第一章 欠け落ちる明日
鼻腔を灼くような鉄錆の臭いが、思考を強制的に中断させた。
「っ……指が、動かない……！」
エララの悲鳴が、砂塵の舞う路地に吸い込まれていく。
彼女は震える両手を必死に組み合わせようとしているが、恐怖で強張った指先は、魔法の印を結ぶどころか、互いに触れ合うことさえ拒絶していた。
目の前には、泥とタールを煮詰めたような黒い獣。
この世界を守るべき防壁の概念が枯渇し、具現化した絶望そのものだ。
周囲の人々は逃げることすら忘れていた。
地面にへたり込み、濁った瞳で死神を見上げている。腰が抜け、喉が引きつり、悲鳴すら上げられない。
恐怖に抗うための『勇気』というエネルギーが、この世界の大気からごっそりと抜け落ちている。
「くそっ……」
僕は奥歯が砕けそうなほど噛み締める。
ポケットの中で、懐中時計が冷たく重い存在感を放った。
針の止まった、壊れかけの時計。
だが、その金属の冷たさだけが、僕に過酷な取引を迫る唯一の現実だった。
（払う。だから貸してくれ、俺の未来）
意識を頭蓋の奥へ沈める。
脳裏にあった「まだ見ぬ景色」のアルバムが、メリメリと音を立てて引き裂かれる感覚。
胸の奥をスプーンで抉り取られるような喪失感が走る。
想像するのは、現代日本のホームセンターの片隅で見た、あの無骨で赤い鉄塊。
「構成（ビルド）」
右手が熱を帯び、空間が軋む。光の粒子が渦を巻き、僕の手の中に質量をもたらした。
現れたのは、真紅のボディを持つ業務用粉末消火器。
安全ピンに指をかけ、力任せに引き抜く。
「伏せろ、エララ！」
僕は獣の鼻先へ飛び込み、黒い顔面に向けてレバーを握り潰した。
ブシュウウウウッ！
爆発音と共に、視界が鮮やかなピンク色に染まる。
微細な粉末が獣の目、鼻、口、あらゆる粘膜を蹂躙する。
魔法的な防御など意味をなさない。これはただの化学物質の暴力だ。
「ガアアッ、アッ、ゴホッ！」
獣が喉を掻きむしり、激しくむせ返りながらのた打ち回る。
ピンクの煙幕の中、僕はへたり込むエララの腕を強引に掴み、走り出した。
路地を抜け、廃屋の地下室へと滑り込む。
カビ臭い闇の中で、心臓だけが早鐘を打っていた。
「はあ、はあ……助かった……」
エララが肩で息をしながら、壁に背を預ける。
だが、僕は膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に堪えていた。
頭痛はない。
身体的な痛みなどよりもっと恐ろしい、絶対的な空虚が脳の一部を占拠していた。
（何を、失った？）
僕は必死に、自分の内面を探る。冷や汗が頬を伝う。
数年後の自分。もし日本に帰れたら、やりたかったこと。
そうだ、僕は確か、建築家になりたかったはずだ。
自分で設計した家で、日曜日の朝にコーヒーを淹れる。そんな未来を夢見ていた。
けれど今、その「家」のイメージを思い出そうとしても、白い霧がかかったように輪郭が掴めない。
窓の形は？ 壁の色は？
必死に手繰り寄せようとするほど、砂の城のようにボロボロと崩れ去り、指の隙間からこぼれ落ちていく。
「……アキラ？」
エララが不安げに僕の顔を覗き込む。
薄暗がりでも分かる、透き通るような青い瞳。
「また、自分を削ったのね」
「たいしたことない。ただの消火器だ」
僕は努めて口角を上げようとしたが、頬の筋肉がひきつり、うまく笑えなかった。
「嘘よ。あなたの目が、また少し、遠くを見てる」
彼女は僕の手を強く握った。その熱だけが、今の僕を「現在」という杭に繋ぎ止めている。
この世界では、魔法を行使するために『概念』を消費する。だが、異邦人である僕にはこの世界の概念を使えない。
代わりに、僕自身の『未来の記憶』を燃料にして、現代日本の物品を具現化する。
「……将来、どんな家に住みたかったか。間取り図が、頭の中から消えた」
「そんな……」
エララの瞳が揺れる。
僕は懐中時計を取り出した。
裏蓋を開けると、そこには一枚の写真が挟まっている。
色あせた家族写真。父と母、そして幼い僕が笑っている。
（まだ、大丈夫だ。過去は残っている。僕が僕であるための根っこは、まだここにある）
そう自分に言い聞かせる。
だが、時計のガラスに映る僕の顔は、どこか見知らぬ他人のように無表情だった。
