静寂の箱庭

静寂の箱庭

1 4968 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 奇妙な廃棄物

真夜中の研究所は、漆黒の闇に沈んでいた。佐倉響は息を潜め、巨大製薬会社「アトラス・バイオ」のR&Dセンター裏口に隠された、メンテナンス用通路の扉をこじ開けた。長年培ったジャーナリストの勘が、この会社が推進する画期的な難病治療薬「セレスティン」の背後に、何か隠された真実があることを告げていた。社会はセレスティンを「奇跡」と謳い、アトラス・バイオは慈善事業者のごとく持て囃されている。しかし、響の胸には常に、その眩い光の裏に潜む影への疑念があった。

無人の廊下を進むと、微かな機械音が響いてきた。それは、深夜の作業にしては異様に慎重で、そして静かな音だった。響は音のする方へと向かい、無菌室のような厳重な区画の入り口にたどり着いた。そこでは、白い防護服に身を包んだ数人の作業員が、大型の密閉コンテナを搬出しているところだった。コンテナは、一般的な医療廃棄物用のそれとは明らかに異なり、まるで軍事機密品を運ぶかのように厳重に扱われていた。

響は柱の陰に隠れ、息を殺して様子を窺う。コンテナの一つが、不注意にもバランスを崩し、わずかに蓋がずれた。その隙間から覗いた光景に、響は血の気が引くのを感じた。無造作に詰め込まれていたのは、半透明の薄膜に包まれた、歪んだ形状の物体だった。それは、まるで人間の臓器が、無理やり原型を留めないように加工されたかのような、悍ましいものだった。一瞬、鉄と消毒液の混じった匂いとともに、微かな腐敗臭が鼻腔をくすぐる。

「まさか……」

響の脳裏に、数ヶ月前に行方不明となった妹の婚約者、悠斗の顔が過る。彼は、謎の難病に倒れ、アトラス・バイオの新薬治験に参加すると言ったきり、消息を絶っていた。当時、アトラス・バイオは治験の失敗を理由に、悠斗が「治療効果が得られず、転院した」とだけ説明し、それ以上の情報は一切開示しなかった。響は漠然とした不安を抱きつつも、妹の悲しみに寄り添うことしかできなかった。しかし、今目の前にある「奇妙な廃棄物」と、悠斗の失踪が、一本の不気味な線で結ばれようとしている予感に、響は身体が震えるのを止められなかった。

響が研究所を後にした時、空にはまだ夜の帳が下りていたが、響の心には、これまで感じたことのない深い闇が広がっていた。街はセレスティンを服用した人々の感謝の声と、それに便乗した企業のプロパガンダで溢れている。しかし、響の胸に去来するのは、あの廃棄物のグロテスクなイメージと、妹の悲痛な泣き声だった。この煌びやかな「静寂の箱庭」のどこかに、真実が隠されている。響は、この不気味な違和感を追い続けることを決意した。

第二章 見えない扉の向こう

あの夜以来、響は眠れぬ日々を送っていた。廃棄物の調査は難航を極めた。アトラス・バイオの警備は厳しく、内部の人間も口が固い。響は、社外に情報を求めるため、製薬業界の裏事情に詳しい旧知の記者や、元アトラス・バイオの従業員を探し回った。

数週間後、響は製薬業界の闇を暴くことで知られるフリーライター、神崎(かんざき)という男に辿り着いた。神崎は、響の取材意図を察し、薄暗い喫茶店で煙草を燻らせながら、静かに語り始めた。

「アトラス・バイオの『セレスティン』は、確かに革命的な薬だ。だが、完璧な薬など存在しない。ごく稀に、予想外の副作用が出る症例があるのは当然だろう?」

「予想外の副作用…具体的には?」

響は身を乗り出した。

「昏睡状態だ。治療を始めた患者の一部が、深い眠りに落ちる。意識不明の植物状態、というやつさ。アトラス・バイオは、これを『セレスティンが、脳の過剰な活動を鎮静させる過程で、稀に発生する不可逆的な状態』と説明しているがね。面白いのは、そういった患者は全員、社が運営する『特定の施設』に移送され、外部との接触を一切断たれることだ。」

