触れると記憶が零れる世界で

触れると記憶が零れる世界で

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***第一章 記憶の砂漠と沈黙の少女***

目覚めは、唐突な静寂の中だった。
湊(みなと)がゆっくりと瞼を押し上げると、そこは見慣れた自室の天井ではなかった。乳白色とラベンダー色が溶け合った、どこまでも続くマーブル模様の空。体を起こすと、指先にしゃり、と乾いた感触があった。見渡す限り、白銀に輝く砂丘が広がっている。風が頬を撫でるたび、細かな砂の粒子がキラキラと光を乱反射させた。
「どこだ、ここは……」
絞り出した声は、自分のものであるはずなのに、ひどく乾いて遠くに聞こえた。そして気づく。自分の名前は「湊」だということ以外、何も思い出せない。なぜここにいるのか。ここに来る前、何をしていたのか。頭の中には、分厚い霧がかかったように、記憶の輪郭さえ掴めなかった。
途方に暮れて立ち上がった、その時だった。
砂丘の稜線に、ひとりの少女が立っているのに気がついた。歳は十代半ばだろうか。色素の薄い髪が風に揺れ、着古した白いワンピースの裾がはためいている。彼女はこちらをじっと見つめていた。その瞳は、嵐の前の海のように、静かで深い蒼色をしていた。
湊が警戒しながら一歩踏み出すと、少女は何も言わず、くるりと背を向けて歩き出した。まるで、ついてこいとでも言うように。選択肢はなかった。湊は、茫漠とした砂の世界で唯一の手がかりであるその小さな背中を、黙って追い始めた。
どれくらい歩いただろうか。景色はほとんど変わらなかったが、やがて湊の目に、異様な光景が飛び込んできた。砂の中に、半分埋もれるようにして、一台の錆びついたグランドピアノが鎮座している。あり得ない光景だった。
好奇心に引かれ、湊はそっとピアノに近づき、鍵盤に触れた。
その瞬間、指先から衝撃が走った。触れた部分から、ピアノがぼろぼろと崩れ、色とりどりの砂となって流れ出したのだ。黄金色の砂、深い藍色の砂、燃えるような緋色の砂。それらはまるで意思を持つかのように宙を舞い、一つのメロディを奏で始めた。それは、喜びと悲しみ、そして諦念が入り混じった、ひどく切ない旋律だった。
砂のメロディは、誰かの「果たされなかった夢」の記憶そのものだった。なぜか、湊にはそれが直感的に理解できた。この世界では、あらゆるモノに触れると、そのモノに宿る記憶が砂となって零れ落ちるのだ。
驚愕する湊の隣で、少女はただ静かにその光景を見つめていた。そして、湊の顔を見上げると、初めてかすかに微笑んだ。その笑みは、悲しいくらいに優しかった。彼女はまだ、一言も言葉を発してはいなかった。