この世界は病んでいる。
『真実』という概念が失われ、誰もが心地よい嘘で空腹を満たしている。
僕の能力が、その空白を一時的に埋め合わせるとしても。
僕が削れていくだけなら、いつか僕は、自分が何者かも忘れてただの肉塊になるのだろうか。
「行こう、エララ。次の街へ」
僕は写真から目を逸らし、パチリと時計を閉じた。
止まったままの秒針が、僕の残された寿命を無言で指し示しているようだった。
第二章 嘘で塗り固められた楽園
辿り着いたのは、常春の都『ヴェルニサージュ』。
城門をくぐった瞬間、僕たちは異様な光景に足を止めた。
通りを、葬列が進んでいく。
豪奢な棺桶が運ばれている。だが、誰一人として喪服を着ていない。
それどころか、参列者たちは極彩色の衣装を纏い、太鼓を打ち鳴らし、満面の笑みで踊り狂っていた。
「なんて素晴らしい日だ！ 彼は旅立ったんだ！ 最高の冒険へ！」
遺族と思しき女性が、棺桶の上でタンバリンを叩きながら叫んでいる。
その頬は紅潮し、口元は三日月のように吊り上がっているが、瞳の奥だけが暗い沼のように淀んでいた。
「……吐き気がする」
エララが口元を押さえる。
この街では『悲哀』や『苦痛』といった概念が徹底的に排除され、消費し尽くされていた。
死ですら、ここでは陽気なイベントとして処理される。
そこに『真実』の居場所はない。
広場のベンチに座ると、隣の老人が話しかけてきた。
手には真っ白な紙束を持っている。
「良い天気だねえ。今日も世界は平和そのものだ」
老人は、何も書かれていない紙面を満足そうに眺めている。
「お爺さん、その新聞、白紙ですよ」
僕が指摘すると、老人の笑顔が一瞬だけ凍りついた。
ピキ、と仮面に亀裂が入るような音が聞こえた気がした。だが、すぐにまた能面のような笑顔が貼り付く。
「何を言うんだね。ここには『幸せなニュース』が満載だよ。誰かが死んだとか、作物が枯れたとか、そんな悪いことは一切書かれていない。だから見えなくていいんだ」
見ないことで、存在しないことにする。
この街の支配者、『物語作家（ストーリーテラー）』が塔の上から散布する『虚構』の胞子が、人々の脳髄まで侵している。
「アキラ、あそこ」
エララが指差した先。
路地の暗がり、ゴミ捨て場の影で、一人の少年がうずくまっていた。
彼だけが、この街で唯一、笑っていなかった。
膝を抱え、小刻みに震えている。
「……僕、お母さんが冷たくなって動かなくなったのを覚えてるんだ。土の匂いも、ハエの音も。でも、みんなは『母さんは星になった』って笑うんだ。僕がおかしいのかな」
少年の声は枯れ、爪は腕に食い込み、血が滲んでいた。
『真実』を知る者が狂人扱いされる世界。
正常であることが病とされる地獄。
胸の奥で、どす黒い怒りが沸騰する。
それは僕が失った未来への怒りであり、この世界の理不尽さへの怒りだ。
「君はおかしくない」
僕は少年の前に跪き、その冷たい手を握った。
「でも、悲しいのは嫌だよ……。胸が張り裂けそうなんだ。忘れてしまいたいよ」
「悲しみは、君がお母さんを愛していた証拠だ。それがなくなったら、君のお母さんは本当にいなくなってしまう」
「でも……！」
言葉だけじゃ届かない。
この街を覆う分厚い『虚構』の油膜を焼き払うには、強烈な『現実』の炎が必要だ。
僕は懐中時計を握りしめる。
代償の重さを天秤にかけるまでもない。
（持って行け。俺が誰と恋をして、どんな家庭を築くはずだったのか。誰かと指輪を交換する時の高揚も、シワだらけの手を繋いで歩く安らぎも。その可能性を、全部！）
脳内で、無数の「もしも」のフィルムが焼き切れていく。
結婚式のヴィジョン、老後の縁側の風景、まだ見ぬ愛しい人の温もり。
全てが白く塗りつぶされ、灰になって消える。
「構成（ビルド）」
閃光と共に現れたのは、黒い無骨な箱と、巨大な白い布。そして、円盤状のリール。
『映写機』だ。
広場の真ん中にスクリーンを張り、電源を入れる。
カタカタとリールが回り、光の束が夕闇を切り裂く。
極彩色の嘘に塗れた街の人々が、何事かと集まってくる。
「なんだあれは？」「新しいサーカスか？」
映し出されたのは、現代日本のドキュメンタリー映画の断片。
