第一章 静かなる不協和音
新堂亮太の見る世界は、人より少しだけ彩度が高い。それは比喩ではない。彼には、人の感情が淡い光のオーラとなって視えるのだ。喜びはひだまりのような黄金色に、悲しみは雨に濡れた紫陽花のような水色に、怒りは燃え盛るマグマの赤に。この世界でたった一人、自分だけが受信している秘密の放送のように、人々の心の色彩が彼の網膜に流れ込んでくる。
臨床心理士として働く亮太にとって、その能力は諸刃の剣だった。カウンセリングルームの椅子に深く腰掛けたクライアントの言葉と、その身体から立ち上るオーラの色が食い違うことは日常茶飯事だ。「大丈夫です」と微笑む口元とは裏腹に、その輪郭からは不安を示す濁った緑色が滲み出ている。亮太は色が見えないふりをして、言葉の裏に隠された本当の感情を手探りで引き出していく。それはまるで、音の消えた映画の登場人物に、唇の動きだけでアテレコをするような、孤独で骨の折れる作業だった。
その日、亮太の前に座っていたのは、高村典子という三十代の女性だった。夫からの精神的なDVに長年苦しんでいるという彼女の口調はか細く、伏せられた睫毛が作る影が、その疲弊を物語っていた。だが、亮太を混乱させたのは、彼女の言葉ではなかった。彼女から放たれるオーラだ。それは、どんな感情にも分類できない、奇妙な色をしていた。恐怖の濃紺でも、悲しみの水色でも、絶望の黒でもない。まるで色の情報を全て抜き取られたかのような、生命感のない、のっぺりとした灰色。その灰色は、時折ノイズのように揺らめくだけで、何の感情も伝えてこなかった。こんなオーラは、今まで一度も見たことがない。
カウンセリングを終え、重い溜息をつきながら院長室へ向かう。このクリニックの院長である三上悟は、亮太が心から尊敬する精神科医だった。彼の周りには、常に深海のように静かで澄んだ「慈愛の青」が揺らめいている。それは、訪れる者の心を穏やかに包み込む、聖域のような色だった。
「高村さんの件ですが……」
報告を始めた亮太の言葉を、三上は穏やかな微笑みで受け止める。
「焦ることはないよ、新堂先生。心の問題は、薄紙を一枚ずつ剥がしていくようなものだ。我々には、時間と忍耐が必要だ」
その言葉に、亮太はいつも通り安堵を覚えるはずだった。だが、その瞬間、彼の目は信じられないものを捉えた。三上の慈愛に満ちた青いオーラの内側、その中心核に、ほんの一瞬、油を垂らした水面のように、どろりとした「冷徹な黒」が混じったのだ。それは瞬きする間に消え去り、再び完璧な青に戻っていた。
見間違いだろうか。いや、あの質感、あの色味は、確かにそこにあった。聖域に生じた、僅かな、しかし致命的な亀裂。亮太の背筋を、冷たい汗が伝っていった。世界が、静かに軋みを上げる音が聞こえた気がした。
第二章 灰色の追跡
三上のオーラに見た一瞬の黒。典子の感情のない灰色。二つの不可解な色彩が、亮太の心の中で不気味な共鳴を続けていた。日常業務の合間を縫って、彼は密かに調査を始めた。それはカウンセラーの倫理を逸脱する行為だと知りながら、見過ごすことのできない直感が彼を突き動かしていた。
まず、高村典子について。彼女が三上院長から処方されている薬を調べると、最新の抗不安薬だと分かった。だが、その薬の臨床データは極端に少なく、副作用の欄には「一時的な感情の平坦化」という曖昧な記述があるだけだった。亮太は、薬局で働く旧友に頼み込み、その薬の成分を詳しく調べてもらった。返ってきた答えは、「既存のどの薬の構造とも違う。まるで、脳の特定の感情回路だけを遮断するような、作為的な分子構造だ」というものだった。
次に、三上院長。彼の経歴は完璧だった。名門医大を首席で卒業し、数々の論文で賞賛を浴び、若くしてこのクリニックを開業した。患者からの信頼も厚く、非の打ち所がない。だが、亮太は彼の過去の論文を洗い直すうちに、一つの記述に目を留めた。「現代社会における過剰な情動は、個人の幸福を阻害する最大の要因である。究極の精神医療とは、苦痛の原因となる情動そのものを、安全かつ効果的に『管理』することにある」。その一文から、三上の慈愛の青とは似ても似つかぬ、冷たい合理主義の匂いがした。
