玻璃の森と忘却のソナタ

玻璃の森と忘却のソナタ

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第一章 壊れた万華鏡の向こう側

水島湊の時間は、澱んだ水のように動かなかった。美大を中退し、今はただ、少しずつ記憶の輪郭を失っていく祖母・千鶴の介護をする毎日。かつて絵筆を握っていた指は、薬の包みを開けるためだけにかさついていた。千鶴が愛した古い柱時計の振り子の音だけが、意味もなく部屋の空気を揺らしている。

「湊、あなたは誰だったかしら」

穏やかな声で、しかし残酷な問いを投げかける祖母の瞳は、磨りガラスの向こう側のようにぼんやりとしていた。湊は「僕だよ、湊だよ」と繰り返す。その声が、彼女の心の水面に小さな波紋すら立てていないことを知りながら。虚しさが、じわりと胸に染みてくる。

その夜、湊は祖母の部屋の古い箪笥の引き出しから、埃をかぶった万華鏡を見つけた。幼い頃、千鶴が彼に買い与えてくれたものだ。覗き口のガラスはひび割れ、中の飾りもいくつか欠けているのか、振ってもカラカラと乾いた音しかしない。それでも、何かに導かれるように、湊はひび割れたレンズに目を当てた。

瞬間、世界が反転した。

闇の中に、砕けたガラス片のような光が乱舞し、湊の意識は渦の中に引きずり込まれていく。振り子の音が遠ざかり、代わりに澄んだ鈴のような音色が耳を満たした。

次に目を開けた時、彼は森の中に立っていた。だが、それは彼の知るどんな森とも違っていた。木々の幹は淡い光を放つガラスでできており、枝葉は薄氷のように繊細な細工が施されている。地面には色とりどりのビー玉のような結晶が、星屑のように散らばっていた。踏みしめるたびに、チリン、と心地よい音が響く。空には月も星もなく、ただ森そのものが発する柔らかな光が、あたりを幻想的に照らし出していた。

「……なんだ、ここは」

呆然と呟く湊の吐息は、白くならなかった。空気はどこまでも清らかで、ラベンダーと古い紙の匂いが混じったような、不思議な香りがした。彼は無意識に、足元に転がる琥珀色の結晶を拾い上げる。指先に触れた瞬間、温かい光が溢れ、見知らぬ光景が脳裏に流れ込んできた。

――夕焼けの海辺。若い男女が、はにかみながら手を取り合っている。風が少女の髪を優しく撫で、少年の照れたような笑顔がそこにあった。幸福感が、まるで自分のことのように胸を満たす。

湊は驚いて結晶から手を離した。幻影は霧のように消え、指先には確かな温もりの余韻だけが残っていた。ここは、一体……。現実逃避の夢にしては、あまりにも五感が鮮明すぎた。彼はこの場所に名前をつけた。見たままの、しかし心を込めて。「玻璃(はり)の森」と。その日から、祖母が眠りにつくと、湊は壊れた万華鏡を覗き込み、夜ごとこの静謐な森を訪れるようになった。

第二章 森の番人と記憶の欠片

玻璃の森を彷徨う夜は、湊にとって唯一の安らぎだった。現実の重苦しい空気から解放され、ただ美しい音と光の中に身を委ねることができた。彼は様々な結晶に触れた。赤子の手を握る母親の喜び、初めて自転車に乗れた少年の誇らしさ、友と交わした他愛ない約束の温かさ。それらはすべて、見知らぬ誰かの失われた記憶の欠片だった。

他人の幸福な記憶に触れるたび、湊のささくれだった心は少しずつ癒されていくようだった。同時に、彼は気づいていた。この森には、悲しみや後悔の記憶も存在することを。青く冷たい光を放つ結晶に触れた時は、胸が張り裂けそうなほどの喪失感に襲われた。この森は、人間の感情のすべてを、ただ静かに受け入れているのだ。

幾夜も森を歩き続けたある日、湊は森の最も開けた場所、まるで教会の聖堂のような空間にたどり着いた。中央にはひときわ巨大な水晶の木がそびえ立ち、その根元に、一人の少女が座っていた。