***第二章 色褪せた夢の残響***

少女との奇妙な旅が始まった。彼女は決して話さなかったが、湊が何かを見つけるたび、その意味を身振り手振りで教えてくれた。湊は彼女を、その静かな佇まいから「シズク」と心の中で呼ぶことにした。
二人が次にたどり着いたのは、巨大な枯れ木の根元だった。そこには、絵の具で汚れた一本の絵筆が落ちていた。湊がそれを拾い上げると、案の定、絵筆は鮮やかな七色の砂となって指の間から零れ落ちた。砂は風に乗り、目の前の枯れ木にまとわりつく。すると、殺風景だった枝先に、幻のように満開の花々が咲き乱れた。それは一瞬の奇跡だった。キャンバスに向かうことなく朽ち果てた、ある画家の情熱の残響。
次に見たのは、一冊の古びた本だった。触れると、銀色の文字の形をした砂が舞い上がり、語られることのなかった愛の言葉を宙に紡いだ。
この世界は、喪失で満ちていた。忘れられた夢、伝えられなかった想い、失われた時間。それらが美しい砂となって世界を彩り、そして風に吹かれて消えていく。湊は、その儚い美しさに心を奪われながらも、同時に言いようのない焦燥感に駆られていた。自分自身の記憶が、何一つない。自分は一体、何を失ってここに来たのだろうか。
「俺は、どうすればいいんだ……」
ぽつりと呟いた湊に、シズクは答えない。ただ、遠くを指差した。その先には、地平線の彼方に、ぼんやりと光る何かが見えた。
シズクは湊の手を取り、再び歩き出す。彼女の小さな手は、驚くほど冷たかった。湊は、あの光の先にこそ、自分の記憶を取り戻す鍵があると信じ始めた。もしかしたら、この世界から脱出する方法が見つかるかもしれない。
旅を続けるうちに、湊の心にはある変化が生まれていた。最初はただ戸惑い、恐怖を感じていたこの世界が、次第に愛おしく思えてきたのだ。零れ落ちる記憶の砂は、誰かの人生そのものだった。一つ一つの砂粒に、笑いがあり、涙があり、かけがえのない瞬間が宿っている。彼は、忘れ去られたそれらの記憶に触れるたび、まるで自分のことのように胸を痛め、そして温かい気持ちになった。
しかし、その感情が深まれば深まるほど、自分の過去が空白であることへの恐怖もまた、色濃くなっていく。自分には、こんな風に誰かの胸を打つような記憶があったのだろうか。それとも、思い出す価値もないような、空っぽの人生だったのだろうか。
光は日に日に大きくなり、やがて二人は巨大な盆地のような場所にたどり着いた。光の中心にあったのは、巨大な泉だった。だが、そこに水は一滴もなかった。干上がった泉の底が、月光のように青白い光を放っているだけだった。伝説にある「忘却の泉」。ここの水を飲めば、全ての記憶を取り戻せる、あるいは全てを忘れられると、どこからか声が聞こえた気がした。
だが、泉は枯れていた。希望は、目の前で音を立てて崩れ去った。
「……嘘だろ」
湊は、その場に膝から崩れ落ちた。

***第三章 枯れた泉と鏡の真実***

絶望が湊の心を黒く塗りつぶしていく。記憶を取り戻す唯一の望みが断たれた。自分は何者で、どこから来て、どこへ行けばいいのか。永遠にこの喪失の世界を彷徨い続けるしかないのか。
うなだれる湊の肩に、そっとシズクが手を置いた。いつもは冷たい彼女の手が、なぜか少しだけ温かく感じられた。湊が顔を上げると、シズクは悲しげに、しかしはっきりとした意志を宿した蒼い瞳で湊を見つめていた。
そして、彼女は初めて、その唇を開いた。
「あなたは、思い出す必要なんてないの」
その声は、澄んだ鈴の音のようだった。だが、その言葉は湊の心を鋭く抉った。
「どういう意味だ……? 思い出さなくていいわけがないだろう! 俺は自分が誰なのかも分からないんだぞ!」
感情的に叫ぶ湊に対し、シズクは静かに首を横に振った。そして、干上がった泉の底に歩み寄り、何かを拾い上げた。それは、鏡の破片だった。シズクはそれを湊の目の前に差し出す。
「見て。これが、本当のあなた」
湊は、恐る恐る破片を覗き込んだ。そこに映っていたのは、自分の顔ではなかった。
無数の管に繋がれ、白いシーツの上で、目を閉じて横たわる青年の姿。頬はこけ、生気のない顔。それは紛れもなく、自分自身の姿だった。だが、ここは病院のベッドの上だ。窓の外からは、けたたましいサイレンの音が聞こえる。現実世界の音だ。
その瞬間、堰を切ったように、断片的な記憶が湊の脳裏に洪水のように押し寄せた。
雨の夜。横断歩道。妹の手を引いていた。迫ってくるヘッドライト。妹を突き飛ばした時の、衝撃。ガラスの砕ける音。遠ざかっていく妹の泣き声――。
「……あぁ」
声にならない声が漏れた。この世界は、異世界などではなかった。交通事故に遭い、昏睡状態に陥った湊自身の「無意識」が作り出した、心象風景だったのだ。
流れ出す記憶の砂は、彼が目を背けてきた後悔や悲しみの欠片。錆びついたピアノは、ピアニストになる夢を諦めた親友との果たされなかった約束。枯れた絵筆は、画家になりたかった妹が、事故の後遺症で二度と筆を握れなくなったという、彼が知りたくなかった現実。
そして、目の前の少女、シズク。彼女は、湊が守りたかった、そして守れなかった、妹の理想化された幻影だった。言葉を話さなかったのは、湊自身が妹の声を聞くのが怖かったから。泉が枯れていたのは、彼が辛い現実を受け入れることを拒絶し、記憶に固く蓋をしていたからに他ならなかった。
「忘れたままでいいのよ、お兄ちゃん。もう、苦しまないで」
シズクの声は、紛れもなく妹の声だった。それは、兄を想う妹の優しさであると同時に、これ以上傷つきたくないという、湊自身の自己防衛本能が生み出した囁きでもあった。

