第一章 金色の檻と銀の少女
鼻をつく鉄錆の臭い。
それが最初の記憶だった。
重い瞼を持ち上げる。
視界が白濁している。
まるで水底から水面を見上げているような、揺らぐ光景。
「……さま。勇者さま」
鈴を転がしたような声が鼓膜を叩く。
焦点が合う。
目の前には、この世のものとは思えない美貌があった。
透き通るような銀髪。
意志の強さを宿した紫水晶(アメジスト)の瞳。
純白のドレスに身を包んだ少女が、祈るように両手を組んで私を見下ろしている。
「ああ、よかった……。召喚は成功したのですね」
召喚。
その単語が脳内で反響し、鈍い痛みを伴って理解が追いつく。
俺は、死んだはずだ。
深夜の交差点。ヘッドライトの奔流。砕ける音。
そうだ、俺は確かに終わったはずだった。
「ここは……?」
喉が焼けるように熱い。
自分の声が、ひどく低い唸り声のように聞こえた。
「ここは異界、アステリア王国。私は第一王女のエリシアです」
彼女は俺の煤けた頬に、恐れることなく白魚のような指を這わせた。
ひんやりとした感触が心地よい。
「我が国は今、魔族の侵攻により滅亡の淵にあります。どうか、あなたのその強大な力で……私たちをお救いください」
少女の瞳から一筋の雫が零れ落ちる。
その涙が、俺の胸の奥にある何か――どす黒く、熱い衝動に火をつけた。
体を起こす。
軽い。
信じられないほど体が軽い。
生前の、デスクワークで凝り固まった重苦しい肉体とは別物だ。
全身に力が漲っている。
血管の中を血ではなく、溶岩が流れているような高揚感。
ふと、自分の手を見る。
大きい。
節くれ立ち、剛毛に覆われた太い腕。
皮膚は土気色に変色し、爪は鋭く尖っている。
(……これが、勇者の肉体か?)
異世界転生。
小説で読んだことがある。
魔族と戦うために、神が与えた最強のボディ。
多少の見た目の変化など、些細なことだ。
「武器を、勇者さま」
エリシアが召使に目配せをする。
数人の兵士が、脂汗を垂らしながら巨大な何かを引きずってきた。
それは剣と呼ぶにはあまりに無骨な、巨大な鉄塊だった。
長さは俺の身長ほどもあるだろうか。
柄には禍々しい赤い宝石が埋め込まれている。
兵士たちは恐怖に震えながら、それを俺の前に置くと、脱兎のごとく部屋の隅へ退がった。
俺はその「鉄塊」を片手で掴む。
軽い。
まるで羽ペンのようだ。
ブン、と一振りしてみる。
空気が悲鳴を上げ、衝撃波だけで床の石畳に亀裂が走った。
「素晴らしい……」
エリシアが頬を紅潮させ、うっとりと俺を見つめる。
「さあ、参りましょう。城門の外には、すでに魔族の尖兵が迫っています」
俺は立ち上がった。
視線が高い。
天井に頭が届きそうだ。
エリシアの華奢な背中を追いかけながら、俺は唇を歪めた。
沸き立つ破壊衝動。
この力があれば、何も恐れることはない。
俺は、この世界の救世主になるのだ。
第二章 鮮血の舞踏会
城門が開かれると同時に、轟音が響き渡った。
「ギャアアアアッ!」
耳障りな金切り声。
俺の視界に飛び込んできたのは、醜悪な怪物たちの群れだった。
全身が銀色に輝く金属質の皮膚を持つ、直立した昆虫のような化け物。
あるいは、顔面がのっぺらぼうで、光る棒を振り回す小鬼たち。
(あれが、魔族……!)
生理的な嫌悪感が胃の腑からせり上がってくる。
あんなものがこの美しい世界を、あの清廉なエリシアを脅かしているのか。
許せない。
絶対に、一匹残らず駆逐してやる。
「勇者さま、お願いします!」
城壁の上からエリシアの声が響く。
その声援が、俺の理性の箍(たが)を外した。
「オオオオオオオッ!!」
俺は咆哮した。
それだけで、最前列にいた金属質の化け物たちが数匹、吹き飛んだ。
地面を蹴る。
爆発的な加速。
一瞬で敵の懐に潜り込む。
巨大な鉄塊を横薙ぎに振るう。
ドシャアッ!