調査が行き詰まりを見せ始めた頃、亮太はネットの片隅で、自分と同じ能力を持つ人々が集う、秘密のフォーラムを見つけた。「共感覚者ギルド」と名付けられたそのサイトには、色、音、匂いとして感情を認識する者たちの、切実な悩みが溢れていた。
『人の嘘が色で見えてしまい、誰も信じられなくなった』
『街を歩くだけで、他人の負の感情に当てられて吐きそうになる』
亮太は匿名で自分の体験を書き込んだ。典子の灰色のオーラと、三上の二重のオーラについて。数時間後、一人のユーザーから返信があった。ハンドルネームは「カサンドラ」。
『それは「オーラ」じゃない。「ジャミング」よ。誰かが意図的に、感情の周波数を乱している。私が以前見たのも、それとよく似ていた。気をつけて。それは、魂から色を奪う技術よ』
ジャミング。魂から色を奪う。その言葉は、まるでパズルの最後のピースのように、亮太の頭の中にはまった。これは単なる偶然ではない。何者かが、人の心を意図的に操っているのだ。そしてその中心にいるのは、おそらく、あの三上院長なのだ。
第三章 偽りの聖域
確信を胸に、亮太は行動を開始した。深夜、閉院したクリニックに、彼は合鍵を使って忍び込んだ。心臓が早鐘のように鳴り、自分の身体から放たれる恐怖のオーラが、藍色に揺らめくのが視界の端に映る。目指すは院長室の奥にある、誰も入ることを許されない「研究室」だ。
厳重にロックされた扉を、事前に調べておいた方法で何とか開ける。室内に足を踏み入れた瞬間、亮太は息を呑んだ。そこは、彼の想像を遥かに超える空間だった。壁一面に並んだモニターには、無数の脳波データと、それに対応する色彩スペクトルのようなグラフが映し出されている。そして、部屋の中央には、見たこともない医療機器が鎮座していた。その機器には「LUCID(Systematic Emotional Control Unit)」と記されている。体系的感情制御ユニット。
机の上に散らばった資料に目を通し、亮太は戦慄した。そこには、三上が主導する極秘プロジェクトの全貌が記されていた。プロジェクトの名は「プロジェクト・セレニティ(平穏計画)」。目的は、新薬とLUCIDシステムを組み合わせ、人間のネガティブな感情――怒り、悲しみ、恐怖――を強制的に抑制し、社会から「精神的苦痛」を根絶すること。
高村典子は、その最終段階の被験者の一人だったのだ。彼女の夫のDVは、この実験の効果を測定するための、計算された「ストレス要因」に過ぎなかった。彼女の灰色のオーラは、薬によって感情の発露を完全にブロックされた、魂の抜け殻の色だったのだ。
三上の歪んだ理想。彼は、人々を苦しみから救うという大義名分のもと、人間の最も根源的な部分である「感情」を奪い、管理しようとしていた。彼の「慈愛の青」は、その歪んだ信念が生み出した自己欺瞞の光。そして、時折見せる「冷徹な黒」こそが、目的のためなら手段を選ばない、彼の本質そのものだった。
このクリニックは、悩める人々を救う聖域などではなかった。それは、三上の理想を実現するための、巨大で冷酷な実験場だったのである。その事実が、雷のように亮太の全身を貫いた。これまで自分が信じてきたもの、尊敬してきた人物の姿が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。吐き気がこみ上げてきた。ここは、聖域ではない。偽りの神が支配する、静謐な地獄だ。
第四章 色を取り戻すために
全ての証拠を掴んだ亮太は、絶望の淵で選択を迫られた。この事実を公表し、三上の罪を告発するか。だが、相手は医学界で絶大な権力を持つ人物だ。もみ消されるか、あるいは狂人扱いされるのが関の山だろう。それに、告発が成功したとして、それで典子さんの心は救われるのか? 失われた色は、戻ってくるのか?