***第四章 心が還る場所***

全てを理解した湊は、ただ呆然と立ち尽くしていた。この美しい砂の世界は、自分の弱さと後悔が生み出した、逃避のための箱庭だったのだ。
彼はシズクの、いや、妹の幻影の前にゆっくりと膝をついた。
「ごめんな……。俺が、お前の夢を……」
声が震える。だが、シズクは穏やかに微笑んで、湊の頬に触れた。その手はもう冷たくなかった。確かな温もりがあった。
「ううん。お兄ちゃんは私を守ってくれた。だから、今度は私がお兄ちゃんを守りたかったの。この世界で、ずっと」
その言葉に、湊は静かに首を振った。
「ありがとう、シズク。でも、もういいんだ。逃げてちゃ、ダメなんだ」
彼は立ち上がった。その瞳には、もう迷いはなかった。
「守れなかった後悔も、諦めた夢の痛みも、全部、俺の一部だ。忘れるんじゃない。忘れちゃいけないんだ。それを全部抱えて、俺は生きていかなくちゃいけない。お前の分まで」
湊が固い決意を口にした、その瞬間。
奇跡が起こった。彼の足元、干上がっていた泉の中心から、ぽこん、と小さな水泡が生まれた。そして、澄んだ水が静かに、しかし力強く湧き出し始めたのだ。水は瞬く間に泉を満たし、溢れ出した水は白銀の砂漠を潤していく。すると、砂の色が淡い緑へと変わり、そこから次々と若葉が芽吹き始めた。
世界が、再生していく。
湊が振り返ると、シズクの体は足元から光の粒子となって、少しずつ透け始めていた。彼女の役目は、終わったのだ。
「行かないでくれ……!」
湊は思わず手を伸ばす。シズクは、その手に自分の手をそっと重ねた。
「大丈夫。私は、ずっとお兄ちゃんの心の中にいるよ。忘れないで。どんなに辛い記憶も、それがあなたを作っている、かけがえのない一部だってこと」
「……ああ。忘れない」
「ありがとう、お兄ちゃん」
最期の言葉と共に、シズクは安らかな微笑みを浮かべて、完全に光の粒子となった。粒子は天に舞い上がり、マーブル模様の空に溶けていく。世界は、柔らかな光と生命の色に満ち溢れていた。湊は、その光景を涙で滲む瞳に焼き付け、ゆっくりと目を閉じた。

次に目を開けた時、湊の鼻孔をくすぐったのは、消毒液の匂いだった。
ピ、ピ、と単調な電子音が響く。白い天井。腕に繋がれた点滴。彼は病院のベッドの上にいた。窓から差し込む朝の光が、眩しい。それは、あの世界の光によく似ていた。
体はまだ思うように動かないかもしれない。心の傷が完全に癒えたわけでもないだろう。だが、彼の胸の内にもう、虚ろな空虚感はなかった。失ったものの痛みも、果たせなかった約束の重みも、全てが彼の心の一部となり、静かな泉のように彼を満たしていた。
湊は、窓の外に広がる青い空を見上げた。あの日、妹と見た空と同じ色だった。彼は小さく、しかし確かな息をひとつ吐き、現実という名の、新しい世界へと歩き出す覚悟を静かに固めるのだった。

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