第一章 無色の日常と琥珀色の雫
空調の乾いた風が、俺の感情まで乾かしていくような気がした。俺、桐谷蓮(きりやれん)の職場は、巨大なデータセンターと銀行を足して二で割ったような場所だ。「中央共感取引所(セントラル・シンパシー・エクスチェンジ)」。ここでは、人間の最も崇高とされる感情――「共感」が、琥珀色の結晶体『ティアードロップ』として抽出され、数値化され、取引されている。
この世界では、共感ポイント(SP)がすべてだ。SPが高ければ社会的信用を得られ、低金利ローンや優先的な医療、果ては理想的な結婚相手まで手に入る。人々はポイントを稼ぐため、SNSで他人の幸福に「いいね!」を押し、ボランティア活動の様子を喧伝し、悲劇のニュースに涙の絵文字を添える。誰もが共感的な善人を演じる、薄っぺらなユートピア。俺の仕事は、その偽善の結晶を鑑定し、デジタルデータに変換する、システムの末端の歯車だ。
「検体番号734、鑑定開始」
無機質な合成音声が響く。ベルトコンベアに乗って流れてきたのは、指の爪ほどの大きさの、淡いピンク色に輝くティアードロップ。鑑定装置のレンズを覗き込むと、結晶の内部に持ち主の感情の記憶が揺らめいて見えた。アイドルのコンサートに熱狂するファンの高揚感、か。
「純度Bマイナス。SP、プラス1.2。分類、大衆娯楽への追従的共感。記録完了」
キーボードを叩き、次の検体へ。子猫の動画を見て「可愛い」と感じた感情。新製品の発売に熱狂する人々の期待感。どれもこれも、予測可能な範囲の、量産された感情ばかりだ。俺は、このシステムが始まった当初の理念――『共感による争いのない社会の実現』――など、とうの昔に信じていなかった。ただ、生活のために、無感動に手を動かすだけ。
その日、仕事の終わりに、奇妙な検体が一つ、処理ラインの隅に弾かれていた。管理記録上はエラーと表示されている。それは、他のどのティアードロップとも違う、深く、透明な琥珀色をしていた。まるで、黄昏時の光をそのまま閉じ込めたような、静かで、それでいて強い輝きを放っている。
好奇心に駆られ、俺は規則を破ってそれを鑑定装置にかけた。
「……鑑定不能。SP、ゼロ。分類、不可」
SPがゼロ? あり得ない。どんな微細な感情でも、プラスかマイナスの値がつくはずだ。レンズを覗き込み、俺は息を呑んだ。結晶の奥深く、そこには何も映っていなかった。いや、違う。そこにあったのは、空虚な「無」ではなく、他人の「痛み」そのものだった。いじめられる子供の震える背中。孤独な老人の冷えた夕食。誰にも理解されない、静かな絶望。それらの情景が、音もなく、ただひたすらに結晶の中で渦巻いていた。
これは、誰の感情だ? そしてなぜ、記録が抹消されている?
その琥珀色の雫は、俺の乾ききった心の底に、小さな、しかし消えない波紋を広げた。俺の無色の日常が、この一粒の結晶によって、静かに侵食され始めた瞬間だった。
第二章 消された記録と影の少女
琥珀色のティアードロップの謎が、頭から離れなかった。俺は夜ごと、あの結晶の中に渦巻く、声なき痛みの奔流を夢に見た。それはまるで、この共感資本主義社会が切り捨てた、すべての悲しみの集積体のように思えた。
俺は決意した。このティアードロップの持ち主を探し出す、と。それは、システムへのささやかな反逆であり、自分自身の空虚さを埋めるための、初めての能動的な行動だった。
取引所のメインサーバーにアクセスするのは不可能だ。だが、俺のような下級職員が使う端末にも、古い記録の断片がキャッシュとして残っていることがある。俺は数日かけて、夜勤のふりをしながら、エラーログや削除済みファイルの残骸を漁った。同僚に怪しまれないよう、普段通りの無気力な表情を顔に貼り付けながら、心臓は早鐘を打っていた。
そして、ついに一つの手がかりを見つけた。『プロジェクト・エコー』。十数年前に凍結された極秘計画のファイルだ。その中には、「共感の特異体質者」に関する研究報告が記されていた。彼らは、一般的な幸福や喜びには反応せず、特定のネガティブな感情にのみ、異常なほど強く共感する能力を持つという。システム上ではSPを全く産み出さないため、「共感的欠陥者(シンパシー・ディフェクト)」として扱われ、その存在は社会から秘匿される、と。
