第一章 偽りの静寂
柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、常に灰色がかったノイズに満ちていた。それは耳で聞く音ではない。目で見る、感情の残響だった。湊には、人が発する言葉や文章、映像に込められた本物の感情が、色のついたオーラとして視認できる特殊な能力があった。喜びは淡い金色、怒りは燃えるような赤。そして、現代社会に最もありふれている感情――悲しみ、絶望、苦痛――は、淀んだ灰色のモヤとなって彼の視界を覆い尽くす。
ウェブニュースのアグリゲーターサイトでファクトチェッカーとして働く湊にとって、その能力は呪いであり、同時に仕事の道具でもあった。モニターに映し出される無数の記事やコメント。そのどれもが、扇動的な赤や、空虚な自己顕示欲を示す薄っぺらな青、そして他者への悪意に満ちたどす黒いオーラを放っている。彼は、そのオーラの色と濃度で、情報の信憑性や発信者の意図を瞬時に判断する。淡々と、機械のように。感情を殺さなければ、他人の負の感情に呑み込まれて気が狂ってしまうからだ。
その日、湊の目に飛び込んできたのは、日本中を揺るがしている若きIT起業家、天野圭吾(あまの けいご)の謝罪動画だった。数十億円規模の投資詐欺の首謀者とされ、メディアは彼を「時代の寵児から、稀代の詐欺師へ」と書き立て、SNSは非難の嵐に包まれていた。動画の中の天野は、高級そうなスーツを着こなし、やつれた様子もなく、むしろ挑発的ともとれる笑みを浮かべているようにさえ見えた。コメント欄は「反省の色ゼロ」「サイコパスの典型」といった言葉で埋め尽くされている。湊もまた、彼の態度から強烈な侮蔑や欺瞞のオーラを予測した。
だが、再生ボタンを押した瞬間、湊は息を呑んだ。
画面から溢れ出してきたのは、予測していたどんな色のオーラでもなかった。それは、湊がこれまで見たこともないほどに濃く、深く、そして純粋な「灰色」だった。まるで、世界中の悲しみを凝縮して固めたような、圧倒的な質量の絶望。それは嘘や演技で作り出せる類のものではない。魂の奥底、その核が砕けるほどの痛みを伴わなければ、決して現出しない色だった。
世間の誰もが嘘だと断じるその表情の裏で、天野圭吾という男は、静かに、そして完全に壊れていた。なぜだ? 罪を認め、反省しているなら、そこには後悔や恐怖を示す別の色が混じるはずだ。だが、そこにあるのは、ただひたすらに純粋な「悲しみ」だけ。この矛盾は何だ? 湊の心に、凍てついていたはずの好奇心が、小さな火花を散らした。世界が作り上げた「悪人」の仮面の下で、一体何が起きているのか。彼の灰色の世界が、その一点だけ、無視できないほどの重力を持って歪み始めていた。
第二章 沈黙の肖像
湊は、まるで憑かれたように天野圭吾の事件を追い始めた。それは会社の業務ではない。完全に個人的な探求だった。彼はまず、ネット上に散らばる天野の過去のインタビュー記事やSNSの投稿を洗い直した。湊の能力を通してみると、それらは興味深いグラデーションを描いていた。
数年前、事業を始めたばかりの頃の天野の言葉は、理想に燃える鮮やかな金色を放っていた。「情報格差をなくし、誰一人取り残されない社会を作る」。その言葉には、一点の曇りもなかった。しかし、事業が拡大し、世間の注目を浴びるにつれて、その金色は次第に色褪せ、彼を賞賛する記事やコメントには、嫉妬や羨望を示す濁った緑色がまとわりつくようになっていく。
湊は、天野がかつて熱心に支援していたという、あるNPO法人の存在を突き止めた。都心から離れた寂れた商店街の一角にある、「ひだまり文庫」という名の小さな私設図書館。そこは、様々な事情で学校に通えない子供たちのための居場所だった。
湊が訪ねると、初老の女性が穏やかな笑顔で迎えてくれた。代表の佐伯さんだった。湊が天野の名前を出すと、彼女の目尻に深い皺が刻まれた。
