第一章 曇り硝子の追憶
人が命を終えるとき、その胸の奥に、最も強く輝いた思い出がひとつの結晶となって残る。人々はそれを「記憶結晶(メモリア)」と呼んだ。それは宝石のように硬く、磨けば磨くほど、宿された記憶の情景が鮮やかに浮かび上がる。俺、相馬レンの仕事は、その結晶を磨き上げる専門職「記憶研磨師」だ。
父も同じ仕事をしていた。だが、俺は父を尊敬してはいなかった。母が死んでから、父はまるで心を失ったかのように、他人の記憶ばかりを磨き続けた。俺自身の記憶になど、一度も目を向けてはくれなかった。だから俺は、父のようにはなるまいと、仕事と私情の間に厚い壁を築いて生きてきた。依頼人の感傷に付き合うつもりはない。ただ、最高の技術で、記憶を最も美しい形で蘇らせる。それが俺の矜持だった。
その日、俺の工房に持ち込まれた依頼は、少しばかり風変わりだった。依頼主は、先日百歳で大往生を遂げた街の名士、藤堂綾乃の一人孫だという若い女性だった。
「祖母の記憶結晶です。どうか、一番綺麗な姿にして差し上げてください」
恭しく差し出された桐の箱。だが、蓋を開けた俺は思わず眉をひそめた。中に入っていた結晶は、あまりにも小さく、色も鈍い曇り硝子のように濁っていた。
記憶結晶の大きさと輝きは、その思い出の強さと純度に比例する。百年という長い歳月を生き、多くの人々に慕われた大富豪の記憶だ。富、名声、家族からの愛。そのどれか一つを取っても、もっと大きく、虹色に輝く結晶になるはずだった。しかし、目の前にあるのは、まるで夭折した子供が遺すような、か細く、はかない光しか放っていない。
「……本当にこれが?」
「はい。発見された時、私達も驚きました。祖母の人生は、一体何だったのかと……」
孫娘の声は、悲しみよりも戸惑いに満ちていた。
俺の胸に、普段は感じることのない奇妙な疼きが走った。これは単なる仕事ではない。この小さな結晶の奥には、誰も知らない、一人の人間の真実が眠っている。俺は、その真実をこの手で解き明かしたいという、強い衝動に駆られていた。冷徹な職人であるはずの自分らしくもない感情だった。俺は黙って頷き、その小さな結晶を預かった。工房の窓から差し込む西日が、濁った結晶の表面を滑り、一瞬だけ、遠い日の夕焼けのような、淡い茜色を映し出した。
第二章 研磨師の戸惑い
工房の静寂の中、俺は革のエプロンを締め、研磨機に向かった。ダイヤモンドの粉末を溶かした特殊なオイルを薄く塗り、慎重に結晶を研磨盤に当てる。ウィーン、という低いモーター音だけが響く。集中力を極限まで高めると、俺の意識は結晶の内部へと滑り込んでいく。
最初に浮かび上がったのは、古い木造駅舎のホームだった。蒸気機関車の黒い煙が空に溶けていく。セーラー服姿の、まだ十代の綾乃が、不安げな顔で立っている。その隣には、汚れた作業着を着た青年がいた。顔はまだ靄がかかったようにはっきりしない。二人は何も話さない。ただ、繋がれた手が、互いの想いの全てを物語っていた。風が少女の黒髪を揺らす。潮の香りと、微かな機械油の匂いが鼻をついた。
研磨を進めるたびに、断片的な情景が万華鏡のように現れては消えた。
夜の浜辺で、二人で小さな焚き火を囲む姿。青年が古びたハーモニカで奏でる、どこか物悲しいメロディー。綾乃が差し出した、たった一つの林檎を分け合って食べる様子。彼らの世界には、富も名声もない。ただ、貧しくとも、寄り添うことで満たされる、純粋な時間が流れていた。
しかし、どの記憶も、幸せの絶頂でふつりと途切れてしまう。まるで、最も大切な部分が意図的に隠されているかのように。
「これほどの想いが、なぜこんなに小さな結晶に……?」
俺は作業を中断し、依頼主である孫娘に連絡を取った。
「お祖母様の若い頃の話を、何かご存じありませんか? 特に、恋人について」
