墨染月の残像

墨染月の残像

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第一章 墨色の世界と紅き椿

雪哉(ゆきや)の世界から、色が消えて久しい。かつて狩野派の末席を汚した絵師であった彼の瞼に映るは、ただ墨の濃淡のみ。賑やかな江戸の町も、行き交う人々の着物の柄も、空の青ささえも、すべては階調を違えるだけの灰色だった。三年前、高熱に浮かされたあの日を境に、彼の世界は鮮やかな色彩を永遠に失ったのだ。

以来、雪哉は色彩豊かな岩絵具を捨て、水墨画のみを描いて糊口をしのいでいた。記憶の底に残る色の残滓を手繰り寄せようとすれば、ひどい頭痛が彼を襲う。もはや色を思い出すことさえ、苦痛となっていた。彼は心を閉ざし、ただ淡々と、白と黒の世界を和紙の上に写し取るだけの屍のような日々を送っていた。

そんなある夜のことだった。月が雲に隠れ、提灯の灯りだけが頼りの暗い小路で、雪哉は息を呑んだ。闇に紛れるようにして佇む、一人の女。その姿そのものは、他の景色と同じくモノクロームのはずだった。だが、違った。

彼女の艶やかな黒髪に挿された一輪の椿。そして、小さく結ばれた唇。

その二点だけが、燃えるような、血のような「赤」を放っていたのだ。

まるで、漆黒の闇夜に灯された唯一の篝火。雪哉の世界で唯一、色を持つ存在。三年ぶりに見る鮮烈な色彩に、彼は眩暈さえ覚えた。心臓が早鐘を打ち、指先が痺れる。忘れていたはずの創作への渇望が、干上がった川に注がれる豪雨のように、魂を満たしていく。

「あ、あの……」

我知らず、声が漏れた。女はびくりと肩を震わせ、警戒の色を浮かべた瞳で雪哉を見つめる。その瞳は、彼の世界では深い墨色にしか見えなかったが、きっと濡れたような黒曜石の色をしているのだろうと、雪哉は直感した。

「何を怯えておいでか。手前、しがない絵師にございます。あなた様の、その……その椿の絵姿を、ぜひ描かせてはいただけぬだろうか」

必死の形相だったに違いない。女は少しだけ目を見開いたが、すぐに俯いてしまった。

「お戯れを……。わたくしは、追われる身。絵師様に関われば、ご迷惑をおかけするだけです」

か細く、しかし凛とした声だった。彼女が再び闇に溶け込もうとしたその時、路地の向こうから複数の足音が響き、役人らしき男たちの怒声が聞こえてきた。

「いたぞ! こっちだ!」

女の顔が絶望に染まる。雪哉は、考えるよりも先に動いていた。彼女の手を掴むと、自身が寝起きしている裏店の長屋へと引き入れた。古い木の扉を荒々しく閉め、閂をかける。狭い土間に二人、息を潜める。遠ざかっていく足音を聞きながら、雪哉は掴んだままの彼女の手が、氷のように冷たいことに気づいた。そして、自分の心臓が、まるで命を取り戻したかのように、激しく鼓動しているのを自覚していた。

第二章 重なる影、滲む色彩

女は小夜(さよ)と名乗った。彼女の父は勘定方の役人だったが、藩の大きな不正の証拠を掴み、それを告発しようとした矢先に口封じのために殺されたという。小夜はその証文を父から託され、以来、不正の中心人物である悪徳商人や、彼と通じる奉行所の役人たちに追われているのだった。

雪哉の六畳一間の荒れた部屋は、小夜にとって束の間の隠れ家となった。墨と古紙の匂いが立ち込めるその場所で、彼女は少しずつ心を解きほぐしていった。雪哉は、追っ手の目を眩ますために昼間は決して彼女を外に出さず、夜になると食料を調達して戻る生活を始めた。

そして、彼は夢中で筆を執った。

小夜がそこにいるだけで、雪哉の世界は変わった。彼女の唇と髪の椿だけが、変わらず鮮烈な赤を放っている。しかし、不思議なことに、彼女と時を過ごすうち、他の色もおぼろげながら感じられるようになったのだ。