ファイルの最後に、不自然に削除された個人データがあった。復元を試みると、ノイズ混じりの一枚の写真と、かろうじて読める名前が現れた。
『ミオ』
写真の少女は、色素の薄い髪を持ち、どこか遠くを見つめていた。その瞳は、まるで世界のすべての悲しみを映しているかのように、深く澄んでいた。彼女こそ、あの琥珀色のティアードロップの持ち主だと、俺は直感した。
さらに調査を進めるため、俺は取引所の外の情報屋と接触した。裏路地の薄暗いバーで、俺はなけなしの金で買った高純度のティアードロップを差し出した。情報屋はそれを舐めるように鑑定すると、にやりと笑った。
「『ロスト・チャイルド』を探してるのか。あんた、命知らずだな」
彼の口から語られたのは、都市伝説だと思っていた噂の真実だった。「ロスト・チャイルド」とは、プロジェクト・エコーで「欠陥者」と認定された子供たちのことだった。彼らは社会から隔離され、街の外れにある旧国立療養所に収容されているという。
「あそこは、この世界の“ゴミ捨て場”さ。誰も近寄らねえ」
情報屋が吐き捨てた言葉が、胸に突き刺さった。ゴミ捨て場。このきらびやかな世界の裏側で、痛みを感じる心を持つというだけで、「ゴミ」として捨てられた子供たちがいる。ミオという少女も、そこにいるのだろうか。
琥珀色のティアードロップが、ポケットの中で微かに熱を帯びた気がした。それは、ミオの痛みか、それとも、今まで目を背けてきた真実に対する、俺自身の心の痛みなのかもしれなかった。
第三章 取引所の心臓と父の罪
旧国立療養所は、霧深い森の奥に、亡霊のように佇んでいた。錆びついた鉄柵を乗り越え、荒れ果てた敷地を進む。情報屋の地図が示す建物の前に立った時、背後から静かな声がかけられた。
「蓮。ここまで来るとは、思わなかったよ」
振り返った俺は、言葉を失った。そこに立っていたのは、この共感取引所の最高責任者であり、俺が十数年もまともに顔を合わせていない、父・桐谷宗一郎だった。厳格で、仕事一筋で、家庭を顧みなかった男。俺がこのシステムを嫌悪するようになった、元凶とも言える存在だ。
「なぜ、あなたがここに……」
「ここが、私の研究室であり、私の犯した罪そのものだからだ」
父は俺を建物の中に招き入れた。そこは、療養所というよりは、最先端の設備が整った研究施設だった。ガラス張りの清浄な一室に、一人の少女が静かに座っていた。色素の薄い髪、遠くを見つめる瞳。写真で見たミオだった。彼女は、俺たちの存在に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。
「紹介しよう。お前の妹、ミオだ」
父の言葉が、雷のように俺の頭を打ち抜いた。妹? 俺の妹は、幼い頃に重い病気で死んだはずだ。そう聞かされてきた。
「嘘だ……」
「嘘ではない」
父は、重い口を開いた。彼が語ったのは、俺の知らない、共感資本主義システムの黎明期の物語だった。若き日の父は、純粋な理想に燃えていた。人々が互いの感情を共有し、理解し合えれば、戦争も差別もなくなる。そう信じて、このシステムを設計した。
「だが、私は人間の本質を見誤っていた」と父は自嘲気味に言った。「システムは、真の共感を育む代わりに、ポイント稼ぎのための“共感ごっこ”を蔓延させた。人々は他人の痛みに鈍感になり、目先のポジティブな感情ばかりを追い求めるようになった。世界は、私が望んだものとは正反対の、冷たくて偽善的な場所になってしまった」
そして、ミオ。彼女は、父の理想が皮肉な形で具現化した存在だった。彼女は生まれつき、他人の「痛み」や「悲しみ」にしか共感できない、特異な心を持っていた。システムの判定では、彼女の生み出すティアードロップは常にSPゼロ。「無価値」で「欠陥」のある存在。
「システムに適合できないこの子を、どうすれば守れる? 私は彼女の存在を公的に抹消し、『死んだ』ことにして、ここで密かに保護するしかなかった。彼女は、この歪んだシステムの失敗を、その一身で体現している証人なのだ」
父は続けた。