瓦礫の山で泣き叫ぶ母親。戦場から帰還し、家族と抱き合って涙する兵士。病室で静かに息を引き取る老人と、その手を握りしめる孫。
『虚構』ではない、剥き出しの感情。
痛々しいほどの『真実』の奔流。
「ひっ……！」
誰かが悲鳴を上げた。
しかし、誰も目を離せない。網膜に焼き付くような生の現実に、釘付けになっている。
スクリーンの中の少女が涙を流すシーンで、街の人々の表情が凍りついた笑顔から、雪崩のように崩れていく。
白紙の新聞を持っていた老人が、膝から崩れ落ちた。
彼の目から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ああ……そうだ。わしは、妻を亡くしたんだった……寂しい、寂しいよぉ……！」
「痛い……心が、痛い……！」
タンバリンを持っていた女性が、楽器を投げ捨てて泣き崩れる。
あちこちで慟哭が上がる。
それは地獄絵図のようでもあり、同時に、人間らしさを取り戻す産声のようでもあった。
『真実』という概念が、僕の映写機からにじみ出し、街の『嘘』を洗い流していく。
僕は映写機の傍らで、ガクリと膝をついた。
脳が軽くなったような、不気味な浮遊感。
「アキラ！」
エララが駆け寄ってきて、僕を抱き止める。
「大丈夫……ただ、少し……穴が開いただけだ」
僕は笑おうとして、自分が何を忘れたのかさえ分からなくなっていることに気づいた。
ただ、胸の中にあったはずの温かい未来の予感が、きれいさっぱり消滅している。
恐怖で指先が震えた。
未来の記憶を使い果たせば、次はどうなる？
過去が喰われるのか？
それとも、僕という存在そのものが？
ふと、懐中時計を見る。
裏蓋の写真。
（父さん、母さん……）
名前が出てこない。
顔は分かる。愛していたことも分かる。
なのに、彼らを呼ぶための名前が、喉まで出かかっているのに出てこない。
「……アキラ、あなたの時計、光ってる」
エララの声で我に返る。
止まっていたはずの秒針が、ピクリと動いていた。
それは時間を刻む動きではない。
まるでコンパスのように、ある一点を指し示している。
世界の中心。
全ての概念が吸い上げられ、そして『真実』が封印された場所。
「呼ばれてるんだ」
僕は確信する。
僕がこの世界に来た理由。僕の記憶が、世界を癒やす特効薬になる理由。
「行かなくちゃ。僕が、僕でいられるうちに」
立ち上がろうとする僕の背中を、エララが強く叩いた。
「一人で行かせないわよ。あなたが誰か分からなくなっても、私が覚えているから。あなたの名前も、優しさも、全部！」
その言葉が、どんな魔法よりも熱く、僕の空っぽになりかけた心を満たした。
第三章 空白の代償
世界の最果て、『虚無の玉座』。
そこには、空っぽの空と、色のない大地が広がっていた。
足を踏み出すたびに、地面が砂のように崩れていく。ここではあらゆる概念が枯渇し、世界そのものが死にかけている。
「ようこそ、異界の生贄よ」
玉座に座っていたのは、輪郭の定まらない影だった。
人の形をしているようでいて、次の瞬間には獣になり、あるいは無機質な幾何学模様になる。
この世界が『真実』という劇薬を拒絶し、安楽な『嘘』を求めた結果生まれた、集合無意識の怪物。
「お前の記憶は美味だった。未来への希望、可能性……それらは極上のスパイスだ」
影の声は、無数の人間の囁きが重なったような不協和音だった。
「なぜ、真実を消した？」
「真実は残酷だからだ。人々は耐えられぬ。だから我は苦痛を喰らい、甘い夢を与えた。感謝こそされ、憎まれる覚えはない」
「その結果が、この滅びかけた世界か」
僕は懐中時計を取り出す。秒針は今、激しく回転し、熱を発している。
この時計は、僕と日本を繋ぐアンカーであり、同時にこの世界の失われた時を戻すための最後の鍵だったのだ。
「真実を戻せば、世界は苦痛に満ちるぞ？ 愛する者は死に、若さは衰え、希望は裏切られる。それでも良いのか？」
「ああ、そうだ！」
僕は叫ぶ。喉が裂けるほどに。
「痛みを知らない幸せなんて、ただの麻酔だ！ 人は、傷つくから優しくなれる。失うから、今この瞬間を愛おしく思えるんだ！ 母さんが作ってくれた味噌汁の味も、父さんに殴られた痛みも、全部俺を作った真実だ。それを『なかったこと』になんてさせるか！」
