第一章 灰色の雨と消えかけの灯火
吐き気がする。
視界に飛び込む全てが、俺の神経をやすりで削ってくる。
風に揺れる木々の深緑は、強制的な「安らぎ」を脳髄に垂れ流し、まぶたを重くさせる。空を切り裂く鳥の水色は、「自由」への渇望をきりきりと俺の喉元に突きつけてくる。
世界は、極彩色の暴力で満ちている。
だが、それも一歩踏み出すたびに死んでいく。
俺のブーツが、乾いた音を立てて灰色の砂を噛み砕く。
ここには、俺の網膜を焼く色はもうない。
かつて森だった場所は、彩度を剥ぎ取られたモノクロームの墓標へと変わり果てていた。
「……アトラス。ごめん、足が」
背後で、枯れ木が折れるような音がした。
振り返ると、ボロボロのローブを纏ったリナが砂上に崩れ落ちている。
俺は目を細め、彼女の胸郭を透かし見る。
酷い。
以前は暖炉の火のように肌を温めていた「希望」の橙色が、今は風前の灯火だ。
その周りを、コールタールのような粘度を持った灰色――「無気力」が這いずり、光を窒息させようとしている。
「休もう」
俺は膝をつき、リナの顔を覗き込む。
頬の肉が削げ、陶器のように白く冷たい。肌の表面から、さらさらと色が灰になって零れ落ちていく。
世界を食い尽くす病。その進行は、彼女の命の灯火を確実に蝕んでいた。
「……ねえ、アトラス。私、怖い顔してない?」
リナが震える指で自分の頬に触れる。
俺は一瞬、呼吸を止めた。
俺の胸には、何もない。
恐怖も、憐憫も、焦りもない。ただの空洞だ。
だから俺は、記憶の引き出しを開ける。
『こういう時、人間はどんな顔をするべきか』
データベースから「慈愛」と「心配」の表情筋のパターンを検索し、顔面に貼り付ける。
「そんなことない。君はいつだって綺麗だ」
俺の口から出た言葉は、完璧な声色だったはずだ。
だが、リナの瞳が一瞬だけ揺らいだのを俺は見逃さなかった。
彼女は、俺の瞳の奥にある空虚に気づいている。それでも、彼女は弱々しく微笑んで見せた。
「ありがとう……」
その笑顔が、ちくりと俺の胸を刺す。
痛みではない。ただの違和感だ。硝子片がこすれるような、微かなノイズ。
俺は首から下げた『硝子片』を握りしめた。
俺と世界を繋ぐ、唯一の翻訳機。
俺は硝子片をリナの胸元にかざす。
冷ややかな硝子が、リナの奥底に残る残り火を吸い上げ、灼熱を帯び始めた。
指先が焼けるように熱い。
硝子越しに、リナの記憶が暴力的に流れ込んでくる。
――母親のスープの匂い。鼻腔をくすぐる幸福感。
――魔法が成功した瞬間の、指先が痺れるような高揚。
それらの記憶にこびりついた「喜び」の金色を、俺は硝子片で増幅し、無理やり彼女の心臓へ押し戻す。
「……ん、ぁ……」
リナの背が弓なりに反る。
胸元の橙色が、ふわりと膨れ上がった。
同時に、彼女の体内に巣食っていた「恐怖」の紫色の棘が、硝子を通じて俺の神経に突き刺さる。
こめかみに激痛が走る。
他人の感情が、異物として俺の血管を逆流する。
だが、俺は顔色一つ変えない。
俺には、その痛みを「痛い」と感じる自我がないからだ。ただの信号処理。ただの翻訳作業。
「あたたかい……」
リナの呼吸が整う。
彼女の手が、俺の手首を掴んだ。
「貴方は……どうして、泣かないの?」
リナの視線が、俺の乾ききった瞳を射抜く。
俺は反射的に目を逸らした。
「泣く必要がないからだ。俺には色が無い。だから、君の色を混ぜずに救える」
リナの手から伝わる体温。
それは確かなのに、俺の内側は冷たい風が吹き抜けているだけだ。