「あの日、お前が見つけた琥珀色のティアードロップは、ミオのものだ。彼女が、この社会の片隅で忘れ去られた人々の痛みに、ただひたすらに共感し続けて流した、涙の結晶だ。それは、この世界で最も価値がないとされながら、同時に、最も尊いものなのだよ」
俺は、ガラスの向こうのミオを見つめた。妹。俺の、妹。俺がシニカルに眺めていた世界の裏側で、父は罪を背負い、妹はたった一人で世界の痛みを引き受けていた。俺が知っていたはずの世界が、足元からガラガラと崩れ落ちていく。偽りの共感に満ちた世界で、俺自身が最も共感から遠い、空っぽの人間だったのだ。
第四章 琥珀色の遺産
ガラス越しではない、本当の対面。父に促され、俺はミオのいる部屋に入った。彼女は言葉を話さなかった。ただ、大きな瞳でじっと俺を見つめている。俺は、何を言えばいいのか分からなかった。謝ればいいのか。驚きを伝えればいいのか。感情が渦巻き、言葉にならなかった。
その時、ミオがすっと立ち上がり、俺の前に来た。そして、ためらうことなく、その小さな手を俺の手に重ねた。
触れた瞬間、温かい奔流が俺の心に流れ込んできた。それは、言葉を超えた「共感」だった。俺が長年抱えてきた孤独、父への反発、世界への諦め――そのすべての痛みを、彼女はただ静かに、受け止めてくれている。否定も肯定もせず、ただ、そこに在ることを認めてくれる。涙が、頬を伝った。乾ききっていたはずの俺の心から、熱い雫が溢れ出した。これが、本物の共感なのか。
「私は、このシステムを終わらせるつもりだ」と、父が静かに言った。「自らの罪を公表し、システムの根幹を成すアルゴリズムを破壊する。社会は一時的に大混乱に陥るだろう。だが、偽りの平和をこれ以上、続けるわけにはいかない」
父は、その計画を俺に引き継いでほしいと告げた。システムを内部から崩壊させるための、最後の鍵を託したい、と。
俺は葛藤した。父の言う通り、システムを壊せば、SPに依存しきった社会は間違いなく破綻する。だが、このまま偽りの共感を量産し続ける世界を、ミオが生きてきたこの世界を、肯定することもできなかった。
俺は、もう一度ミオの手を握りしめた。彼女のティアードロップは、「無価値」なんかじゃない。むしろ、この世界が失ってしまった、たった一つの真実だ。痛みへの共感こそ、人が人であるための原点じゃないのか。
「親父、システムを壊すだけじゃダメだ」俺は、決意を込めて父を見つめた。「破壊するんじゃない。変えるんだ」
俺はシニカルな傍観者であることをやめた。父の計画を、俺なりのやり方で引き継ぐことを決意した。
数週間後。俺は中央共感取引所の心臓部、メインサーバー室に立っていた。父が手引きしてくれたおかげで、誰にも気づかれずにここまで来ることができた。俺の手には、あの琥珀色のティアードロップと、それをシステムのコアに組み込むための特殊なインターフェースがあった。
俺がやろうとしているのは、システムの破壊ではない。アップデートだ。「痛みへの共感」という、これまでSPゼロとされてきた価値を、新たな評価軸としてシステムに組み込むのだ。人々が他人の悲しみや苦しみに寄り添った時、その行為が正しく評価されるように。それが社会に何をもたらすか、予測はできない。混乱か、反発か、あるいは、ほんの少しの優しさか。
インターフェースをシステムに接続し、琥珀色のティアードロップをそっとセットする。
『新規共感プロトコル、承認。システム・コアに統合します』
冷たい合成音声が響き渡る。その瞬間、取引所の巨大なメインモニターに、たった一つ、温かい琥珀色の光が灯った。それは、偽りの共感で満たされた何億ものデータの中で、あまりにも小さく、しかし圧倒的な存在感を放っていた。
世界がどう変わるかは、まだ誰にも分からない。だが、確かに何かが始まった。偽りのユートピアに、本物の痛みを分かち合うための、小さな、しかし確かな光が生まれたのだ。俺は、その光を見つめながら、これから始まるであろう長い道のりを思った。それはきっと、痛みと困難に満ちているだろう。だが、もう俺は一人ではなかった。ポケットの中には、俺自身の流した涙でできた、小さな、透明なティアードロップが一つ、静かに入っていた。