第一章 褪せた世界の呼び声
水瀬蒼(みなせあおい)の世界は、灰色がかったキャンバスのようだった。美術大学の課題に追われる日々は、彩度を落とした風景画のように単調で、彼の心もまた、くすんだ色調に沈んでいた。かつて絵を描く喜びを教えてくれた祖母を亡くして以来、彼の描く絵から鮮やかな色は消え、技術だけが空虚に残った。彼は、感情を乗せることを恐れるように、ただひたすらに正確な線と形を追求していた。
その日、蒼は神保町の裏路地に佇む、埃っぽい画材屋に吸い寄せられた。古びた木の棚の奥、忘れられたように置かれていた小さなガラス瓶が、彼の目を引いたのだ。ラベルには、インクが滲んだ手書きの文字で『Lapis-Lethe(忘却の青)』と記されている。店主の老人は、その顔料について尋ねる蒼に、皺だらけの顔で曖昧に笑うだけだった。「忘れちまったよ。そいつが何を忘れさせてくれるのかも、な」。
蒼は、その深い、夜の湖の底を思わせるような青に、抗いがたい魅力を感じていた。まるで、自分の心の空虚を埋めてくれるかのように。アトリエに戻った彼は、早速その顔料をパレットに溶いた。筆に含ませ、真っ白なキャンバスに一筋の線を引いた瞬間、世界が揺らいだ。アトリエの油彩の匂いが遠のき、代わりに、雨上がりの土と、名も知らぬ花の蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。視界が眩い青に染まり、意識が途切れた。
次に目を開けた時、蒼は硬い草の上に倒れていた。見上げれば、空は巨大なパレットだった。ラベンダーとミントグリーンがゆっくりと混ざり合い、時折、黄金色の飛沫が星のように瞬く。周囲には、ガラス細工のような花々が咲き乱れ、その花びらからはメロディーのような光の粒子が立ち上っていた。そして何より驚くべきは、目の前に広がる風景が、先ほど彼が『忘却の青』で描こうとしていた心象風景そのものだったことだ。
ここはどこだ。混乱する蒼の足元で、小さな草が囁くように色を変えた。恐怖と好奇心がないまぜになった感情が、彼の心を支配する。ここは、色彩が生命として脈動し、感情が風景を創り出す世界らしかった。彼が立ち尽くしていると、不意に背後からか細い声がした。
「……あなた、色が濃い。どこから来たの?」
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。透けるような白い髪、淡い水色の瞳。だが、その輪郭はどこかぼんやりとしていて、まるで水彩画が滲んでしまったかのように儚い。彼女の存在そのものが、この鮮やかな世界の中で、ひどく色褪せて見えた。
第二章 記憶を喰らう旅
少女はルミナと名乗った。彼女の故郷の村は、世界から色が失われていく「褪色病」という奇病に蝕まれているという。かつては鮮やかだった家々も、人々も、今では輪郭を失い、灰色に沈みかけているのだと、ルミナは悲しげに語った。
「この世界のどこかにあるという『原色の心臓』を見つけられれば、きっとみんなを救える。そう信じて、旅をしているの」
蒼は、ルミナの瞳に宿る切実な光を見て、断ることができなかった。自分自身の状況もわからぬまま、彼は彼女の旅に同行することを決めた。この非現実的な世界で、誰かの役に立てるのなら、空っぽの自分にも意味が見出せるかもしれない。そんな淡い期待があった。
だが、この世界には残酷な法則が存在した。蒼がこの世界に滞在できる時間は、彼自身の「記憶」を対価としていたのだ。陽が昇り、また沈むたびに、彼の頭の中から一つの記憶が、写真の色が褪せるように消えていく。最初は些細な記憶だった。小学校の時のクラスメイトの名前、昨日食べた昼食の味。だが、滞在が長引くにつれ、失われる記憶は次第に彼にとって大切なものへと変わっていった。
ある朝、目覚めた蒼は、大学の友人たちと笑い合った日の記憶が、靄のかかった風景のように思い出せないことに気づき、愕然とした。胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感。彼は、過去から逃れたいと願っていたはずではなかったか。それなのに、いざ記憶が消え始めると、たまらない恐怖に襲われた。失って初めて、どんな些細な思い出も、自分という人間を形作るかけがえのない欠片だったのだと痛感した。
それでも、蒼は旅を続けた。隣で日に日に輪郭が薄くなっていくルミナを見ていると、立ち止まることはできなかったからだ。彼は、失われゆく記憶の痛みを振り払うように、スケッチブックに旅の風景を描き留めた。感情によって色を変える川、歌うように光を放つ森、悲しみの雨が降らせる灰色の雲。彼は、失っていく過去の代わりに、この世界の鮮やかな色彩を必死に心に刻みつけようとしていた。それは、自分自身が消えてしまわないための、悲痛な抵抗だった。
「蒼の絵は、なんだか温かいね」。ルミナが彼のスケッチを覗き込み、ふわりと微笑んだ。その笑顔を見るたびに、蒼の胸は締め付けられた。彼女を救いたい。その一心で、彼はまた一つ、大切な記憶をこの世界への滞在許可証として差し出すのだった。