電話の向こうで、彼女はしばらく黙り込んだ後、力なく答えた。
「……いいえ。祖母は、祖父とのお見合い結婚だったと聞いています。恋人がいたなんて、一度も……。ただ、一度だけ、亡くなる間際に、うわ言のように『ユウジ』という人の名前を呼んでいました」
ユウジ。記憶の中の青年の名前だろうか。
俺は再び研磨台に戻った。普段なら、こんな風に依頼に深入りすることはない。だが、綾乃とユウジの記憶は、俺の心の壁を静かに溶かし始めていた。彼らの純粋な想いに触れるたび、遠い昔に忘れてしまったはずの、温かい何かが胸の奥で息を吹き返すような感覚があった。それは、父を憎み、人を遠ざけてきた俺が、最も見ないようにしてきた感情だった。俺は無心で結晶を磨き続けた。この記憶の結末を、どうしても見届けなければならない、と。
第三章 交差する面影
何日も経った。結晶は徐々に透明度を増し、内部の情景も鮮明になっていく。そして、決定的な記憶の断片が、ついにその姿を現した。
それは、別れのシーンだった。再びあの木造駅舎のホーム。旅立つのであろう青年のカバンは、使い古されてくたびれている。綾乃は泣いていた。堰を切ったように、美しい顔を涙で濡らしていた。青年が、彼女の涙を無骨な指でそっと拭う。
「行かないで……」
「駄目だ。あんたを不幸にはできねえ。俺みたいなもんが、あんたの隣にいちゃいけねえんだ」
その時、青年の顔にかかっていた靄が、すっと晴れた。俺は息を呑んだ。研磨盤に当てていた手が、思わず震える。
その顔を、俺は知っていた。
工房の片隅に飾ってある、一枚の色褪せた写真。そこに写っている、若き日の父の顔と瓜二つだったのだ。
ユウジ。父さんの名前は、相馬雄二。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。まさか。そんなはずはない。父が、あの名家の藤堂綾乃と? 父の人生は、田舎の小さな工房で、母と俺と、ただ静かに過ぎていったはずだ。
混乱する頭で、俺は父の遺品が仕舞われたままの屋根裏部屋へ駆け上がった。埃っぽい空気の中、古い木箱を開ける。中には、父が使っていた工具や、数冊のアルバムが入っていた。俺が一度も開いたことのなかったアルバム。その一冊を手に取り、ページをめくった。
そこには、俺の知らない父の姿があった。母と出会う前の、まだ少年のような面影を残した父。そして、数ページ進んだところで、俺は息を止めた。
一枚の写真。背景は、記憶で見たあの海辺だ。父の隣で、はにかむように笑っているセーラー服の少女。藤堂綾乃だった。写真の裏には、父の拙い文字でこう記されていた。
『綾乃へ。いつか、必ず迎えに行く。雄二』
全身の力が抜けていく。俺が今まで信じてきた父の人生は、何だったのか。俺が憎んできた父の姿は、一体何だったのか。
俺が父を嫌っていた理由。それは、母の死後、父がまるで感情を失くし、俺に見向きもせず、ただ黙々と他人の記憶ばかりを磨いていたからだ。俺は、父の心は、ずっと昔に捨てた恋人――綾乃の元にあるのだと思い込んでいた。母も、俺も、ただの代用品だったのだと。その裏切りが許せなかった。
だが、木箱の底から、もう一つ、小さな結晶が出てきた。それは父自身の記憶結晶だった。法で定められ、遺族が保管することになっていたものだ。俺は一度もそれを見ようとしなかった。父の心の中など、知りたくもなかったからだ。
震える手で、俺はその結晶を工房へ持ち帰り、研磨盤に当てた。
光が溢れ出す。そこに映し出されたのは、綾乃の姿ではなかった。
食卓で、俺の好物だったハンバーグを頬張る母の笑顔。初めて補助輪なしで自転車に乗れた俺を、涙ぐみながら抱きしめる父の手。運動会で一等賞を取り、誇らしげに父の肩車に乗る幼い俺の姿。
