし、彼女はレンズの前にひょいと顔を出し、僕の視界をジャックした。

「手伝って。お願い。湊くんのその目なら、他の人には見えないものが見える気がするの」

ファインダー越しに覗いた彼女の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。あまりにも真っ直ぐで、切実で、そして、僕がとうの昔に捨ててしまった「何か」を必死に守ろうとしているように見えた。

シャッターを切る。カシャ、という乾いた音が、やけに大きく響いた。これが、僕の退屈な日常が終わりを告げた、最初の音だった。

第二章 セピア色の宝探し

それからというもの、僕の平穏は月島響という名の嵐に掻き乱されることになった。

彼女は放課後になると僕を写真部の部室から引っ張り出し、「記憶の保管庫」探しと称して学園中を駆けずり回った。彼女の言う「宝探し」は、僕にとっては滑稽な悪あがきにしか見えなかった。

「見て、湊くん! この渡り廊下から見える夕日、絶対に残したい記憶の一つだよね!」

彼女はそう言って、スマホで何度も写真を撮る。僕が黙ってそれを見ていると、彼女は唇を尖らせた。

「湊くんも撮ってよ。そのすごいカメラで」

「どうせ消えるものを撮って、何になる」

「記録するの! 形に残すの! 忘れてしまっても、写真があれば、こんなに素敵な時間があったって、いつか思い出せるかもしれないじゃない!」

彼女は必死だった。中庭の金木犀の香り、友人たちと笑い合った昼休みの些細な会話、文化祭で使ったペンキの匂いが染みついたジャージ。彼女は失われる全てを慈しむように、その五感に刻みつけようとしていた。

僕には、それが痛々しく見えた。失うことを知っているからこそ、執着してしまう。その執着が、卒業の日に彼女をどれだけ傷つけるだろう。

それでも、僕は彼女に付き合い続けた。なぜかはわからない。ただ、ファインダー越しに彼女を追っていると、モノクロだった僕の世界に、少しずつ色が戻ってくるような奇妙な感覚があったからかもしれない。

彼女に引きずられて訪れた古い図書館で、僕たちは一冊の古びた蔵書を見つけた。学園の創設者による手記だった。そこには、こう記されていた。

『若人の記憶は、未来への礎なり。されど、過去は時に枷となる。我が学び舎を巣立つ者よ、最も輝ける一つの星を胸に抱き、新たな空へ翔けよ。忘却は終わりにあらず。真の始まりを告げる鐘の音なり。最も強い想いだけが、時を超え、形を成すだろう』

「……やっぱり、何かあるんだよ!」

響は手記の文字を指でなぞり、興奮したように言った。「最も強い想いが形を成す場所……それがきっと『記憶の保管庫』だよ!」

手記の最後のページには、古めかしいインクで描かれた一枚のスケッチがあった。それは、学園のシンボルである、古い時計塔だった。

第三章 時計塔のレクイエム

埃っぽい螺旋階段を上り詰め、僕たちはついに時計塔の最上階に辿り着いた。そこは、巨大な歯車が静かに時を刻む、がらんとした空間だった。響が夢見ていたような、記憶を保存する巨大な装置も、魔法のような祭壇もどこにもない。

部屋の中央に、ぽつんと置かれた小さなテーブル。その上にあったのは、古びた銀色の写真立てだけだった。

「……これだけ?」

響の落胆した声が、歯車の音に混じって響く。僕がその写真立てを手に取ると、中にはセピア色に変色した写真が収められていた。楽しそうに笑い合う、見知らぬ制服姿の男女。おそらく、何十年も前の卒業生だろう。

写真の裏を返すと、そこには震えるようなインクの文字で、こう書かれていた。

『“残す記憶”は、選べない。選ばれるのだ。君の魂が、本当に失いたくないと叫んだ、たった一つの情景に』

その言葉は、僕たちの淡い期待を打ち砕くには十分すぎた。結局、僕たちは何も変えられない。運命は、僕たちが思うよりもずっと強固で、残酷だった。

「……そっか」

響の肩が、小さく震えた。

「やっぱり、駄目なんだ」

夕日が大きな窓から差し込み、彼女の横顔を赤く染める。その頬を、一筋の光が伝っていくのが見えた。

「どうして、そんなに記憶にこだわるんだ」

ずっと聞けなかった問いを、僕は口にしていた。彼女は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「……私ね、小学生の時、事故で頭を打って、少しだけ記憶を失ったことがあるの」