手応えは、熟れた果実を潰したようなものだった。
硬いはずの金属質の皮膚が、紙切れのように裂け、中から赤い液体が噴き出す。
(脆い……!)
あまりにも弱い。
これが魔族の尖兵か?
俺は踊るように剣を振るった。
一振りで五匹、十匹と肉塊に変わっていく。
「タ、タスケ……!」
「バケ、モノ……!」
化け物たちが、何か奇妙な音を発している。
まるで人間の言葉のように聞こえるが、所詮は魔族の擬態だろう。
俺を惑わすための卑劣な罠だ。
「黙れ!」
俺は足元の小鬼を踏み潰した。
グシャリ、と不快な音がして、命の灯火が消える。
返り血を浴びるたび、体の熱が増していく。
視界が赤く染まる。
自分が強大な存在であるという全能感。
ああ、なんて素晴らしいんだ。
俺は今、生きている。
かつての灰色の人生では味わえなかった、鮮烈な「生」の実感。
「ヒッ、ヒィィッ!」
残った魔族たちが、背を向けて逃げ出した。
武器を捨て、無様に這いつくばりながら。
「逃がすかよ」
俺は愉悦に口元を歪め、跳躍した。
空中で体を捻り、遠心力を乗せた一撃を、逃げ惑う群れの中心に叩きつける。
轟音。
土煙。
そして、静寂。
土煙が晴れると、そこには赤黒い沼だけが残っていた。
「凄い……! なんてお強いのでしょう!」
エリシアが駆け寄ってくる。
そのドレスの裾が血溜まりに汚れるのも構わず、彼女は俺の太い腕に抱きついた。
「これで王都は救われました。ですが、まだ元凶が残っています」
彼女は遠くに見える、荘厳な白い塔を指差した。
「あそこに『魔王』がいます。彼を討てば、この世界に真の平和が訪れるのです」
魔王。
ラスボスか。
願ってもない。
「行こう。すぐに終わらせてやる」
俺の言葉――低く唸るような響き――に、エリシアは妖艶な笑みを浮かべて頷いた。
その時、ふと違和感を覚えた。
倒した魔族の死骸。
その中の一つから、何か光るものがこぼれ落ちている。
ロケットペンダントのように見えた。
泥にまみれたそれを拾い上げようとした瞬間、エリシアが俺の手を引いた。
「勇者さま、急ぎましょう。魔王が逃げてしまうかもしれません」
「……ああ、そうだな」
俺はペンダントへの興味を失い、踏み出した。
金属質の破片に映った自分の顔が、一瞬だけ見えた気がした。
三つの目。
裂けた口。
ねじれた角。
(……今の、俺か?)
いや、気のせいだ。
兜か何かを被っているのだろう。
俺は勇者なのだから。
第三章 聖女の狂気
白い塔の最上階。
そこには、一人の男が立っていた。
白銀の鎧を纏い、聖なる輝きを放つ剣を構えた、金髪の美青年。
背後には、傷ついた女性や子供たちが震えながら隠れている。
「よくぞここまで来た、魔族の尖兵よ……!」
青年が凛とした声で叫ぶ。
(は? 何を言っている?)
俺は周囲を見渡す。
魔王はどこだ?
この青年が魔王の人間態なのか?
それにしても、後ろにいるのは人質か?
「卑劣な……女子供を盾にするとは!」
俺は怒りに震え、鉄塊を構えた。
「何を、言っている……?」
青年が怪訝な顔をする。
「エリシア! 下がっていろ。ここは危険だ」
俺は背後のエリシアを庇うように前に出る。
しかし、エリシアはくすくすと笑い出した。
その笑い声は、今までのような鈴の音ではなく、どこか壊れた楽器のような不協和音を含んでいた。
「やれ」
短く、冷徹な命令。
俺の体は思考よりも早く反応した。
地面を蹴り、青年に肉薄する。
「速いッ!?」
青年が聖剣で受け止める。
金属音と共に火花が散る。
だが、力の差は歴然だった。
俺の膂力に押され、青年の膝が折れる。
「くっ……バケモノめ……! アステリアの騎士団長であるこの私が、遅れをとるなど……!」
騎士団長?
こいつは何を言っている?