他人の感情を映す鏡。鏡には、自らの色は存在しない。
風が、灰色の砂塵を巻き上げた。
世界の中心、「源泉」の方角から、どす黒い雲が湧き上がってくる。
「行こう、アトラス」
リナが立ち上がる。
その瞳の奥、「決意」の赤色が、微かだが鋭く俺の網膜を焼いた。
第二章 嘆きの回廊
一歩進むごとに、空気が鉛のように重くなっていく。
道端には、「無色」たちが転がっていた。
感情を完全に食い尽くされた抜け殻。
ピクリとも動かず、虚空を見つめたまま呼吸だけを繰り返している。
彼らの周囲の空間は歪んでいる。
近づけば、俺の中のわずかな色彩感覚さえも吸い込まれそうになる。ブラックホールだ。
「お母さ――」
リナがよろめき、一人の女性の抜け殻に手を伸ばそうとする。
「触るな!」
俺はリナの腰に腕を回し、強引に後ろへ引き倒した。
その拍子に、リナの指先がわずかに「無色」の影を掠める。
ジュッ、と音がした。
リナの指先から、鮮やかな青色が霧のように噴出し、その影に飲み込まれて消えた。
「っ……!」
リナが唇を噛む。
恐怖に引きつる彼女の顔から、「絶望」の藍色が滲み出し、地面にぽたぽたと滴り落ちる。
「あれはもう人間じゃない。感情を喰らう穴だ」
俺はリナを立たせ、先を急ぐ。
目指す峡谷が近づくにつれ、俺の「感情色覚」は限界を超えて悲鳴を上げていた。
匂いがする。
腐った沼の底をかき混ぜたような、濃厚な悪臭。
空間そのものが、「憎悪」と「悲嘆」で飽和している。
視界が明滅する。
どす黒い緑色の靄が、皮膚にまとわりつく。
それは物理的な粘液のようにねっとりと重く、拭っても拭っても取れない。
「アトラス、息が……できない……」
リナが喉をかきむしる。
感受性の高い彼女にとって、この大気は猛毒のガス室だ。
「硝子片を握れ! 俺の感覚と同期しろ!」
俺はペンダントをちぎり取り、彼女の手に押し付けた。
瞬間、俺の世界から色彩が消し飛ぶ。
白と黒だけの、静寂の世界。
代わりに、リナの心音が直接脳内に雪崩れ込んでくる。
ドクン、ドクン、ドクン。
早鐘を打つ心臓。
『怖い、消える、怖い、私がなくなる』
言葉ではない。
氷の刃で内臓を切り刻まれるような、生々しい「恐怖」の感触。
俺は歯を食いしばり、胃液がせり上がるのを飲み込む。
重い。痛い。
他人の恐怖が、俺の身体の自由を奪っていく。
だが、足は止まらない。
俺は空っぽだ。空っぽだからこそ、この濁流を素通りさせられる。
峡谷の縁にたどり着いた。
眼下に広がる光景に、俺は息を呑むことすら忘れた。
岩肌は、凝固した血のような赤黒い物質で覆われている。
その最深部。
巨大な繭のような「何か」が、不規則に脈打っていた。
ドクン。
世界中の色が、そこへ吸い込まれていく。
ドクン。
色が脱色され、灰色の死となって吐き出される。
あれは、心臓だ。
それも、ただの心臓ではない。
俺の視覚が、硝子片なしで「それ」を捉えてしまった。
強烈な圧力が、眼球を内側から破裂させようとする。
攻撃的な殺意ではない。
もっと質が悪い。
あれは、終わりのない「自責」。
無限に繰り返される「後悔」。
世界を創った存在が、あまりの愛おしさに耐えきれず、自らを呪い、泣き叫んでいる姿だった。
第三章 創造主の孤独
峡谷の底へ降り立つと、そこは台風の目の中にいるようだった。
感情の乱気流が、肌を切り裂く。
「あ、が……!」
リナが悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちた。
