恐怖の残響、あるいは未来の残像

恐怖の残響、あるいは未来の残像

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第一章 触れてはいけない記憶

柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、手袋一枚の薄い布で隔てられていた。埃っぽい古道具屋『遠い日』の店主である彼は、客が持ち込む品々を決して素手で触らない。それは潔癖症だからでも、単なる用心深さからでもない。彼にとって、物に直接触れる行為は、他人の魂の暗部に、土足で踏み込むようなものだったからだ。

湊には、生まれつきの呪いがあった。物に触れると、その持ち主が経験した最も強烈な感情、とりわけ「恐怖」の記憶を、まるで自分の体験であるかのように追体験してしまうのだ。錆びた鋏に触れれば指を切断する激痛とパニックが、古い人形に触れれば持ち主だった少女が見た押入れの闇が、彼の精神を容赦なく侵食する。だから湊は、世界から触覚を奪い、心を閉ざして生きてきた。

その日も、湊は革の手袋越しに、年配の女性が持ち込んだ古びた銀の懐中時計を検分していた。繊細な彫刻が施された美しい品だったが、長針が歪み、時を刻むことをやめて久しいようだった。

「祖父の遺品なんですけどね、価値が分からなくて」

女性がそう言った瞬間、湊の手が滑った。手袋の指先がめくれ、冷たい金属の感触が、彼の薬指の皮膚を直接撫でた。

――閃光。

世界が反転した。古道具屋の柔らかな午後の光は消え失せ、鼻をつくのは黴と湿った土の匂い。視界はほとんど闇に閉ざされ、コンクリートの壁に囲まれた狭い地下室のような場所に立っていた。湊の身体ではない。華奢な肩、震える細い指。これは、若い女の身体だ。

「……ひっ」

自分の喉から漏れたとは思えない、か細い悲鳴が響く。心臓が鳥のように胸の中で暴れ、全身の毛が逆立つほどの恐怖が背筋を駆け上った。

遠くで、重い鉄の扉が軋む音がした。

そして、ゆっくりと、引きずるような足音が近づいてくる。一つ、また一つと、絶望の拍子を刻むように。

(見つかる、見つかる、見つかる、見つかる!)

声にならない絶叫が、頭蓋の内側で木霊する。逃げ場はない。息を殺し、闇に溶け込もうと壁に身体を押し付けるが、無駄だと魂が知っている。足音はすぐそこまで迫り、腐臭を帯びた生温かい息が、首筋にかかるのを感じた――。

「お客さん? 大丈夫ですか、顔色が……」

現実の声に引き戻され、湊は激しく息を吸い込んだ。目の前には、心配そうに眉を寄せた女性客の顔がある。自分の額には、びっしょりと冷たい汗が浮かんでいた。

「……いえ、少し眩暈が。この時計、素晴らしい品ですね。ぜひ、お譲りいただけますか」

湊は動揺を押し殺し、震える手で札束を差し出した。女性は提示された額に驚きながらも、満足げに頷いて店を出ていった。

一人残された店内で、湊はカウンターの上に置かれた銀の懐中時計を睨みつけた。止まった時計の針が、まるで奈落への入口を指し示しているように見えた。まただ。また、誰かの絶望に触れてしまった。だが、今回の恐怖はどこか違っていた。あまりにも生々しく、鮮烈で、まるでまだ終わっていない物語のように、彼の心にまとわりついて離れなかった。

第二章 過去からの呼び声

その夜、湊は店の明かりを落とし、一人カウンターの前に座っていた。目の前には、あの懐中時計が静かに横たわっている。昼間に見たビジョンの残滓が、店の隅の暗がりに潜んでいるようで、落ち着かなかった。知らなければよかった。触れなければよかった。いつもならそう思い、記憶の蓋を無理やり閉じてしまう。だが、なぜかこの時計だけは、そうすることができなかった。あの地下室の闇に取り残された、名も知らぬ女性の恐怖が、湊の良心を掴んで揺さぶるのだ。

彼は意を決して手袋を外し、冷たい時計をそっと掌で包み込んだ。

再び、世界が闇に沈む。

今度のビジョンは、より長く、鮮明だった。地下室の壁には無数の引っ掻き傷があり、その一つが奇妙な鳥の形をしていることに気づく。床に転がる空のペットボトル。遠くから、微かに聞こえる電車の通過音。そして、あの引きずるような足音と、不気味な息遣い。追ってくる「何か」の姿は見えない。だが、その圧倒的な悪意と執着が、肌を粟立たせる。女性の思考が流れ込んでくる。『ごめんなさい、ごめんなさい』という謝罪と、『誰か助けて』という悲痛な祈り。その絶望は、湊自身のものとして胸を抉った。

