グレイ・スケールの共鳴

グレイ・スケールの共鳴

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第一章 灰色の観測者

その日、俺の「共感オーラ」は、計測開始以来の最低値である0.08を記録した。視界の端に常時表示されるその数値は、社会が俺という人間に下した評価そのものだ。人々が装着を義務付けられた『エмпаシー・レンズ』を通して見える世界では、感情は色とりどりのオーラとして可視化される。喜びは太陽のような黄金色に、悲しみは深い藍色に、怒りは燃えるような緋色に。そして、その色彩の豊かさと強度が、「共感スコア」として個人の価値を決定する。

俺、橘蓮(たちばな れん)のオーラは、常に淀んだ灰色だ。色彩を持たない、いわば感情の死骸。そのため、高スコア保持者が集う都心部での職には就けず、「遺物整理士」という、社会の片隅にある仕事で糊口をしのいでいる。死者が遺したモノを片付け、次の住人のために部屋を空っぽにするだけの、誰からも顧みられない仕事。だが、俺にはこの仕事が性に合っていた。モノたちは雄弁だ。使い込まれた万年筆のグリップに残る焦燥、色褪せた写真立てに染み込んだ愛情。レンズが測定できない、声なき感情の残滓が、俺には微かに感じ取れるのだ。

その日の依頼は、異例だった。都心の一等地、スカイタワーの最上階。依頼主は、先日九十八歳で大往生を遂げたという女性、長谷川千代の遺族。長谷川千代――その名を知らぬ者はいない。彼女は生前、常に慈愛に満ちた淡い桜色のオーラを放ち続け、共感スコア9.82という驚異的な記録を保持した「現代の聖女」だった。メディアは彼女の微笑みを称賛し、人々はその存在に癒しを求めた。

防護服に身を包み、厳重なセキュリティを抜けて通されたその部屋は、彼女のオーラのように、どこか人工的な清らかさに満ちていた。塵一つない白い壁、磨き上げられた調度品。しかし、空気に触れた瞬間、俺は背筋に冷たいものを感じた。それは、長年この仕事をしてきた俺だけが嗅ぎ分けられる、ある種の「匂い」だった。圧倒的な孤独と、底なしの虚無。聖女が住んだ部屋にしては、あまりにも感情が枯渇している。

リビングの中央に置かれた肘掛け椅子。そこに腰を下ろしたであろう千代の姿を想像する。メディアで見た、あの穏やかな桜色のオーラを放つ姿を。だが、俺の指先が革張りの肘掛けに触れた瞬間、脳裏をよぎったのは全く別のイメージだった。それは色ではない。音もない。ただ、凍てつくような静寂と、無限に広がる空虚な空間だけが、そこにはあった。

聖女が遺した、あまりにも冷たい沈黙。この部屋には、社会が彼女に与えた評価とは全く異なる、別の真実が眠っている。俺の灰色のオーラが、その不可解な不協和音に、静かに共鳴し始めていた。

第二章 聖女の遺した日記

遺品整理は、まず故人の「情報資産」の整理から始まる。デジタル化された現代において、物理的な遺品は少ない。千代の部屋も例外ではなく、生活感のあるものはほとんどなかった。まるでショールームのように整然とした空間で、俺は黙々と作業を進めた。依頼主である孫娘の美咲は、終始軽蔑の眼差しで俺を見ていた。彼女のオーラは祖母譲りの、鮮やかで一点の曇りもない桜色だった。

「祖母の遺品に、あなたのような『欠落者』が触れるのは不愉快です。仕事ですから仕方ありませんが、手早く済ませてください」

低いスコアの人間は、感受性が欠如した「欠落者」と呼ばれる。俺は何も答えず、ただ頭を下げた。

書斎の本棚の裏、巧妙に隠された小さな金庫の中に、それはあった。分厚い革張りのノート。デジタルロックが主流のこの時代に、時代錯誤なダイヤル式の錠前がついていた。解析ツールを使って慎重に解錠すると、中から現れたのは、万年筆でびっしりと綴られた日記だった。千代の自筆に間違いない。