彼女の身体を守っていた薄い膜が弾け飛ぶ音がした。
「リナ!」
駆け寄った俺の手が、空を切る。
リナの身体から、凄まじい勢いで色が剥がれていく。
愛も、恐れも、過去も、未来も。
全てがあの繭に向かって、奔流となって吸い込まれていく。
「いや……嫌だ……私が、消えちゃう……」
リナの瞳の色が、急速に薄れていく。
焦点が合わなくなる。
「無色」化が始まったのだ。
『――――――』
頭蓋骨を直接揺さぶる振動。
声ではない。
圧倒的な「拒絶」の波動だ。
繭が大きく収縮し、衝撃波を放つ。
俺はリナ覆いかぶさり、背中でそれを受ける。
背骨がきしむ。
物理的な衝撃ではない。
「消えろ」という意思。
「これ以上、私に触れるな」という、痛々しいほどの孤独な叫びが、俺の精神をハンマーで殴打する。
創造主は、自分の感情が世界を汚すことを恐れた。
だから閉じこもった。
だが、その「閉じこもりたい」という強烈な拒絶こそが、皮肉にも世界中の感情を吸い寄せ、枯渇させている。
「……アトラス……逃、げ……」
腕の中のリナが、灰色の人形になりかけている。
その手から、体温が消えていく。
「置いていくかよ」
俺は立ち上がろうとして、足が動かないことに気づく。
膝が笑っている。
歯の根が合わない。
なんだ、これは。
この震えは、なんだ。
リナの恐怖が流れ込んでいるのか?
違う。硝子片は今、リナの手の中にはない。
これは、俺の震えだ。
俺の、恐怖だ。
俺は、怖いのか?
この空っぽの俺が?
いや、違う。
ずっと、誤魔化していただけだ。
他人の感情を受け止める「鏡」の役割に徹することで、自分が傷つくことから逃げていただけだ。
「俺には色がない」と嘘をついて、世界と関わることを拒絶していたのは、俺の方だったんじゃないか。
ドクン。
俺の胸の奥で、小さな火種が弾けた。
それは、理不尽な世界への「怒り」。
リナを失いたくないという「焦燥」。
そして、あの泣き叫ぶ創造主への、どうしようもない「共感」。
それらが混ざり合い、熱となって全身を駆け巡る。
俺はリナの手から、砕け散る寸前の硝子片をひったくった。
「聞け!!」
俺は叫んだ。
裂帛の気合と共に、硝子片を天ではなく、俺自身の心臓に突き立てる。
「お前のその絶望も! 後悔も! 孤独も!」
硝子片が皮膚を裂き、肉に食い込む。
激痛。
だが、それ以上の熱量が、俺の内側から爆発した。
「俺が全部、翻訳してやるッ!!」
第四章 色なき色のプリズム
硝子片を媒介に、俺の神経回路が創造主の「心臓」と直結する。
『ウウウウウウゥゥゥゥ……!』
流れ込んでくるのは、泥のような悲しみ。
重い。苦しい。
何万年分もの「ごめんなさい」が、俺の自我を押し潰そうとする。
普通の人間なら、一瞬で精神が崩壊するだろう。
だが、俺は「空っぽ」だ。
誰よりも多くの感情を通過させ、耐え抜いてきた、世界で一番頑丈な空洞だ。
「これくらいで……潰れるかよ!」
俺は歯茎から血が出るほど噛み締め、踏ん張る。
飲み込むな。吐き出すな。
通せ。
光を通すプリズムのように。
俺の胸から溢れた光が、創造主のどす黒い波動と衝突する。
視界が歪む。
俺の中にある色は、赤でも青でもない。
恐怖、怒り、悲しみ、歓喜。
あらゆる感情が混ざり合い、高速で回転し、飽和した果てに生まれた色。
光は、全ての色を重ねると「白」になる。
いや、ただの白じゃない。
あらゆる可能性を秘めた、透明な輝き。
《色なき色》。
俺はその透明な光を、創造主の黒い繭へと叩きつける。
「悲しくてもいい! 憎んでもいい!」