意識が戻った時、湊の頬を涙が伝っていた。これまで幾度となく他人の恐怖を味わってきたが、涙を流したのは初めてだった。これは単なる過去の記憶ではない。まだ救えるかもしれない、という根拠のない衝動が、彼の内側から突き上げてきた。

呪いとしか思えなかったこの能力で、人を救う? 馬鹿げている。そう頭では思いながらも、彼の身体は勝手に動き出していた。

湊はルーペを手に取り、懐中時計を隅々まで調べた。裏蓋に、か細い筆記体で『S.Y.』というイニシャルと、一つの日付が刻まれているのを見つけた。『1998.10.26』。

二十年以上も前の日付だ。湊は翌日から、図書館に通い詰め、古い新聞のマイクロフィルムを漁った。そして、ついに一つの記事に辿り着く。

『女子高生、杉浦由紀さん失踪か。帰宅途中に行方不明』

日付は、1998年10月27日。時計に刻まれた日付の翌日だ。イニシャルも一致する。杉浦由紀(Sugimura Yuki)。間違いない。記事によれば、彼女は友人宅からの帰り道、自宅近くの山道で消息を絶ち、大規模な捜索にもかかわらず、何一つ手がかりは見つからなかったという。未解決事件として、人々の記憶から風化しつつある悲劇。

やはり、あのビジョンは彼女の最期の記憶だったのだ。湊の胸に、無力感と罪悪感が重くのしかかった。もう手遅れだ。自分にできることなど、何もない。そう諦めかけた時、湊はビジョンの中のある違和感を思い出した。

山中で失踪したはずの由紀が、なぜコンクリートの地下室にいたのだろうか。

第三章 歪む時間、重なる影

その日から、湊は何度も時計に触れ、ビジョンを反芻した。記憶の断片を繋ぎ合わせようとすればするほど、謎は深まるばかりだった。特に不可解だったのは、追体験を重ねるたびに、ビジョンが僅かに変化していくことだった。最初は気づかなかった地下室の壁の染みが、ある時はっきり見えたり、聞こえるはずのない自分の子供時代の鼻歌が、足音に混じって響いたりした。

そしてある時、湊は決定的なものを見てしまう。地下室の壁に刻まれた、あの奇妙な鳥の形の傷。それは、湊が幼い頃、当時住んでいた家の壁に、自分で描いた落書きと寸分違わぬ形をしていた。

なぜ? なぜ過去の失踪事件の記憶に、自分の個人的な記憶が混入する? 湊は混乱した。これは本当に杉浦由紀の記憶なのか。それとも、自分の精神が作り出した幻覚なのか。

答えの出ない問いに苛まれていたある午後、店のドアベルが鳴り、一人の若い女性が入ってきた。ショートカットがよく似合う、快活そうな印象の女性だった。

「すみません、古い万年筆なんですけど、買い取っていただけますか?」

彼女がカウンターに差し出した万年筆を見て、湊は息を呑んだ。それよりも、彼の視線は彼女の顔に釘付けになった。ビジョンの中で何度も見た、恐怖に歪むあの顔立ちに、生き写しだったのだ。

「あの、どうかしましたか?」

訝しげに問いかける彼女に、湊はかろうじて声を絞り出した。

「……失礼ですが、お名前は」

「篠田優奈(しのだ ゆうな)ですけど……」

S.Y.――。イニシャルが、頭の中で警鐘のように鳴り響いた。まさか。

湊は、自分の全身から血の気が引いていくのを感じた。恐る恐る、彼女が差し出した万年筆に手を伸ばす。その瞬間、指先が彼女の指に、ほんのわずかに触れた。

――閃光。闇。黴と土の匂い。

あの地下室だった。だが、流れ込んできたのは過去の記憶ではなかった。

(どうして、こんなことに。さっきまで、古道具屋さんにいたはずなのに)

それは、篠田優奈の、今まさに生まれつつある思考だった。

(あの店主さん、私の顔をじっと見てた。もしかして、あの人が……?)