色素の薄い銀色の髪、玻璃の森の光を映してきらめく瞳。彼女は湊の姿を認めると、驚くでもなく、ただ静かに微笑んだ。

「やっと来たのね、迷い人さん」

少女はルリと名乗った。彼女はこの森の番人であり、忘れられた記憶たちが安らかに眠れるよう、見守るのが役目なのだという。

「この森は、人々が忘れてしまった記憶が集まってできているの。捨てられたわけじゃない。ただ、持ち主の心からこぼれ落ちて、ここに流れ着いただけ」

ルリの声は、森の木々が奏でる音色のように透き通っていた。彼女は湊が現実世界から来た人間であることを見抜いていた。時折、湊のように、強い喪失感を抱えた者がこの森に迷い込むことがあるのだと、彼女は語った。

湊はルリに、自分の境遇をぽつりぽつりと話した。祖母のこと、描けなくなった絵のこと、停滞した時間のこと。ルリはただ黙って耳を傾け、そして言った。

「失うことは、悲しいこと。でも、忘れられることは、もっと悲しい。だから、私はここにいるの。忘れられた記憶たちが、孤独にならないように」

その言葉は、湊の胸の奥深くに静かに沁み込んだ。彼はルリと共に過ごす時間が増えた。二人で結晶を集め、その記憶の物語に耳を澄ます。ルリは、どの記憶がどんな音を奏でるのかを知っていた。それはまるで、無数の魂と対話する指揮者のようだった。湊は、この穏やかな少女と、彼女が愛するこの静かな世界に、強く惹かれていった。

第三章 礎となる追憶

その夜の玻璃の森は、いつもより光が強く、空気が震えているように感じられた。ルリに導かれ、湊はこれまで足を踏み入れたことのない、森の最深部へと向かっていた。そこには、森の心臓とも言える「始まりの泉」があるのだという。

泉は、溶かした月光を溜めたように青白く輝いていた。そして、その中央に浮かぶようにして、ひときわ大きく、温かい太陽のような光を放つ結晶が存在していた。それは他のどの結晶よりも力強く、優しく、森全体に生命力を与えているかのように見えた。

「あれは、この森を支える『礎』の一つ。とても強い想いが込められた、特別な記憶」

ルリの言葉に促されるように、湊はゆっくりと泉に近づき、そっとその結晶に指を触れた。

次の瞬間、彼の全身を、経験したことのないほどの鮮烈な奔流が貫いた。

――夏の陽射しが照りつける縁側。若い女性が、不器用な手つきで万華鏡を作っている。隣には、朴訥だが優しい目をした青年が座っている。「千鶴、お前は本当にそういうのが好きだな」「だって、きれいじゃない。小さなガラスの欠片が、こんなに素敵な世界を見せてくれるのよ」。その声は、紛れもなく若き日の祖母・千鶴のものだった。

――場面が変わる。病院のベッドで、生まれたばかりの赤子を抱きしめる千鶴。彼女の頬を、喜びの涙が伝っていく。「はじめまして、私の宝物」。

――そして、幼い湊の手を引いて、ひまわり畑を歩く千鶴の笑顔。「湊、見てごらん。みんなお日様の方を向いてるわ。あなたも、あんな風にまっすぐに育つのよ」。

それは、祖母が病によってすべて失ってしまった、人生そのものと言える記憶だった。湊の祖父との出会い、父の誕生、そして湊自身への、溢れんばかりの愛情。湊の目から、熱い涙が止めどなく溢れた。これだ。これこそ、祖母が失ってしまった宝物だ。

「この記憶を……祖母に返したい!」

湊は叫ぶように言った。この結晶を持ち帰れば、祖母はすべてを思い出してくれるかもしれない。あの穏やかで、しかし空っぽの瞳に、再び光が宿るかもしれない。

だが、ルリは悲しげに首を横に振った。

「それは、できない」

「なぜだ! これは僕の祖母の記憶なんだぞ!」

「この記憶は、もうあなたのお祖母さんだけのものじゃない。あまりに強く、美しい想いだったから、この森が生まれる時の『礎』になったの。これを持ち去れば、森の均衡は崩れ、ここの一部は……光を失って、永遠に消えてしまう」

ルリの言葉に、湊は息を呑んだ。森が、消える? 自分が愛したこの静かで美しい世界が?

