感念の鞘

感念の鞘

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第一章 不開の刀

江戸の片隅、神田の裏路地に、清十郎の工房はひっそりと佇んでいた。表に看板はなく、知る人ぞ知る刀の鞘師(さやし)である。彼の仕事は、ただ刀身に合わせて木を削るだけではない。刀が持つ本来の「気」を読み、呼吸を合わせるようにして鞘を誂える。その腕は天下一と噂され、大名家からの注文も絶えなかった。

しかし、清十郎は決して人と深く交わろうとしなかった。客との応対は最低限に留め、工房に籠る日々。その理由は、彼が生まれながらに持つ呪われた異能にあった。

清十郎は、物に触れると、その持ち主が込めた最も強い感情を追体験してしまうのだ。他人の喜び、怒り、そして悲しみまでもが、奔流となって彼の心に流れ込む。その苦痛から逃れるため、彼は仕事で使う道具以外に素手で触れることができず、常に薄い鹿革の手袋を身に着けていた。他人の心が流れ込むのを恐れるあまり、自分の心さえも固く閉ざして生きてきた。

ある雨の日の午後だった。工房の引き戸が静かに開かれ、武家屋敷の用人と思われる壮年の男が、深々と頭を下げた。男が差し出した書状には、とある小藩の城代家老の名が記されていた。

「鞘師殿に、是非ともお頼みしたい儀がござる」

依頼内容は、常軌を逸していた。藩主が所持する一振りの刀。しかし、その刀は三年前に起きたある事件以来、誰が力を込めても、一寸たりとも鞘から抜くことができなくなったというのだ。「不開(あかず)の刀」と呼ばれるその曰く付きの刀のために、新しい鞘を作ってほしい、という奇妙な依頼だった。

「抜けぬ刀の鞘を、どうやって作れと申されるか」

清十郎は冷たく言い放った。刀身を測れぬでは、鞘の作りようがない。厄介ごとの匂いしかしない。

「そこを何とか。これは、我が藩の存亡に関わる一大事。報酬は、望みのままに」

用人の声は、切羽詰まっていた。その刀は、三年前、藩主の嫡男が非業の死を遂げた際に、その傍らにあったものだという。嫡男は素行が悪く、家臣と斬り合いの末に命を落としたと公には発表されている。以来、藩主は心を病み、政も滞りがちだという。

清十郎は眉をひそめた。人の深い情念が絡んだ品は、最も触れたくないものだ。断ろうとした、その時。用人が懐から取り出した手付金が、畳の上に置かれた。包みから零れた数枚の小判が、薄暗い工房の中で鈍い光を放つ。その黄金に触れることさえ、清十郎には躊躇われた。しかし、それ以上に彼の心を揺さぶったのは、用人の目から伝わる、主君を思う純粋な「憂い」の念だった。

「……分かり申した。ただし、仕事のやり方は、私に一任いただく」

手袋越しの指先が、微かに震えていた。清十郎は、自ら厄災の渦中に足を踏み入れてしまったことを予感していた。

第二章 残された念

数日後、清十郎は藩の城に招かれた。通されたのは、城の奥深く、陽の光さえ届かぬ一室だった。部屋の中央に置かれた刀掛けには、問題の「不開の刀」が静かに鎮座していた。黒漆塗りの鞘は、夜の闇をそのまま固めたような不気味さを漂わせている。

城代家老が、固唾を飲んで見守っている。清十郎は深呼吸を一つすると、意を決して手袋を外した。冷たい空気が、久しぶりに晒された素肌を撫でる。震える指先で、そっと刀の柄に触れた。

その瞬間、凄まじい濁流が彼を襲った。

――暗い、冷たい、底なしの沼。出口のない絶望。息もできぬほどの後悔。

「うっ……!」

思わず呻き、後ずさる。全身から汗が噴き出し、心臓が氷の手に掴まれたように痛んだ。これは、尋常な念ではない。死者の怨念か、あるいはもっと別の、根深い何かがこの刀に憑りついている。

「いかがされた!」

家老が駆け寄るが、清十郎は言葉を発することもできない。ただ、刀から感じた感情の残滓に打ちのめされていた。物理的に抜けないのではない。この刀は、持ち主の強すぎる「心」によって、鞘に縫い付けられているのだ。

このままでは仕事にならない。清十郎は、事件そのものを探る必要があると悟った。

「亡くなられた若君の、遺品を拝見したい」

案内されたのは、若君が生前使っていたという書斎だった。そこは時間が止まったかのように、三年前のまま残されていた。清十郎は部屋を見渡し、硯箱に手を伸ばした。蓋を開け、中にあった一本の筆に、そっと指を触れる。

流れ込んできたのは、意外なほどに清澄な感情だった。

――父上への、深い敬愛。民を思う、若々しい情熱。そして、未来への輝かしい希望。

巷で噂されるような、素行の悪い若者の姿はどこにもない。むしろ、次代の藩主たる気概に満ちた、実直な青年の姿がそこにはあった。

次に、書きかけの書状が置かれた文机に触れた。そこから感じ取れたのは、藩政改革への強い意欲と、父である藩主と共にこの藩を良くしていきたいという、ひたむきな「願い」だった。

おかしい。公式発表と、この部屋に残された若君の念は、あまりにもかけ離れている。家臣と斬り合いの末に死んだという男が、このような清らかな念を残すものだろうか。

清十郎の心に、初めて「知りたい」という欲求が芽生えた。それは、これまで彼がひたすら避けてきた、他人の心への強い好奇心だった。謎の核心は、やはりあの「不開の刀」にある。彼はもう一度、あの絶望の奔流と向き合う覚悟を決めた。