父の結晶は、綾乃との思い出ではなく、俺と母との、ささやかで、しかし何よりも温かい日々の記憶で満ち溢れていた。その輝きは、どの宝石よりも強く、眩しかった。
父は、綾乃を忘れたわけではなかっただろう。しかし、彼は新しい愛を見つけ、全力でその家族を愛していたのだ。母を失った時、父が抜け殻になったのは、過去の恋を引きずっていたからではない。人生の全てだった最愛の妻と、その愛の結晶である家族の半分を、同時に失ってしまったからだったのだ。
俺は、何も分かっていなかった。父の沈黙の裏にあった、途方もない悲しみの深さを。その悲しみを乗り越えるために、他人の記憶を磨くことで、必死に心を保っていた父の姿を。
床に膝から崩れ落ちた俺の頬を、熱い涙が止めどなく伝っていった。
第四章 約束の輝き
夜が明け、工房に朝の光が差し込む頃、俺は綾乃の結晶の最後の研磨を終えた。
全ての濁りは消え去り、結晶はまるで朝露のように、透明で清らかな輝きを放っていた。そして、その中心に、今まで見えなかった最後の記憶が、静かに浮かび上がっていた。
別れのホーム。青年――父は、泣きじゃくる綾乃に、何かをそっと手渡していた。それは、彼がいつも吹いていた、古びたハーモニカだった。
「これを持っていてくれ。いつか、俺がこれを返してもらいに来る。その時まで、幸せでいてくれ」
「嫌……! あなたがいない幸せなんて、いらない!」
「幸せになるんだ。俺も、必ず幸せになる。それが、俺たちの約束だ」
父はそう言うと、綾乃の背中を優しく押し、無理やり汽車に乗せた。遠ざかっていく汽車に向かって、父は深々と頭を下げ続ける。その肩は、小さく震えていた。
これが、真実だったのだ。
綾乃の結晶が小さかったのは、彼女の人生で最も輝いた瞬間が、この「叶わなかった恋」だったからだ。その後の長い人生、どんな富や名声も、この純粋な思い出の輝きを超えることはなかった。そして、父もまた、その約束を守った。彼は母と出会い、俺という家族を得て、確かに幸せになったのだ。
俺は、磨き上げた結晶を桐の箱に収め、藤堂家を訪れた。
孫娘に結晶を手渡すと、彼女は恐る恐るそれを覗き込んだ。結晶の中に映し出される、祖母の誰も知らなかった青春の物語。名もなき青年との、はかなくも美しい恋の記憶。
「これが……祖母の……」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、祖母の人生が空虚だったことへの悲しみではなく、こんなにも純粋な愛を胸に秘めて生きてきた祖母への、深い感動と尊敬の念から来る涙だった。
帰り際、彼女は俺に小さな包みを渡した。
「祖母の遺品を整理していたら、これが出てきました。ずっと大切にしていたようです」
包みを開けると、中には錆びついた古いハーモニカが入っていた。
工房に戻った俺は、父の記憶結晶の隣に、綾乃の約束の証であるハーモニカをそっと置いた。二つの人生は交わることなく終わった。だが、その魂は、確かに約束を果たし、それぞれの場所で輝いていたのだ。
俺は、父が遺した研磨機に、そっと手を触れた。冷たい金属の感触の奥に、父の不器用な愛情が伝わってくるようだった。
他人の記憶を磨くこと。それは、単なる作業ではない。失われた愛や、忘れられた想いを拾い上げ、今を生きる人々の心に、温かい光を灯すこと。父が、生涯をかけてやろうとしていたことの意味が、今、ようやく分かった気がした。
窓の外では、新しい一日が始まっていた。工房のドアベルが鳴り、新たな依頼人が、大切な人の記憶結晶を手に、そこに立っていた。
俺は、穏やかな気持ちで立ち上がる。その結晶を手に取り、優しい眼差しで、そっと見つめた。その輝きの奥にある、まだ見ぬ誰かの人生の物語に、心を寄せて。