小夜が淹れてくれた粗茶の湯気を見つめていると、ふと、その奥に淡い緑の気配が滲む。彼女が繕ってくれた雪哉の古い着物の綻び。そこに、ほんの一瞬、藍色の糸が見えた気がした。それはすぐに消えてしまう幻のようなものだったが、雪哉の心をかつてないほど高揚させた。

「雪哉様は、なぜ水墨画だけを?」

ある晩、月明かりの下で筆を走らせる雪哉に、小夜が問いかけた。

「……色が見えぬのです。この世のすべての色が、私には灰色にしか」

初めて、己の喪失を他人に打ち明けた。憐れまれることを覚悟していた。だが、小夜の反応は違った。彼女は静かに雪哉の隣に座ると、彼の描く絵を覗き込んだ。

「いいえ。雪哉様の絵には、色が見えます」

「何……?」

「この竹林の絵からは、雨上がりの土の匂いと、葉を濡らす冷たい雫の色が。こちらの虎の絵からは、風を切り裂く力強い金色が。わたくしには、見えます。雪哉様の心が、色を塗っておられるのです」

その言葉は、雪哉の固く凍てついた心を、じんわりと溶かしていく温かな光のようだった。彼は初めて、己の絵に価値を見出した。色を失ったのではなく、心で色を見る術を忘れていただけなのかもしれない。

小夜の肖像画は、何枚描いても完成しなかった。彼女の持つ不思議な生命力、憂いを帯びた瞳の奥に宿る強い意志、そして何より、彼の世界を彩るあの「赤」。それを和紙の上に完全に写し取ることは、至難の業だった。しかし、そのもどかしい時間こそが、雪哉にとっては何物にも代えがたい宝物となっていた。彼女を守りたい。このささやかな日常が、一日でも長く続いてほしい。雪哉は、絵筆を握るのとは違う、熱い感情が胸に込み上げてくるのを感じていた。

第三章 残像の真実

幸福な時間は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。ある月のない晩、長屋の扉がけたたましい音を立てて蹴破られた。鋭い目つきの同心、黒崎(くろさき)が、数人の下役人を引き連れて踏み込んできたのだ。

「探したぞ、小夜。そして……雪哉。貴様、まだ生きていたか」

黒崎の顔を見て、雪哉は息を呑んだ。忘れもしない。彼は、かつて同じ狩野派の門下で、雪哉の才能に激しい嫉妬を燃やしていた兄弟子だった。

雪哉は小夜を背に庇い、震える手で脇差を抜いた。絵筆しか握ったことのない手が、重い鉄の塊に拒絶されているかのようだ。

「黒崎……なぜお前が」

「なぜ、だと? 才能もない俺を差し置いて、師の寵愛を一身に受けたお前が憎かった。それだけのことよ」

黒崎は、歪んだ笑みを浮かべて刀を抜いた。その切っ先が、雪哉の描いた小夜の肖像画の一枚を切り裂く。

「その女は渡してもらう。そいつが持つ証文さえあれば、俺は望むものを全て手にできる。そしてお前は……三年前の続きだ。今度こそ、その命、貰い受ける」

「三年前……?」

黒崎の言葉に、雪哉の記憶の扉が軋みながら開く。あの高熱。色のない世界。もしかして――。

「そうだ。俺がやった。貴様の使う辰砂(しんしゃ)の絵の具に、ゆっくりと視神経を侵す異国の毒を混ぜてやったのだ。色を奪われ、絶望する貴様の顔を見るのは、さぞ愉快だったろうな!」