「愚かな。では、どうする？ 真実の概念は既にこの世界から消滅した。お前の小細工で作り出せる量ではない」
そうだ。
映写機や消火器のような小手先の道具では足りない。
世界を書き換えるほどの、圧倒的な質量の『真実』が必要だ。
僕には分かる。
代償にすべきものが。
『未来』は使い果たした。
残っているのは、『過去』と『現在』。
つまり、僕が生きてきた痕跡と、今ここで感じている想い。僕という存在の全て。
「アキラ、だめっ！」
エララが僕の意図を察して叫ぶ。
僕は彼女を振り返った。
恐怖で歪んだ彼女の顔さえ、たまらなく愛おしい。これもまた、僕が手に入れた『真実』の一つだ。
「エララ。君に出会えてよかった」
「嫌よ！ 忘れるなんて嫌！ いなくならないで！」
彼女が伸ばした手は、僕の体から溢れ出した青白い光の壁に阻まれる。
僕の肉体が、記憶が、光の粒子となって解けていく感覚。
指先から感覚が消えていく。
（思い出すんだ。僕の全てを。日本の風景、風の匂い、夕暮れのチャイム、自転車のサドルの感触、初めて人を好きになった日の胸の痛み、そして……この世界で見た、エララの笑顔）
それら全てを束ねて、弾丸にする。
嘘偽りのない、一人の人間が生きた30年分の『真実』。
僕は懐中時計を高く掲げる。
裏蓋の写真が、光に溶けていく。
「全部、くれてやる」
叫び声ではない。祈りのような、静かなつぶやきだった。
「構成（ビルド）」
僕という輪郭が弾けた。
恐怖はない。
ただ、エララとの約束を守れたことへの、静かな充足感だけがあった。
（さようなら、僕）
視界が白く染まる直前、僕は最後に、彼女の青い瞳を網膜に焼き付けた。
そして、世界は光に包まれた。
最終章 写真の中の明日
風が吹いている。
若草の匂いを含んだ、優しい風だ。
青年は目を開けた。
そこは、緑豊かな丘の上だった。
空は高く、白い雲が流れている。
遠くの街からは、人々の喧騒が聞こえる。
笑い声もあれば、怒鳴り声もある。誰かが泣き、誰かがそれを慰めている。
ありふれた、けれど確かな体温のある、生きた世界の音。
青年は体を起こす。
頭の中は、澄み切った青空のように真っ白だった。
自分が誰なのか。
どこから来たのか。
名前さえも分からない。
ただ、不思議と喪失感はなかった。
まるで長い旅を終えて、ようやく家に帰ってきたような、深い安らぎがあった。
「……？」
右手に、何か固いものを握りしめていることに気づく。
それは、古びた銀色の懐中時計だった。
針は動いている。
チク、タク、チク、タク。
心臓の鼓動と同じリズムで、正確に時を刻んでいる。
彼は、ふと裏蓋を開けてみた。
そこには、一枚の写真が入っていた。
背景には、奇妙な風景が写っている。
見たこともない赤い鉄塔と、この世界の石造りの城が、空の中で重なり合っているような幻想的な景色。
その前で、数人の男女が笑っていた。
優しそうな中年の夫婦。制服を着た少年。
そして、透き通るような青い瞳をした、美しい少女。
彼らは皆、肩を組み、最高の笑顔でこちらを見ている。
そして、その中心には――今、この時計を持っている自分自身が写っていた。
「…………」
知らない人々だ。
記憶にはない。
この風景も、この笑顔も、今の彼には何の意味も持たないはずだ。
けれど、写真の中の少女の笑顔を見た瞬間、青年の胸の奥がドクリと跳ねた。
理屈ではなく、魂が震えた。
涙が、勝手に溢れてきた。
「探さなきゃ」
青年は呟く。
言葉の意味も分からず、ただ衝動のままに。
「この人たちに、会わなきゃいけない気がする」
彼は立ち上がり、ズボンの土を払った。
風が、彼の背中を押すように吹く。
丘の下から、誰かがこちらへ駆けてくる姿が見えた。
長い髪をなびかせ、息を切らして。転びそうになりながら、それでも懸命に走ってくる。
「――！」
その人影が誰なのか、彼はまだ知らない。
けれど、握りしめた写真の中の少女と、目の前の人影が重なる。
世界は『真実』を取り戻した。
痛みも悲しみも含んだ、愛おしい世界を。
そしてここから、新しい物語が始まる。
『空白』の彼が、新しい記憶を、今度は失うためではなく、積み重ねていくために。
青年は時計をポケットにしまい、涙を流しながら笑顔で駆けてくる少女に向かって、最初の一歩を踏み出した。