「天野さん……。信じられません。あの方が、あんな事件を起こすなんて」
佐伯さんは、棚に並んだ古びた本を愛おしそうに撫でながら語り始めた。
「あの方は、ここにいる子供たちの『声にならない声』を、誰よりも真剣に聞こうとしてくれた人でした。マスコミの前で話すような大きな理想じゃないんです。ただ、目の前で俯いている一人の子のために、何時間も隣に座っていられるような……そういう人でした」
佐伯さんの言葉からは、温かい信頼を示す琥珀色のオーラが立ち上っていた。それは、湊が普段モニター越しに見る、悪意に満ちた世界とは全く異質なものだった。
「最後にここに来られた時、少しお疲れのようでした」と佐伯さんは続けた。「『守りたいものが大きくなりすぎると、自分の手の中からこぼれ落ちていくのが怖い』と、ポツリと……。あの時の天野さんの横顔が、今でも忘れられません」
その言葉を聞いた瞬間、湊の脳裏に、あの謝罪動画の濃密な灰色のオーラが蘇った。守りたいもの。こぼれ落ちる。パズルのピースが、まだ足りない。しかし、確実に輪郭を帯び始めていた。天野圭吾という男の肖像は、メディアが描く冷酷な詐欺師とは似ても似つかない、あまりにも不器用で、繊細なもののように思えた。湊は、アスファルトの隙間から漏れる微かな光を追いかけるように、さらに深く、事件の闇へと足を踏み入れていった。
第三章 灰色の告白
執念の調査の末、湊は天野が潜んでいると思われる都内の安アパートを突き止めた。古びた木製のドアをノックすると、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと扉が開いた。そこに立っていたのは、動画で見た精悍な面影はなく、痩せこけ、無精髭を伸ばした天野本人だった。彼の全身からは、あの動画と同じ、息が詰まるほどの灰色のオーラが立ち上っていた。
「……誰だ」
かすれた声だった。湊は、ファクトチェッカーであること、そして、彼の謝罪動画に奇妙な「真実」を感じたことを正直に告げた。天野は警戒しながらも、湊の瞳の奥にある何かを読み取ったのか、彼を部屋に招き入れた。
がらんとした部屋には、最低限の家財道具しかなかった。天野は、床に座り込み、壁の一点を見つめたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あんたの言う通りだ。詐欺なんてしていない」
真犯人は、彼の大学時代からの親友であり、共同経営者でもあった男だったという。男は会社の金を使い込み、巨額の損失を出していた。だが、天野はなぜ、彼を告発せずに罪を被ったのか。湊がその疑問を口にすると、天野は初めて湊の方を向き、力なく笑った。
「彼を庇ったわけじゃない。……彼には、娘がいたんだ。心臓に重い病気を抱えた、まだ七歳の女の子が」
その瞬間、部屋の灰色のオーラが、一層深く、重く沈み込んだ。
「親友が逮捕されれば、あの子はどうなる? 『詐欺師の娘』として、世間から指をさされ、好奇の目に晒され、父親との思い出さえ汚されてしまう。あの子の未来から、父親という存在を、最悪の形で奪うことになる。……俺には、それが耐えられなかった」
天野は、自分が罪を被ることで、友人が密かに娘の治療に専念する時間を与えようとしたのだ。友人は海外での手術費用を稼ぐために不正に手を染めたが、その金はまだ手つかずで残っていた。天野は、自分が世間の非難を一身に浴びるサンドバッグになることで、友人が父親として娘のそばにいられる時間を、そして、その小さな命が救われる可能性を守ろうとした。
「あの謝罪動画の時……俺が悲しかったのは、自分が社会的に殺されることじゃなかった」
天野の声は、震えていた。
「俺の無力さのせいで、結局、あの子の心を完全には守りきれないかもしれないという絶望。そして……真実なんて誰も見ようとせず、ただ叩きやすい相手を求めているこの世界そのものへの、どうしようもない悲しみだ」