美咲に断りを入れ、ページをめくる。そこに記されていたのは、聖女の輝かしい記録とは似ても似つかぬ、魂の告白だった。

『今日も私は、完璧な桜色を演じた。人々が求める「癒し」を、「慈愛」を、オーラとして出力した。拍手と賞賛。だが、私の内側はもうずっと前から、色を失っている。』

『このシステムは、真実の感情を求めはしない。他者が求める感情を、いかに巧みに模倣できるかを評価するだけだ。私は、世界で最も優秀な感情の詐欺師になってしまった。』

『夫が死んだ日、私は深い藍色の悲しみを放った。人々は「聖女も人間だった」と涙し、私のスコアは一時的に下がったが、むしろ好感度は上がった。私はその時、悟ってしまった。私の悲しみすら、彼らにとっての消費物に過ぎないのだと。』

ページを繰る手が震えた。これは、システムの根幹を揺るがすような記録だ。千代は、共感システムが作り上げた虚構の中で、完璧な演技者として生き、その果てに自分自身の感情を見失っていたのだ。彼女の部屋に満ちていた虚無感は、これだったのか。

日記の最後のページには、走り書きのような文字で、一つの名前と住所が記されていた。『有馬悟。彼だけが、私の「色」の真実を知っている』。

有馬悟。その名に俺は聞き覚えがあった。十数年前、共感システムを開発した天才科学者。しかし、彼はシステムの普及を目前にして、忽然と学会から姿を消したはずだ。

「何を読んでいるのですか」

背後から美咲の声がした。俺は日記を閉じたが、彼女の鋭い視線は、俺の揺れるオーラを捉えていた。俺の灰色が、これまでにないほど濃く、深く、揺らいでいた。それは恐怖か、それとも興奮か。自分でも分からなかった。

第三章 共感のプリズム

有馬悟の住所は、都市の喧騒から隔絶された、忘れられたような沿岸の町にあった。システムのスキャンを避けるためか、そこはオーラの可視化範囲外の「オフグリッド・ゾーン」になっていた。レンズを外すと、色を失った世界は、かえって生々しい輪郭を取り戻した。潮の香り、錆びた鉄の匂い、遠くで鳴くウミネコの声。五感が剥き出しになる感覚に、少しだけ眩暈がした。

古びた観測所のドアを叩くと、現れたのは、白衣の代わりに洗いざらしのシャツを着た、穏やかな目の老人だった。有馬悟その人だった。俺が長谷川千代の日記を差し出すと、彼は静かに俺を中へ招き入れた。

「やはり、君のような人間が現れたか」

有馬は、ゆっくりと語り始めた。それは、この社会が築き上げてきた「共感」という名の巨大な幻想を、根底から破壊する真実だった。

「エмпаシー・レンズが測定しているのは、本来の意味での『共感』ではない。あれは、脳のミラーニューロンの活動を読み取り、他者の感情表出に対して、いかに迅速かつ正確に『同調』できるかを数値化しているに過ぎんのだよ」

つまり、他人の感情を敏感に察知し、それに合わせた反応を完璧に模倣できる人間ほど、高いスコアを出す。それは、時にサイコパスと呼ばれる人々が持つ、冷徹な客観性と模倣能力に極めて近いものだった。

「千代さんは、誰よりも優しく、繊細な人だった。だからこそ、人々の期待する感情を完璧に模倣し続けることができた。だが、模倣を続けるうちに、彼女自身の本当の感情は摩耗し、消えてしまった。彼女の桜色は、内面から発せられた光ではなく、周囲の期待を反射していただけの、空虚なプリズムだったのだ」

有馬の言葉が、雷のように俺の全身を貫いた。では、俺のようなスコアの低い人間は?