僕は息を呑んだ。

「ほんの一ヶ月分くらい。でも、目が覚めたら、親友と大喧嘩したことも、仲直りしたことも、全部忘れてた。周りのみんなが覚えてるのに、私だけが覚えてない。自分の心の一部が、ごっそり抉り取られたみたいで……すっごく、怖かった」

忘れることの恐怖。僕が目を背け続けてきたもの。彼女はそれを、たった一人で抱えていたのだ。

「だから、嫌なの。もう誰も、何も、忘れたくない。特に……」

彼女は顔を上げ、濡れた瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。

「私は、湊くんと出会ってからの記憶を残したい。くだらない宝探しに付き合ってくれたこと、文句言いながらもいつも隣にいてくれたこと……全部。でも、もしそれが選ばれなかったら……卒業したら、私は湊くんを忘れてしまう。それが、怖い」

その告白は、僕の心を根底から揺さぶった。

忘れてもいいと思っていた。どうせ消えるものに価値はないと、そう嘯いてきた。だが、目の前で涙を流す彼女を見て、初めて理解した。

失いたくない、と。

僕も、彼女を忘れたくない。彼女と過ごしたこの数ヶ月の、色鮮やかな記憶を、失いたくない。

僕の魂は、確かにそう叫んでいた。しかし、その声はあまりにも遅く、そしてあまりにも無力だった。

第四章 始まりのプロムナード

卒業式の日。空は憎らしいほど青く澄み渡っていた。

答辞が読まれ、校歌が歌われ、全てが粛々と終わっていく。僕は式の最中、ずっと隣のクラスの列にいる響の姿を探していた。彼女は一度だけこちらを振り返り、寂しそうに、でも、ほんの少しだけ誇らしそうに微笑んだ。それが、僕たちの最後の会話だった。

そして、運命の時が来た。「忘却の門」は、古い石で造られた、ただのアーチ状の門だ。だが、その向こう側は陽光で白く霞み、何も見えない。生徒たちが一人、また一人と、静かに門をくぐっていく。まるで、一つの世界から別の世界へと生まれ変わるように。

ついに、僕の番が来た。

何を願えばいい? 何を残したいと祈ればいい? 響の涙か、二人で見た夕日か、それとも図書館で見つけた古い言葉か。しかし、僕の心は不思議と静かだった。選ぶのは僕じゃない。選ばれるのだ。僕はただ、運命を受け入れるしかなかった。

一歩、足を踏み出す。全身が真っ白な光に包まれた。

――気がつくと、僕は門の向こう側に立っていた。

学園の記憶は、綺麗に消え去っていた。三年間を過ごしたはずの校舎も、教室も、友人の顔も、何も思い出せない。胸の中にあるのは、巨大な喪失感と、そして……たった一つだけ、鮮明に残った情景。

それは、時計塔での告白でも、二人で見た夕日でもなかった。

写真部の部室の窓辺。逆光の中で、太陽みたいな髪をした見知らぬ少女が、僕に向かって手を差し伸べている。

『私と一緒に、この運命に抗ってみない?』

その声だけが、温かい感情と共に、僕の魂に焼き付いていた。

なぜこの記憶が残ったのか、わからない。でも、それでいいと思った。

呆然と立ち尽くす僕の前に、ふと、誰かが立った。

見覚えのない制服を着た、一人の少女。けれど、その笑顔は、僕が胸に抱く記憶の中の少女と、どこか重なって見えた。

「……はじめまして」

彼女は、少し戸惑ったように、でも確かにそう言った。彼女の瞳は、何かを探すように僕を見つめている。

「はじめまして」

僕も、そう返す。

僕たちは、互いの名前も、共に過ごした時間も、交わした言葉も、何もかも忘れてしまった。

けれど、魂が選んだ「始まり」の記憶だけが、こうして僕たちを再び引き寄せた。

忘却は、終わりじゃない。

僕と彼女の、新しい物語が始まる、始まりの鐘の音だった。僕たちはまだ知らない互いに向かって、ほんの少しだけ、微笑み合った。

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