衝撃の事実に、雪哉は立ち尽くした。すべての元凶は、この男の嫉妬だったのか。怒りと絶望で、目の前が暗くなる。

だが、黒崎はさらに信じがたい言葉を続けた。

「それにしても、見事な狂いっぷりだ、雪哉。お前、まだ『小夜』の絵を描いていたのか。その女はな、お前が色を失う直前、最後に描いていた『理想の女』の絵だろうが!」

「な……にを……」

「まだ分からんか! そこにいる女なぞ、最初から存在しない! お前の狂気が生み出した、ただの幻影だ!」

黒崎が嘲笑と共に小夜に斬りかかった。雪哉は悲鳴を上げて割り込む。だが、黒崎の刃は、小夜の体を、まるで霞を切るように、何の手応えもなく通り抜けた。

そして、雪哉の目の前で、小夜の姿が陽炎のように揺らぎ始めた。

「雪哉様……」

彼女の声が、遠くから聞こえる。

「わたくしは、あなたの心が生んだ影法師。あなたが最後に見た『赤』……あの椿の絵の具の色を纏った、ただの残像にございます」

彼女の姿が、透けていく。唇の赤も、椿の赤も、淡い光の粒子となって霧散していく。雪哉の世界から、最後の色が、再び消えようとしていた。絶望が、彼のすべてを塗りつぶした。

第四章 心に灯る色

「幻に現を抜かし、見るがいい無様よ!」

黒崎の刃が、呆然と立ち尽くす雪哉に迫る。死を覚悟した、その瞬間。雪哉の脳裏に、小夜の言葉が蘇った。

『雪哉様の絵には、色が見えます。あなたの心が、色を塗っておられるのです』

そうだ。彼女は幻だったのかもしれない。だが、彼女と過ごした時間、交わした言葉、胸に灯った温かな感情は、紛れもない真実だった。彼女が教えてくれた。色は、目で見るだけのものではないのだと。

雪哉は脇差を捨て、傍らにあった墨壺を掴むと、黒崎の顔めがけて叩きつけた。墨を浴びて一瞬怯んだ黒崎の懐に飛び込み、渾身の力で突き飛ばす。もんどりうって倒れた黒崎は、雪哉の狂気を帯びた目に怯み、下役人たちと共に逃げ去っていった。

静寂が戻った部屋に、雪哉は一人、膝から崩れ落ちた。小夜の姿はどこにもない。彼女がいた場所には、描きかけの肖像画が数枚、散らばっているだけだった。雪哉の世界は、再び完全なモノクロームに戻っていた。

だが、不思議と絶望は感じなかった。虚無感はある。深い哀しみもある。しかし、彼の心の中には、確かな光が灯っていた。小夜が遺してくれた光が。

翌朝、雪哉は全ての画材を背負い、長屋を出た。彼は、ただひたすらに歩き、そして描いた。風の音、川のせせらぎ、人の笑い声、花の香り。五感で感じたすべてを、墨の濃淡と線の強弱に込めて、和紙の上に写し取っていった。

彼の描く水墨画は、以前とは全く違っていた。ただ形を写すだけだった絵に、命が吹き込まれていた。彼の描く滝の絵からは轟音が聞こえ、彼の描く桜の絵からは甘い香りが漂ってくるようだと、人々は噂した。いつしか雪哉は、「心で描く絵師」として、江戸で知らぬ者のない存在となっていた。

ある春の夜、雪哉は満開の桜の下に座り、一枚の真っ白な和紙を広げた。彼はゆっくりと目を閉じ、記憶の中の小夜を思い浮かべる。彼女の微笑み、凛とした声、そして、彼の世界で唯一色を持っていた、あの燃えるような椿の赤。

筆を執り、迷いなく紙に線を走らせる。

彼の瞼に映る世界は、今も墨一色だ。しかし、彼の心の中は、かつてないほど鮮やかな色彩で溢れかえっていた。たとえこの目が再び色を見ることはなくとも、この心が色を覚えている限り、彼の世界は永遠に色褪せることはない。

描き上げた小夜の絵姿は、不思議なことに、墨だけで描かれているはずなのに、見る者には髪の椿が鮮やかな赤に見える、と言われた。雪哉はただ静かに微笑むだけだった。彼の心に咲く紅き椿は、もう二度と散ることはないのだから。

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