「それに……」ルリは続けた。その声は、か細く震えていた。「私も、消えるかもしれない」

湊は愕然としてルリを見た。

「私も、忘れられた記憶が集まってできた存在だから。私を覚えていてくれた最後の人が、遠い昔にいなくなって、私はここに流れ着いた。この森は、私の唯一の拠り所なの」

祖母の記憶を取り戻すこと。それは、この美しい森を破壊し、友であるルリの存在を脅かすことを意味していた。あまりにも残酷な選択が、何の準備もなく、湊の肩にのしかかった。

第四章 想いを紡ぐ者

現実世界に戻っても、湊の心は千々に乱れていた。目の前で穏やかにうたた寝をする祖母の顔と、助けを求めるように自分を見つめていたルリの顔が、交互に浮かんで消える。どちらかを選べば、どちらかが決定的に失われる。こんな理不尽があっていいものか。

彼は何日も悩み、眠れない夜を過ごした。万華鏡を手に取ることさえできなかった。祖母に記憶を返すことこそが、唯一の親孝行であり、自分の贖罪だとさえ思っていた。だが、ルリと、名もなき人々の記憶が織りなすあの森を、自分の手で壊すことなどできるだろうか。

迷いの果てに、湊はもう一度だけ玻璃の森へ行くことを決意した。答えを出すために。

始まりの泉で、彼は再び祖母の記憶の結晶に触れた。もう一度、祖母の想いと向き合うために。流れ込んでくる温かい光景の中で、湊は心の中で若き日の祖母に問いかけた。「おばあちゃん、僕はどうすればいい?」

すると、ひまわり畑で微笑む祖母が、ふと彼の方を振り向いた気がした。幻だと分かっていた。だが、その声ははっきりと心に響いた。

『大切なのは、記憶そのものよりも、その記憶が育んだ『想い』よ。忘れてしまっても、私があなたを愛したという事実は消えない。湊、あなたはもう、その想いをちゃんと受け取っているじゃない』

湊は、はっとした。そうだ。自分は祖母から、数えきれないほどの愛情を受け取ってきた。その事実は、祖母が記憶を失っても、何一つ変わらない。自分がすべきことは、失われた過去を無理やり取り戻すことではない。受け取った愛情を胸に、今を生きる祖母と向き合い、これから先の時間を、自分が紡いでいくことなのだ。

湊は、結晶からそっと手を離した。決心はついた。

彼はルリの方を向き、深く頭を下げた。「ごめん。僕のわがままで、君とこの森を危険に晒すところだった」

ルリは静かに微笑み、小さくかぶりを振った。「あなたの想いは、とても温かかった。あなたのお祖母さんは、きっと素敵な人なのね」

「もう、ここへは来ないよ」湊は言った。彼の声には、もう迷いはなかった。「僕は現実で、僕の物語を生きるから。君も、この森を守り続けてくれ」

それが、湊が玻璃の森で過ごした最後の夜だった。

翌日から、湊の澱んでいた時間が、再びゆっくりと流れ始めた。彼は祖母の手を握り、まるで美しいおとぎ話を聞かせるように、玻璃の森で見た「千鶴という女性の物語」を語り始めた。祖父との出会い、ひまわり畑の思い出。千鶴は内容を理解できなくても、湊の優しい声色に、赤子のような安らかな表情を浮かべた。記憶は戻らない。だが、二人の間には、確かに新しい絆と、温かな時間が生まれていた。

ある晴れた午後、湊はアトリエの埃を払い、真っ白なキャンバスをイーゼルに立てかけた。彼が描くのは、ガラスの木々が光を放ち、無数の記憶の結晶が輝く、あの静謐な森の風景。

それは、失われたすべての記憶への鎮魂歌(レクイエム)であり、喪失と共に生きていく決意を込めた、未来への序曲(ソナタ)だった。絵筆を握る彼の指先には、確かな力がみなぎっていた。

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