湊は、全身をハンマーで殴られたような衝撃に襲われた。
嘘。欺瞞。それらは常に、悪意や自己利益のために使われるものだと信じてきた。だが、目の前の男は、誰かを守るという、あまりにも崇高な目的のために、世界中を相手に壮大な「嘘」をつき通そうとしていたのだ。嘘の中にこそ、揺るぎない真実が隠されている。
湊がこれまで信じてきた、オーラで真偽を判別するという絶対的な基準が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。彼の能力は、感情の「色」は視えても、その色が生まれるに至った「文脈」までは読めなかった。自分は、世界の表層をなぞっていたに過ぎない。この男の灰色の絶望の奥にある、自己犠牲の輝きに、今、初めて触れた気がした。湊の価値観が、根底から覆された瞬間だった。
第四章 見えない声の響く場所
天野の部屋を出た湊の足取りは、重かった。彼の胸の中では、二つの正義が激しくぶつかり合っていた。一つは、ジャーナリストとしての正義。天野の告白を記事にし、真実を世に知らしめること。そうすれば、彼の汚名はそそがれるだろう。しかし、もう一つの正訪れるのは、天野が命懸けで守ろうとした「少女の平穏」の崩壊だ。真実を暴くことが、必ずしも誰かを救うわけではない。むしろ、最もか弱い存在を深く傷つける刃になり得る。
数日間、湊は眠れぬ夜を過ごした。モニターに映る記事やコメントのオーラは、以前よりもさらに醜悪で、薄っぺらく見えた。だが、もう以前のように、ただ無感動にそれらを眺めることはできなかった。その悪意の裏側にも、何かしらの痛みや悲しみが隠されているのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられた。
そして、湊は決断した。記事は書かない。その代わり、別の方法で、見えない声を拾い上げる。
彼は、天野から託された、共同経営者が不正を認める会話の録音データを、匿名で警察の内部告発窓口に送った。ただし、データを送る前に、彼は細心の注意を払い、友人やその娘に関する部分を全て削除し、事件の金の流れだけに焦点を絞るよう編集した。真実は明らかにする。だが、守られるべき個人の尊厳は、決して傷つけない。それが、湊が見出した新しい「正義」の形だった。
数ヶ月後、事件は静かに動いた。再捜査の結果、真犯人が逮捕され、天野の嫌疑は晴れた。だが、世間の熱狂はとっくに過ぎ去り、次の炎上ターゲットへと移っていた。天野の名誉が完全に回復することはなく、彼の存在は、忘れられたゴシップの一つとしてネットの片隅に追いやられた。
ある晴れた午後、湊は雑踏の中で、偶然天野の姿を見かけた。以前のような華やかなスーツではなく、洗いざらしのシャツを着た彼は、小さな花屋の前で、一輪のガーベラを手に取っていた。その表情は、驚くほど穏やかだった。湊の目には、彼の周りを漂うオーラが、あの絶望的な灰色ではなく、雨上がりの空のような、淡く、温かい光を帯びているのが見えた。きっと、あの少女の手術は成功したのだろう。
湊は、声をかけずにその場を立ち去った。
彼は今も、ファクトチェッカーとして働いている。だが、彼の仕事は変わった。ただ嘘を暴き、断罪するのではない。彼は、嘘や悪意のオーラの奥に隠された、声にならない「灰色」の叫びを探すようになった。誰もが見過ごしてしまう、小さな痛みの共鳴を。
彼の能力は、もはや呪いではなかった。それは、このノイズに満ちた世界で、見えない誰かの心に寄り添うための、ささやかで、しかし確かな灯火なのだ。湊はモニターに向かい、新たな記事を開く。その向こう側にある、まだ誰にも届いていない「見えない声」に耳を澄ませながら。世界は相変わらず灰色に満ちている。だが、その灰色の濃淡の中に、彼は確かな希望の響きを感じ取ることができるようになっていた。