俺の叫びが、光となって繭を貫く。
創造主の「絶望(黒)」が、俺という「プリズム」を通過し、分光されていく。
黒が、解ける。
悲しみは、慈愛の雨色へ。
怒りは、命を燃やす緋色へ。
後悔は、明日を導く夜明けの藍色へ。
否定するな。
感情に、不要な色なんてひとつもない。
『……あ……ぁ……』
脳内に響く波動が、棘を失い、柔らかなものへと変わっていく。
嵐が止む。
繭が、ゆっくりと花開くように光の粒子となって崩壊し始めた。
「……アトラス!」
背後で声がした。
振り返ると、灰色の石になりかけていたリナの身体が、ふわりと宙に浮いている。
彼女の胸に、世界中から解放された「色」が雪崩れ込んでいくのが見えた。
彼女が泣いている。
その瞳から溢れる雫は、七色に輝く真珠のようだった。
俺の視界が、強烈なホワイトアウトに包まれる。
胸に突き立てた硝子片が、役目を終えたように熱を失い、さらさらとした砂になって崩れ落ちていく感覚があった。
俺の意識は、その温かく、眩しい光の中に溶けていった。
第五章 世界は美しい
まぶたの裏が赤い。
陽の光を感じる。
鳥のさえずり。
水のせせらぎ。
湿った土と、若草の青い匂い。
俺はゆっくりと目を開けた。
そこは、あの荒野だった場所だ。
だが、景色は一変していた。
灰色の砂漠だった大地からは、緑色の芽が一斉に息吹き、空は突き抜けるような青さを湛えている。
遠くに見える「無色」だった人々が、呆然と、しかし確かに自分の手を見つめ、涙を流しているのが見えた。
「アトラス!」
柔らかい衝撃。
リナが俺の首に抱きついていた。
彼女の体温。髪の甘い香り。早鐘を打つ鼓動。
「よかった……生きてる……アトラス……!」
俺は彼女の背中に手を回す。
その背中は温かい。
俺はふと、世界を見渡した。
そして、気づく。
空はただ青いだけ。
木はただ緑なだけ。
リナの感情が何色なのか、もう視覚として捉えることはできない。
あの「感情色覚」は、あの光と共に消え去ったのだ。
俺の目は、ただの「目」になった。
喪失感があるかと思った。
だが、不思議と心は晴れやかだった。
目の前の世界が、過剰な修飾語なしに、ただそこにある。
その事実が、こんなにも美しいとは。
「リナ」
「なぁに?」
涙目で微笑む彼女の顔を見る。
色は見えない。
けれど、彼女が今、どれほど安堵しているか。どれほど俺を想ってくれているか。
それが痛いほど伝わってくる。
色という記号に頼らなくても、俺の心臓が直接それを感じ取っている。
ドクン、と自分の胸が鳴る。
そこには、確かな熱があった。
もう空洞じゃない。
ここには、俺自身の「感情」が満ちている。
それは、特定の色で塗りつぶせるような単純なものじゃない。
不安もあれば、希望もある。
過去への痛みもあれば、未来への期待もある。
複雑で、厄介で、そして何よりも愛おしい、俺だけの彩り。
「……世界は、こんなに綺麗だったんだな」
俺が呟くと、リナはくしゃっと顔を歪めて、また泣き笑いをした。
「うん。……うん、そうだよ、アトラス」
俺は彼女の手を握り返す。
強く、確かに。
創造主が残した「負の感情」も、完全には消えていないだろう。
これからも人は悲しみ、怒り、傷つけ合うかもしれない。
だが、それでいい。
影がなければ、光はこれほど眩しくないのだから。
俺たちは歩き出す。
色とりどりの感情が渦巻く、この騒がしくて美しい世界へ。
俺の物語は、ここから始まるのだ。
何色にも染まらない、けれど全ての色を愛せる、ひとりの人間として。