第一章 色のない電車
終電の蛍光灯が、疲弊した網膜に白く焼き付いていた。倉田湊(くらたみなと)は、プラスチックの硬い座席に深く身を沈め、窓の外を流れる黒一色の闇に意識を溶かしていた。グラフィックデザイナーという職業は、聞こえはいいが、その実態はクライアントの曖昧な要求と締め切りに魂を削られる日々だ。かつて、キャンバスを純粋な情熱で満たしていた頃の自分は、もうどこにもいない。今日もまた、無数の修正指示を反映させただけの、創造性の欠片もない広告デザインを納品してきた。空虚感が、胃液のようにじわりと喉元までせり上がってくる。
ガタン、と不自然に大きな揺れが身体を襲った。次に目を開けた時、湊は愕然とした。さっきまで乗っていたはずの、広告で埋め尽くされた見慣れた車両ではない。内装はすべてが滑らかな乳白色で統一され、窓の外の景色は、まるで未完成のスケッチのように、濃淡の異なる灰色だけで構成されていた。乗客は誰一人いない。ここはどこだ? 慌てて立ち上がり、窓に額を押し付ける。ビルも、木々も、道行く人々も、すべてが色彩を完全に失っていた。まるで古いモノクロ映画の中に迷い込んだかのようだ。
電車が、音もなく静かに駅のホームに滑り込む。駅名を示す看板は、意味をなさない幾何学模様で塗りつぶされていた。ドアが吐息のような音を立てて開く。降りるべきか、留まるべきか。逡巡する湊の脳裏に、ふと、クライアントにダメ出しされたポスターのデザインが浮かんだ。「もっと突き抜けるような、鮮やかなスカイブルーでお願いします」。そうだ、青。澄み切った夏の空の色。深く、どこまでも広がる海の色。
その瞬間、湊は背筋が凍るような事実に気づいた。
「青」が、どんな色だったか思い出せない。
空という言葉は知っている。海という概念も理解できる。しかし、それらを彩っていたはずの、あの鮮烈な色が、頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。まるで生まれつき知らなかったかのように。記憶の棚に、そこだけぽっかりと穴が空いている。混乱する頭で必死に他の色を思い浮かべる。赤、黄色、緑。それらは確かに思い出せる。だが、「青」だけが存在しない。この世界の景色と同じように、湊の記憶からも、一つの色が消え失せていた。
第二章 忘却の街アクロミア
電車を降りた湊が足を踏み入れた街は、「アクロミア」と呼ばれていた。灰色の濃淡だけで描かれた街並みは、静かで、どこか物悲しいほどに整然としていた。人々は穏やかな表情で往来し、色彩のない世界を当たり前のものとして受け入れているようだった。彼らに「青い空」の話をしても、誰もが不思議そうな顔で首を傾げるだけだった。「空は、明るい灰色か、暗い灰色か、どちらかでしょう?」と。
どうやらこの世界では、時折「喪失の霧」と呼ばれる現象が起こり、その度に世界から一つの「概念」が奪われるらしかった。それは色であったり、音であったり、感情であったりもするという。そして人々は、失われたものを綺麗さっぱり忘れてしまうのだ。最近失われたのが、湊の記憶からも消えかけている「青」だった。
途方に暮れ、公園のベンチに座り込んでいると、一人の少女が話しかけてきた。リラと名乗る彼女は、銀灰色の髪を風になびかせ、墨色の瞳で湊をじっと見つめていた。
「あなた、よそから来た人でしょう? あなたの服、見たことのない『色』がたくさんついてる」
湊は自分のくたびれたネイビーのジャケットを見た。リラの目には、これもまた灰色のバリエーションにしか見えていないようだった。
「この世界に来る前、僕は絵を描いていたんだ」
湊は、かろうじて頭の片隅に残っていた「青」の残滓を頼りに、持っていたスケッチブックに色鉛筆を走らせた。しかし、描けば描くほど、その色がどんな色だったか、確信が持てなくなる。記憶が指先からこぼれ落ちていくようだ。それでも何とか、空と海を描き上げた。
「これが…『あお』?」
リラはスケッチを覗き込み、小首を傾げた。彼女にとって、それはただの奇妙な濃さの灰色にしか見えない。
「僕のいた世界では、空も海も、この色をしていたんだ」
「ふーん…」リラは興味深そうに、しかし理解はできないといった様子で呟いた。「私の生まれるずっと前には、『歌』っていうものがあったんだって。おばあちゃんが言ってた。でも、どんなものだったか、誰も覚えてないの」
歌を失った世界。色を失った世界。人々は失ったことさえ忘れ、平穏に生きている。だが、それは本当に幸福なのだろうか。湊の心に、忘れかけていた創作への疼きが、ちいさな棘のように突き刺さった。この色のない世界で、自分に何ができるだろう。失われた「青」を、この世界の誰かに伝えることはできないだろうか。
第三章 忘却の塔が紡ぐ真実
湊は、失われた概念を取り戻す方法があるのではないかと考え、街の伝承を調べ始めた。リラも興味津々で湊を手伝った。やがて二人は、街の中心に聳え立つ、天を突くような白亜の塔の存在に行き着く。「忘却の塔」。そこには、この世界の成り立ちに関するすべての記録が眠っているという。
塔の内部は、無数の書物が並ぶ巨大な図書館のようだった。螺旋階段を上り詰めると、最上階で一人の老人が静かに二人を待っていた。彼は塔の守り人だと名乗った。
「異世界からの来訪者よ。お前がここに来ることは分かっていた」
老人の静かな声が、円形の部屋に響き渡る。