亮太の脳裏に、カサンドラの言葉が蘇る。『それは、魂から色を奪う技術よ』。
彼は決意した。社会正義の実現よりも、今、目の前で色を奪われている一人の魂を救うこと。それが、この能力を持つ自分にしかできないことだと信じた。
翌日、亮太はクリニックを訪れた高村典子を、半ば強引に外へ連れ出した。
「高村さん、少しだけ、僕の話を聞いてください」
近くの公園のベンチに座り、亮太は自分の能力について、そして彼女が受けている「治療」の真実について、全てを話した。彼の言葉を、典子は表情一つ変えずに聞いていた。彼女のオーラは、相変わらず感情のない灰色だった。
「信じられない、かもしれません。でも」亮太は続けた。「僕には、視えるんです。あなたのその灰色の奥に、まだ残っている、本当のあなたの色が」
彼は初めて、自分の能力を隠すのではなく、積極的に使おうと試みた。目を閉じ、意識を集中させる。それは、ただ色を見る行為ではなかった。自分の心の周波数を、相手の心の奥底にある微かな揺らぎに同調させるような、繊細な作業だった。
灰色の分厚い壁の向こう側。亮太は、それを見つけた。夫への恐怖を示す、震えるような濃紺の残滓。助けを求める、消え入りそうな悲しみの水色。そして、こんな理不尽な状況に対する、か細くも燃え続ける怒りの赤い火種。
「あなたは、何も感じていないわけじゃない。感じないように、させられているだけだ。怒っていいんです。悲しんでいいんです。怖がっていい。それが、あなたが生きてる証拠なんだから」
亮太は、見える色をそのまま言葉にした。それはカウンセリングの技術ではなかった。魂の対話だった。
すると、奇跡が起きた。典子の灰色のオーラに、ほんの僅か、亀裂が入った。そして、その亀裂から、一筋の涙と共に、淡い水色の光が漏れ出したのだ。それは、長い間、出口を失っていた悲しみの色だった。彼女は、子供のように声を上げて泣き始めた。その嗚咽に合わせて、灰色は薄れ、少しずつ、だが確かに、本来の感情の色が滲み出していく。亮太は、ただ黙ってその隣に座り、彼女の魂が色を取り戻していく光景を、目に焼き付けていた。
第五章 夜明けのスペクトル
亮太は、典子を支援団体に繋ぎ、彼女が三上のクリニックと夫から物理的にも精神的にも離れられるよう手助けした。三上のプロジェクトに関する証拠は、信頼できるジャーナリストに匿名でリークした。それが社会を揺るがす大スキャンダルになるか、あるいは闇に葬られるかは分からない。亮太は、もうその結果を追わなかった。
数週間後、亮太はクリニックに辞表を提出した。三上と顔を合わせたが、彼は何も言わなかった。ただ、彼のオーラは以前のような澄んだ青ではなく、黒と青が不気味に混ざり合った、嵐の前の海のような色をしていた。亮太は、彼を軽蔑も憎みもしなかった。ただ、深い哀れみを感じた。彼もまた、自らの歪んだ理想に魂を囚われた、一人の迷える人間なのだ。
クリニックを去った亮太は、小さな個人カウンセリングルームを開く準備を始めていた。彼の能力は、もう呪いでも、隠すべき秘密でもない。それは、言葉という不完全なツールだけでは届かない、人の心の深淵に寄り添うための、かけがえのない道標だった。
ある朝、亮太は新しい事務所の窓から、朝日に照らされる街を眺めていた。通勤ラッシュで行き交う人々。以前は、彼らから発せられる雑多な色の洪水にうんざりすることもあった。だが、今の彼には、その一つ一つの色が、かけがえのない個人の物語として見えた。楽しそうに笑う学生の黄金色、仕事のプレッシャーに悩むサラリーマンの濁った緑色、恋人と寄り添う女性の柔らかな桃色。
世界は何も変わっていない。社会の不条理も、人の苦しみも、簡単にはなくならないだろう。だが、亮太の世界の見え方は、決定的に変わっていた。
完璧な平穏など、どこにもない。喜びも悲しみも、怒りも安らぎも、全てが混ざり合い、乱反射し、時に濁り、時に輝く。その混沌とした色彩のスペクトルこそが、人が生きているということの証であり、世界の美しさなのだ。
夜明けの光が、街全体を照らし出す。無数のオーラがキラキラと輝き、まるで壮大な交響曲を奏でているようだった。亮太は、その光景を静かに胸に吸い込み、そっと微笑んだ。