神崎は不敵に笑った。

「その『特定の施設』が、君の妹さんの婚約者が『転院した』とされる場所と関係あるんじゃないか?」

響の心臓が激しく脈打った。悠斗も、もしかしたらその「昏睡状態」に陥り、アトラス・バイオの秘密施設に囚われているのかもしれない。神崎はさらに続けた。

「しかもだ、その昏睡状態になった患者たち…彼らの共通点については、メディアではほとんど報じられていない。特定の地域や、社会的に経済的余裕がない層に多い、という噂もある。」

響は絶句した。それは、社会が暗黙のうちに「選別」した命の価値に基づいた、冷酷な不公平を意味していた。

「そして、もう一つ奇妙なことがある。」神崎は声を潜めた。「彼らが移送される施設は、医療機関というよりも…まるで巨大な『培養施設』のようなのだと。どこか、通常の医療の概念とはかけ離れた、異様な施設だ。」

「培養施設……あの廃棄物と関係が?」

響の頭の中で、点が線に繋がり始めた。あのグロテスクな廃棄物は、もしかしたら、その「培養施設」から運び出されたものなのかもしれない。そして、悠斗もまた、その施設に閉じ込められ、何らかの形で利用されている可能性が浮上した。神崎は地図を広げ、山奥にひっそりと存在する、アトラス・バイオが所有する広大な敷地を指差した。

「ここが、噂の『エデン』と呼ばれる施設だ。外観は巨大な植物工場に見えるが、内部は完全に秘密のベールに包まれている。君が探している真実の扉は、この『エデン』にある。」

響の胸には、悠斗の命がまだ燃えているという一縷の希望と、それを奪い去ろうとする巨大な闇への恐怖が、同時に去来していた。

第三章 魂の回廊

神崎から得た情報をもとに、響は「エデン」へと向かった。そこは、深い森の中に隠された、外界から隔絶された施設だった。厳重な警備を潜り抜け、響は侵入経路を探した。数日間の偵察の後、施設の資材搬入口の死角を見つけ、深夜の侵入を決行する。

施設内部は、想像を絶する光景だった。白い廊下が幾重にも続き、無機質な空気が響の皮膚を刺す。廊下の先には、巨大なガラス張りの部屋が広がっていた。足を踏み入れた瞬間、響の視界に飛び込んできたのは、SF映画でしか見たことのないような光景だった。

部屋の中央には、何百もの透明な培養カプセルが整然と並び、その一つ一つに、チューブに繋がれた人間の体が横たわっていた。彼らは皆、深い眠りに落ちたように見えたが、その表情は生気がなく、まるで死体のように蒼白だった。彼らの体からは、絶えず何らかの液体が抜き取られ、また注入されていた。

「これは…まさか」

響は震える声で呟いた。それは、人間を「生きたまま」維持し、そこから特定の生体物質を抽出するための、巨大な「人間培養工場」だった。壁には、それぞれのカプセルに紐付けられたデータパネルが設置され、そこには患者のID、遺伝子情報、そして「生体組織抽出スケジュール」というおぞましい文字が記されていた。

響は必死に悠斗の姿を探した。胸が高鳴り、足がもつれる。そして、部屋の奥、少し離れた場所に設置された特別なカプセルの一つに、見慣れた顔を見つけた。悠斗だった。彼は、あの日の明るい笑顔を失い、完全に意識を失ったまま、まるで標本のように横たわっていた。その手首には、治癒の痕跡のない傷跡が残っていた。あの廃棄物は、彼の体から摘出された臓器だったのだ。

響はカプセルに駆け寄り、ガラスを叩いた。悠斗の無反応な顔は、響の心を深く抉った。絶望と同時に、激しい怒りが響の全身を駆け巡った。

その時、響の背後から声がした。「見つけましたか、佐倉さん。」

振り返ると、アトラス・バイオのCEO、天野(あまの)が冷徹な表情で立っていた。彼の隣には、武装した警備員が数人。

「なぜこんなことを…!悠斗を、彼らを一体何に利用しているんですか!」響は叫んだ。

天野は冷静に答えた。「セレスティンは、特定の難病に対して驚異的な効果を発揮します。しかし、その根源的な治療には、通常の薬剤では生成できない、極めて特殊な再生因子が必要不可欠なのです。それが、ここにある彼らの生体組織から抽出される『バイオ・エッセンス』です。」