「君のような人間は二種類いる。本当に他者への関心が薄い者。そして……他者の感情に同調するのではなく、それを静かに『受信』してしまう者だ」と、有馬は俺の目を真っ直ぐに見た。「君は、人の感情だけでなく、モノに残された想いすら感じ取る。それは過剰な共感能力だ。あまりに多くの感情を受け止めすぎるから、君のオーラは特定の色を持てない。あらゆる光を混ぜ合わせると黒になるように、あらゆる感情を受け止め続けた君のオーラは、混じり合った果ての灰色になった。無色なのではない、全ての色を内包した深淵の色なのだよ」

衝撃で言葉が出なかった。欠落者。社会不適合者。そう呼ばれ続けてきた俺が、実は誰よりも深く、世界を感じていたというのか。俺が今まで感じてきたモノたちの声、千代の部屋の虚無感、そのすべてが、この灰色のオーラの内側で渦巻いていたのだ。

社会は、分かりやすい色を求め、それに価値を与えた。だが、本当の痛みや悲しみは、決して鮮やかな色などしていない。それは、声にならず、色にもならず、ただ静かにそこに在るだけの、灰色の沈黙なのだ。

俺は、自分の手のひらを見つめた。この手で、数え切れないほどの遺品に触れてきた。その度に感じていた微かな疼きは、俺自身の魂の共鳴だったのだ。

第四章 心の色

俺は有馬から預かった研究データと、千代の日記を手に、美咲の元へ戻った。彼女は最初、俺の話を「欠落者の妄言」と一蹴した。だが、祖母の自筆で綴られた、苦悩に満ちた言葉の数々を前に、彼女の完璧な桜色のオーラが初めて、激しく揺らいだ。

「嘘よ……お祖母様は、みんなに愛されて、幸せだったはず……」

「愛されてはいたでしょう。でも、幸せだったかは別だ」俺は静かに言った。「あなたの祖母は、誰よりもあなたを愛していた。だからこそ、本当の自分を見せられなかった。この日記は、彼女があなたに遺した、最後の本心です」

美咲は日記を抱きしめ、その場に崩れ落ちた。堰を切ったように嗚咽が漏れる。その瞬間、彼女のオーラから桜色が掻き消え、不器用で、歪で、しかし間違いなく本物の、深い深い悲しみの藍色が滲み出した。それは、システムが評価するような洗練された色ではなかった。ただひたすらに痛々しく、純粋な悲しみの色だった。

俺は、その不格好な藍色に、言いようのないほどの美しさを感じていた。そして、俺の灰色のオーラが、その藍色に寄り添うように、ほんの少しだけ温かみを帯びた気がした。システムが推奨する「同調」ではない。ただ、隣でその痛みを静かに受け止める。それが、俺にできる唯一の共感の形だった。

数日後、俺は再び遺物整理士の現場に立っていた。もう、自分のスコアや灰色のオーラを恥じることはなかった。これは、声なき者たちの声を受け止める器の色なのだ。俺は、この社会の片隅で、システムが拾いきれない「本当の心」を拾い集めていく。それが俺の役割なのだと、今は確信できる。

仕事の帰り道、夕暮れの街を歩く。エмпаシー・レンズ越しの世界は、相変わらず色とりどりの感情で溢れている。人々は互いのオーラを読み合い、賞賛し、あるいは蔑みながら通り過ぎていく。

ふと、俺は立ち止まり、レンズをそっと外した。

瞬間、世界から色が消える。けばけばしいオーラの光が消え、建物の無機質な輪郭、アスファルトの質感、道行く人々の素顔が、ありのままの姿で目に飛び込んできた。色を失った世界は、しかし、遥かに豊かだった。風が運ぶ雑多な匂い、遠くで響く電車の音、人々の息遣い。レンズが遮断していた、世界の生々しい手触りがそこにはあった。

俺はもう、レンズに頼る必要はない。この目で見て、この肌で感じ、この灰色の心で受け止めていく。社会が作った偽りのプリズムを通さず、自分だけのスケールで、世界と共鳴していく。

夕陽が、俺の灰色の影を長く、長くアスファルトに伸ばしていた。それは決して孤独な影ではなかった。俺がこれまで触れてきた、数え切れない魂の痕跡を、その内に静かに抱きしめているようだった。

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