第三章 藩主の告白

再び、刀が安置された部屋に戻った清十郎の顔には、先ほどの恐怖の色はなかった。そこにあったのは、真実を暴き出す職人のような、研ぎ澄まされた覚悟だった。彼は家老に人払いを頼み、刀と二人きりになった。

今度は躊躇わない。両の手で、刀の柄を、そして鞘を、同時にしっかりと掴んだ。

再び、あの絶望の渦が彼を飲み込もうとする。しかし、清十郎は抗わなかった。自らの意識を、その感情の源へと深く、深く沈めていった。

――闇。雨の夜。庭の松が風に揺れている。

視界に映るのは、刀を構えた自分の手。そして、その切っ先で胸を貫かれ、信じられないという顔でこちらを見つめる、若者の姿。

「ちち……うえ……」

か細い声。それは、紛れもなく若君の声だった。

追体験しているのは、若君の感情ではなかった。この凄まじい後悔と絶望は、彼を斬ってしまった張本人――父である、藩主自身のものだったのだ。

真実は、こうだった。

その夜、藩政改革を巡って意見が対立した過激な家臣たちが、若君を暗殺しようと襲いかかった。騒ぎを聞きつけて駆けつけた藩主は、息子を守るため刀を抜いた。だが、闇と混乱の中、彼が渾身の力で突き出した一閃は、敵ではなく、守るべき息子の胸を誤って貫いてしまったのだ。

腕の中で冷たくなっていく息子の体温。自分の手で、未来を、希望を、何より愛する者を奪ってしまったという、筆舌に尽くしがたい絶望。

「二度と、この刀を抜くものか。二度と、我が子を傷つけたくはない……」

藩主の慟哭が、呪いのように刀に絡みつき、鞘と刀身を固く結びつけていたのだ。巷に流れた「家臣との斬り合い」という話は、藩の体面と、何より藩主自身を守るために家老が作り上げた、苦肉の嘘だった。

清十郎は、ゆっくりと刀から手を離した。全身は汗で濡れ、呼吸は荒い。しかし、彼の心は不思議と静かだった。これまで忌み嫌ってきた己の力が、誰にも言えぬまま三年間も一人の人間を苛み続けてきた、心の奥底の真実を掬い上げた。それは、畏怖を覚えるほどの体験だった。

もはや、これは単なる鞘作りの仕事ではない。囚われた魂を、解放するための儀式なのだ。

第四章 心を繋ぐ鞘

工房に戻った清十郎は、夜を徹して仕事に取り掛かった。彼が選んだのは、木曽の山奥から取り寄せた、樹齢三百年の朴(ほお)の木。雪のように白く、滑らかな木肌を持つ最上の材だ。

鉋(かんな)を引く音が、静寂な夜に心地よく響く。彼は、刀身を測ることができない。だから、藩主の心に寄り添うように、その絶望と後悔を包み込む鞘を想像で削り出していく。それはもはや、技術ではなかった。彼の全霊を込めた、祈りのような作業だった。

三日三晩、飲まず食わずで彼は木を削り続けた。そして、ついに一本の鞘が完成した。それは、装飾一つない、ただ白木が持つ美しさだけを湛えた、清冽な鞘だった。

最後に、清十郎は己の手袋を外し、素手でその鞘をそっと撫でた。そして、若君の遺品から感じ取った、あの清澄な念を、自らの心を通して鞘へと注ぎ込んだ。

――父への敬愛。未来への希望。そして、すべてを包み込むような、温かい「赦し」の感情を。

完成した鞘を携え、清十郎は再び登城した。藩主は、やつれ果てた姿で彼を迎えた。

清十郎は何も言わず、藩主の前に新しい鞘を差し出した。藩主は訝しげな顔でそれを受け取ると、促されるままに「不開の刀」をその鞘に収めようとした。

古い鞘から新しい鞘へ。刀身が移された、その瞬間。

まるで長い眠りから覚めたかのように、カチリ、と軽い音を立てて、刀が鞘に収まった。藩主が恐る恐る柄に手をかけると、あれほど固く閉ざされていた刀が、何の抵抗もなく、するりと抜き放たれた。

磨き上げられた刀身が、部屋に差し込む光を反射してきらめく。

それだけではなかった。藩主が新しい鞘を握った手から、温かい何かが心に流れ込んでくるのを感じた。それは、三年間忘れることのできなかった、息子の温もり。そして、声なき声が聞こえた気がした。

『父上、もうご自分を責めないでください』

「あ……あぁ……!」

藩主の目から、堰を切ったように涙が溢れ落ちた。彼はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣いた。それは、三年間凍りついていた心が、ようやく溶け出した瞬間だった。清十郎は、その姿を静かに見つめ、そっと部屋を後にした。

一月後、清十郎の工房に、藩主からの使者が訪れた。届けられたのは、丁重な礼状と、見事な拵えの小刀だった。

清十郎は、文机の上に置かれた小刀を、しばらく見つめていた。そして、ゆっくりと手袋を外した。

震える指先で、小刀の柄に触れる。

流れ込んできたのは、嵐のような激情ではなかった。それは、澄み渡る秋空のように、穏やかで、静かで、そして深い「感謝」の念だった。

清十郎の口元に、微かな笑みが浮かんだ。初めてだった。他人の心が、温かいものとして自分の中に満たされるのは。

呪いだと思っていたこの力は、あるいは、断ち切られた人の心を繋ぐための「架け橋」なのかもしれない。

清十郎は立ち上がり、工房の窓を開けた。外からは、賑やかな町の喧騒が聞こえてくる。これまでずっと耳を塞いできた、人々の暮らしの音。

彼はその音を、まるで新しい音楽を聴くように、ただ静かに聞いていた。そして、これまで踏み出すことのなかった世界へ、小さな一歩を踏み出してみようと、心に決めたのだった。

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