「人間の命を、そんなものに…!」

「命の価値、ですか。我々はその線引きを、明確に行いました。セレスティンの副作用で昏睡状態に陥る人々…彼らには、共通の遺伝子型がありました。その遺伝子型を持つ人々は、社会的な貢献度が低く、将来的な医療費の増大を招く傾向にあると判明したのです。だからこそ、彼らにはこの役割を担ってもらうことにした。彼らの命は、より多くの『価値ある命』を救うために使われているのです。」

天野の言葉は、響の認識する「社会」の根幹を揺るがした。セレスティンが奇跡と称賛される一方で、社会は密かに、命に優劣をつけ、ごく一部の人々を犠牲にしていたのだ。そして、その犠牲者は、響のような「価値ある」人間が享受する恩恵の、見えない土台となっていた。

響は吐き気を催した。アトラス・バイオは、この非人道的なシステムを隠蔽するため、莫大な政治献金とメディア操作を行っていた。響が信じていた「正義」は、巨大な欺瞞の上に成り立っていたのだ。自身の無知が、響を深く打ちのめした。

第四章 償いの詩

エデンから逃げ出した響は、天野の言葉が脳裏から離れなかった。「価値ある命」という冷酷な選別。それは、響自身が、そして社会全体が無意識のうちに受け入れていた倫理の崩壊だった。絶望と自己嫌悪が響を蝕むが、悠斗や、あのカプセルの中で眠り続ける無数の人々の顔が、響の心を奮い立たせた。真実を公にしなければならない。この見えない闇に光を当てなければ。

響は神崎に連絡を取り、エデンで撮影した写真や動画、そして天野との会話を録音したデータを渡した。神崎は、響の覚悟と証拠の重さに言葉を失いながらも、その夜のうちにすべての情報をインターネットと海外メディアに流した。アトラス・バイオの妨害工作は凄まじかった。響の家は荒らされ、身に覚えのない容疑で逮捕状が出されそうになった。しかし、神崎の迅速な行動と、真実を求めるジャーナリストたちの連携により、アトラス・バイオの隠蔽工作は通用しなかった。

世界は激震した。セレスティンがもたらした恩恵と、その裏にある非人道的な真実に、人々は歓喜と怒り、そして深い罪悪感の間で揺れ動いた。アトラス・バイオへの批判は噴出し、株価は暴落、天野を含む経営陣は逮捕された。エデンは閉鎖され、患者たちはそれぞれの家族の元へ帰された。しかし、彼らの意識が戻ることはなく、多くの家族が、かつては生きていた愛する者の、変わり果てた姿に涙を流した。

響の闘いは、そこで終わったわけではなかった。真実を暴いた代償は大きかった。信頼していた友人からの裏切り、世間からの非難、そして何よりも、自分自身がこのシステムの一部であったという罪の意識。響はジャーナリストとしてのキャリアを捨て、悠斗の妹と共に、彼らの「生かされている」愛する者たちを介護する日々を送った。

ある日の夕暮れ、響は意識のない悠斗の手を握りながら、窓の外の茜色の空を見上げていた。妹は、絶望の淵にいたが、響と共に悠斗の傍にいることで、かすかな希望を見出そうとしていた。

「悠斗、ごめんね。私たちは、君たちの犠牲の上に成り立っていた幸福に、気づかずにいた。」

響の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。セレスティンを失った社会は、新たな医療の方向性を模索することになった。命の価値とは何か、進歩の名の下にどこまで許されるのか、という重い問いが、社会全体に突きつけられた。

響は、静かに呟いた。「この罪は、私たち全員が背負うべきものだ。」

夜空には満月が輝き、静かに世界を見下ろしている。響は知っていた。この問いに、簡単な答えなどないことを。しかし、問い続けること、目を背けずに真実と向き合うことこそが、再び過ちを繰り返さない唯一の道なのだと。響は深く息を吸い込み、悠斗の手にそっとキスをした。その顔には、以前のような焦燥はなく、悲しみを湛えながらも、深い理解と決意が宿っていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る