「この世界、アクロミアの真実を知りたいのだろう?」
湊が頷くと、老人は衝撃的な事実を語り始めた。
「アクロミアは、お前たちがいた世界…『原初世界』の人々が捨てた記憶や概念が集積してできた、影の世界だ。誰かが耐えがたい悲しみを忘れようと願えば、『悲哀』という感情がこの世界から奪われる危険性が高まる。誰かが忌まわしい過去を捨て去ろうとすれば、その記憶に付随する何かが、我々の世界から消え失せる」
つまり、この世界の喪失は、元の世界の誰かの「忘れたい」という願いによって引き起こされるというのだ。
「では、なぜ僕がここに?」湊は尋ねた。
「お前自身が、強く願ったからだ」老人の言葉が、湊の胸を鋭く抉った。「かつて、画家になる夢に破れたお前は、こう願ったはずだ。『絵の才能も情熱も失った惨めな自分なんて、忘れてしまいたい』と。その強い拒絶の念が、お前とこの世界を繋ぐ楔となったのだ」
忘れていた記憶が蘇る。コンクールに落選し、自暴自棄になってキャンバスを切り裂いた夜。自分の才能のなさに絶望し、すべてを投げ出したあの日の記憶。あの時の痛みが、この世界を形作る力の一部になっていたというのか。
「そんな…」
絶句する湊に、老人はさらに残酷な真実を告げた。
「失われた概念を世界に還す方法は、ただ一つだけ存在する。その概念に最も強い愛着と記憶を持つ者が、自らの存在そのものを触媒として、塔の祭壇で概念を『原初世界』に送り返すのだ。…つまり、『青』をこの世界に取り戻したくば、お前自身が消滅するしかない」
それは、あまりにも理不尽な選択だった。元の世界に帰ることを諦め、この灰色の世界で自らを犠牲にする。それが、この世界を救う唯一の道。湊の足元が、ぐらりと揺れた。
第四章 君に贈る空の色
自分の存在と引き換えに、世界に色を取り戻す。その事実の重みに、湊は数日間、塔の一室に閉じこもった。元の世界に帰りたい。だが、リラの顔が浮かぶ。歌を知らず、青い空を知らず、それでも懸命に生きる彼女の姿が。デザイナーとして、クライアントの顔色ばかりを窺っていた自分。いつからだろう、自分のためではなく、誰かのために、心の底から何かを「創造」したいと思わなくなったのは。
今、湊の中には、かつてないほど強烈な創作意欲が燃え盛っていた。この灰色の世界に、リラに、本物の「青」を見せてやりたい。たとえそれが、自分の存在と引き換えだとしても。それは自己犠牲などではない。デザイナー倉田湊としての、人生最後の、そして最高の作品制作なのだ。
湊は決意を固め、リラのもとへ向かった。
「リラ。僕、この世界に『青』を取り戻すことにしたよ」
リラは、湊の覚悟に満ちた瞳を見て、すべてを察したようだった。彼女は何も言わず、ただ静かに涙をこぼした。
「最後に、一枚だけ絵を描かせてくれ。僕が知っている、ありったけの青を使った絵を」
湊は、アクロミアで手に入るすべての画材をかき集め、塔の最上階で巨大なキャンバスに向かった。記憶の底から、必死に「青」をたぐり寄せる。夜明け前の深い藍。晴れ渡った空の、どこまでも透明な空色。南国の海の、生命力に満ちたターコイズブルー。忘れかけていた無数の「青」が、彼の脳裏に鮮やかに蘇る。筆を握る手は、歓喜に震えていた。これは命令された仕事じゃない。自分の意志で描く、自分の絵だ。
何日もかけて、一枚の絵が完成した。描かれていたのは、どこまでも広がる青い空と海。そして、その水平線の向こうを、希望に満ちた表情で見つめる一人の少女。それは、リラの姿だった。
「これを君に。僕が生きていた証だ」
湊は絵をリラに手渡し、彼女の銀灰色の髪をそっと撫でた。「歌がなくても、君はきっと、何かを創り出せる。この世界には、まだたくさんの色が眠っているはずだから」
リラは、湊の言葉の意味をまだ完全には理解できなかった。だが、その絵から伝わる温かい何かに、ただ涙が止まらなかった。
湊は一人、忘却の塔の祭壇へと向かった。祭壇の中央に立つと、彼の身体が淡い光を放ち始める。ありがとう、リラ。君のおかげで、僕はもう一度、絵を描く意味を見つけられた。
湊の身体が光の粒子となってゆっくりと消えていく。それと同時に、塔の天窓から、信じられない光景が広がった。灰色の空が、まるで薄皮を剥がすように割れ、その向こうから、鮮烈な、目が眩むほどの青が溢れ出した。光は街中に降り注ぎ、建物の屋根を、石畳を、人々の瞳を、世界にあるすべてのものを青く染め上げていく。
人々は空を見上げ、生まれて初めて見る「青」という色彩の美しさに息を飲み、涙を流した。リラは、湊が描いた絵を抱きしめ、本物の青空を見上げていた。その瞳は、湊が描いた通りの、澄んだ青色に輝いていた。
元の世界。湊が勤めていたデザイン会社のデスクに、一枚の小さなスケッチが残されていた。誰も見たことのない、しかしなぜか心を揺さぶる美しい青色で、笑顔の少女が描かれている。
「これ、誰の絵だっけ?」
同僚の一人が首を傾げる。誰もが、倉田湊というデザイナーがいたことを、ぼんやりとしか思い出せない。彼の存在は、世界からほとんど消えかけていた。まるで、最初からいなかったかのように。
アクロミアでは、リラが青い空の下、新しいスケッチブックを開いていた。彼女はまだ歌を知らない。だが、湊が遺した青い世界で、彼女はこれから、自分だけの色を探し、新しい何かを創造していくのだろう。喪失から始まる物語も、きっとあるのだから。