混乱する俺の脳内に、エリシアの声が直接響いてくる。
『殺して。その男は魔王の側近よ。惑わされないで』
そうだ。
こいつは敵だ。
俺の平和を、エリシアの笑顔を奪おうとする敵だ。
「オオオオオッ!」
俺は渾身の力を込めて鉄塊を押し込んだ。
パキン、と乾いた音がして、聖剣が砕け散る。
勢いを失わず、俺の武器は青年の体を深々と抉った。
「ガハッ……!」
青年が血を吐いて崩れ落ちる。
「団長!!」
「嫌ぁぁぁっ!」
背後にいた女性や子供たちが悲鳴を上げ、駆け寄ってくる。
その中の一人の子供が、石を俺に投げつけた。
「お父さんを返せ! この人殺し! 化け物!」
コツン。
石が俺の硬い皮膚に当たって落ちた。
痛みはない。
だが、胸の奥が冷たく凍りついていく。
子供の瞳。
そこに映っているのは、勇者ではない。
身の丈3メートルを超える、異形の巨人。
三つの赤い目。
口からはよだれと血を滴らせ、全身から瘴気を放つ、正真正銘の「怪物」。
「な……」
俺は後ずさる。
手が震える。
俺の手は、いつからこんな鉤爪になった?
俺の肌は、いつからこんな腐肉色になった?
「ふふ、あはははは!」
高笑いが響く。
エリシアだ。
彼女は倒れた青年の死体を無造作に蹴り飛ばし、俺の前に立った。
「ご苦労さま、『被検体107号』。素晴らしい戦果ね」
「エリ……シア?」
「その名で呼ばないでくれる? 汚らわしい」
彼女が指を鳴らす。
パリン、と世界が割れる音がした。
視界にかかっていた霧が晴れる。
そこは、魔王の城ではなかった。
美しい大理石の王宮。
俺が今まで「魔族の巣窟」だと思って破壊してきた場所は、平和な城下町だった。
「小鬼」だと思って殺した相手。
それは、農具を持ったただの農民たちだった。
「金属質の化け物」だと思って粉砕した相手。
それは、この国を守るために必死に戦っていた近衛兵たちだった。
そして、俺が今殺した「魔王の側近」。
それは、最後まで民を守ろうとした、正義の騎士だった。
「あ……あぁ……」
喉から漏れたのは、言葉ではなく、絶望の呻きだった。
「認識阻害の魔法って便利よね。ただのオーク・ジェネラルを、自分を勇者だと思い込んだ狂戦士に変えられるんだもの」
エリシア――いや、この国の本当の支配者である魔女は、冷酷な瞳で俺を見下ろした。
「我が国は隣国との戦争に勝つために、強力な生物兵器を必要としていたの。異世界から魂を呼び寄せ、魔物の肉体に定着させる禁術。あなたは大当たりだったわ」
彼女は足元の、俺が殺した騎士の首を踏みつける。
「勇気ある騎士団も、無垢な民も、あなたの手で一掃できた。これで政敵はいなくなったわ。ありがとう、勇者さま?」
彼女が嘲笑う。
俺は自分の手を見た。
こびりついた血。
それは魔族の血ではない。
罪のない人々の、俺が守るはずだった人々の、赤い血だ。
「ウ、ウワアアアアアアアアアッ!!」
俺は頭を抱えて絶叫した。
心臓が早鐘を打ち、精神が崩壊していく音が聞こえる。
「あら、壊れちゃった? まあいいわ」
魔女は退屈そうに欠伸をした。
「用済みね。次の戦争まで、檻に戻っていなさい」
彼女が詠唱を始める。
幾重もの魔法陣が俺の体を拘束する。
抵抗する気力は、もう残っていなかった。
俺は勇者ではなかった。
物語の主人公ではなかった。
俺は、ただの災害。
世界を滅ぼすために喚ばれた、哀れな怪物。
視界が闇に閉ざされる直前、俺は見た。
「化け物!」と叫びながら涙を流す子供の姿を。
その子供もまた、近衛兵たちによって無慈悲に槍で貫かれるのを。
「――封印」
冷たい闇が俺を包む。
意識が遠のく。
もし、次に目が覚める時があるなら。
その時こそ、俺はこの身を焼き尽くしてでも、あの魔女を殺そう。
たとえ、この魂が永遠に地獄に落ちようとも。
深い闇の中で、怪物(おれ)は静かに涙を流した。
その涙だけが、俺に残された唯一の人間としての証明だった。