第三章 原色の真実
幾多の困難を乗り越え、蒼とルミナはついに「原色の心臓」が眠るという「色彩の源泉」に辿り着いた。そこは、世界のすべての色が生まれ、そして還る場所。巨大な水晶洞窟の中心で、赤、青、黄色の三つの光が絡み合い、生命のように脈動する巨大な光球が浮かんでいた。あれが「原色の心臓」に違いない。
「あれがあれば、村が……!」
希望に顔を輝かせるルミナ。蒼もまた、これでこの長く苦しい旅が終わるのだと、安堵の息を漏らした。彼が光球に手を伸ばした、その瞬間だった。彼の脳裏に、今まで経験したことのないほど強烈なイメージが流れ込んできた。
――幼い日のアトリエ。大好きだった祖母の隣で、小さな彼がクレヨンを握っている。
『見て、おばあちゃん! ルミナだよ! 蒼のお友達!』
画用紙には、白い髪で水色の瞳をした、拙い少女の絵が描かれていた。祖母は優しく微笑んで、彼の頭を撫でた。『素敵な子だね。蒼が作った、世界で一番の色だ』――
「……あ……?」
声にならない声が漏れた。ルミナ。その名前は、彼が幼い頃に生み出した、空想の友達の名前だった。そして、目の前の光景は、彼が祖母を亡くした悲しみから逃れるために、心の奥底に封じ込めた「絵を描く喜びの記憶」そのものだった。
「原色の心臓」とは、外部から来た人間――蒼自身の、最も根源的で鮮烈な記憶の結晶だったのだ。
同時に、彼はこの世界の残酷な真理を悟ってしまった。「褪色病」の原因。それは、彼がこの世界に滞在するために消費し、捨て去ってきた記憶の「抜け殻」だった。彼の失われた記憶が、この世界の色彩を奪い、歪みを生み出していたのだ。ルミナが色褪せていたのは、他でもない。創造主である蒼自身が、彼女との思い出を忘れかけていたからだった。
世界を救うための旅は、世界を破壊する行為そのものだった。善意で行ってきた全てのことが、ルミナを、そしてこの世界を苦しめていた。足元から世界が崩れ落ちていくような感覚。蒼は、自分の犯した罪の大きさに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「どうして……」
彼の絶望を映すかのように、ルミナの姿がさらに薄れ、消え入りそうに揺らめいた。
第四章 君を描く、最後の色で
選択肢は二つだった。この「原色の心臓」――祖母との最後の、最も大切な記憶――を世界に捧げ、ルミナと世界を一時的に救うか。あるいは、この世界から去り、自分の記憶を取り戻し、全てを運命に委ねるか。どちらを選んでも、待っているのは激しい痛みと喪失だけだ。
蒼は震える手で、スケッチブックと、懐に忍ばせていた一本の木炭を取り出した。彼はもう、何かを失うことで何かを得ようとは思わなかった。逃げることも、犠牲にすることも、もうやめだ。
「ルミナ。君を描くよ」
彼は、目の前の光球――祖母との記憶――に背を向け、消えかかった少女に向き合った。そして、描き始めた。
彼は記憶を「捧げる」のではなく、その全てを「描く」ことを選んだのだ。
木炭が紙の上を走る。祖母の優しい笑顔、アトリエに差し込む午後の光、油絵の具の匂い、交わした言葉の温もり。失いかけていた全ての記憶を、彼は線の一本一本に込めていった。それは、過去への決別でも、執着でもなかった。失われたもの、これから失うもの全てを抱きしめ、受け入れるための儀式だった。
そして、彼はルミナを描いた。初めて出会った時の儚い表情、旅の途中で見せた屈託のない笑顔、彼女が信じた希望の光。彼の心の中にある、彼女の全てを。
絵が完成に近づくにつれ、「原色の心臓」は輝きを失い、代わりに蒼の絵が眩い光を放ち始めた。それは、この世界に依存しない、彼自身の内から生まれた、本物の色彩だった。
絵が完成した瞬間、洞窟全体が、そして世界が、柔らかな光に満たされた。それは救済でも破壊でもない、解放の光だった。
「ありがとう、蒼」
光の中で、ルミナがくっきりと輪郭を取り戻し、今までで一番美しい笑顔を見せた。
「思い出してくれて。……ううん、新しく描いてくれて。これで、私も、この世界も、あなたから卒業できる」
彼女の体は光の粒子となって舞い上がり、世界に溶けていった。さよなら、私の最初の友達。
気づくと、蒼は自分のアトリエに戻っていた。窓の外は、見慣れた灰色の街。だが、彼の目には、その風景が今までとは全く違って見えた。失った記憶は戻らない。胸には、埋めようのない大きな空洞が広がっている。しかし、その空虚の中心で、確かな熱を持つ小さな光が灯っていた。
彼の足元には、一枚の絵が落ちている。そこには、鮮やかな色彩の世界で微笑む、一人の少女が描かれていた。
蒼は涙を拭うと、新しいキャンバスをイーゼルに立てた。彼は多くのものを失った。だが、失ったからこそ、手に入れたものがあった。過去の痛みと向き合い、未来を描き出す力。
彼はパレットに、鮮やかな色を次々と乗せていく。その中には、もう二度と使うことはないと思っていた、燃えるような赤色があった。彼の筆は、迷いなくキャンバスの上を滑り始めた。それは、喪失から始まる、再生の物語の第一筆だった。