違う! 違うんだ! 湊は心の中で叫んだが、声は届かない。ビジョンの中の優奈は、背後に迫る足音に気づき、絶望に顔を歪ませた。そして、彼女の視界の端に映った壁には、湊が子供の頃に描いた、あの鳥の落書きがはっきりと刻まれていた。

これは、過去の記憶などではない。

これから、彼女の身に起こるであろう出来事。

湊が追体験していたのは、杉浦由紀の死の記憶ではなく、篠田優奈がこれから体験する、未来の恐怖の記憶だったのだ。

懐中時計は、失踪した由紀の遺品などではなかった。おそらく由紀の親族から巡り巡って、優奈の祖母、そして優奈へと受け継がれた物に過ぎない。湊の能力は、持ち主の過去の恐怖だけでなく、その魂に刻まれた未来の恐怖をも読み取ってしまうのだ。呪いは、警告へとその姿を変えた。そして、その警告の期限は、刻一刻と迫っていた。

第四章 声なき声を救うために

我に返った湊は、目の前の優奈を呆然と見つめていた。彼女は何も知らずに、不思議そうな顔でこちらを見ている。言わなければ。このままでは、彼女はあの地下室に連れて行かれてしまう。

「あの、篠田さん。あなたは、近いうちに誰かに狙われる。危険が迫っています」

早口でまくし立てる湊を、優奈は完全に不審者を見る目で見た。

「はあ? 何を言ってるんですか、急に。気持ち悪い」

彼女は万年筆をひったくると、足早に店を出て行ってしまった。当然の反応だった。だが、湊は諦められなかった。初めてだった。呪いだと思っていたこの力が、誰かを救うための道標に見えたのは。人との接触を避け、孤独という殻に閉じこもっていた自分が、見ず知らずの他人のために、これほど心を突き動かされている。この衝動を、見過ごすことなどできなかった。

湊は店を飛び出し、思考を巡らせた。手がかりは、ビジョンの中の断片的な情報だけだ。黴臭い地下室、遠くに聞こえる電車の音、そして壁の鳥の落書き。

落書きが最大のヒントだった。あれは、湊が小学校低学年の頃まで住んでいた、古い借家のものだ。再開発でとっくに取り壊されたと思っていたが、もしかしたら。

湊は記憶の糸をたぐり寄せ、かつて住んでいた街へと向かった。景色はすっかり変わっていたが、電車の高架線だけは昔のままだった。その線路沿いを歩き、記憶の中の場所を探す。やがて、彼は立ち入り禁止のテープが張られた、一軒の廃工場を見つけた。まさか。

錆びついた扉をこじ開け、中に入る。黴と油の匂いが混じった空気が肺を満たした。工場の片隅に、地下へと続く階段があった。懐中電灯の光を頼りに降りていくと、そこにはビジョンと寸分違わぬ光景が広がっていた。コンクリートの壁、床に転がるゴミ、そして――壁に刻まれた、鳥の落書き。

ここだ。間違いない。湊は震える手でスマートフォンを取り出し、警察に通報した。同時に、優奈が万年筆を売りに来た際に記帳した連絡先に電話をかけた。

「信じられないかもしれない! でも、聞いてくれ! あなたは今すぐそこから離れるんだ!」

必死の説得に、電話の向こうの優奈は戸惑っていた。その時、彼女の短い悲鳴と、物音が聞こえ、通話が切れた。

間に合わなかったのか――。絶望が湊を襲ったその時、遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。

数時間後、湊は警察署で事情を聞かれていた。優奈は、以前から彼女にしつこく付きまとっていたストーカーの男に襲われ、まさにあの廃工場に連れ込まれる寸前だったという。湊の通報で駆けつけた警官が、間一髪で男を取り押さえたのだった。

数日後、優奈が『遠い日』にお礼を言いにやってきた。

「本当に、ありがとうございました。あなたが信じられないような警告をしてくれなかったら、私は……」

彼女は深々と頭を下げた。湊は、どう返事をしていいか分からなかった。ただ、彼女が無事だったことが、自分のことのように嬉しかった。

「お礼です。受け取ってください」

優奈が小さな包みを差し出す。湊は、無意識に、いつも彼と世界を隔てていた手袋を外した。そして、その素手で、彼女の手にそっと触れた。

流れ込んできたのは、恐怖ではなかった。

陽だまりのような温かさと、心からの感謝の気持ち。純粋で、清らかな感情が、乾ききっていた湊の心に、じんわりと染み渡っていく。他人の心に触れることは、必ずしも恐怖だけではないのだ。

湊は、初めて自分の能力を受け入れることができた。これは呪いではない。物に宿る、声なき声を聞くための力なのだ。

湊はこれからも、この古道具屋で生きていく。孤独だった彼の世界は、手袋を外したその手で、誰かの未来に触れることで、少しずつ色を取り戻していくのだろう。

店のカウンターに置かれた新しい品物を、湊は静かに手に取った。そしてゆっくりと目を閉じる。彼の表情には、もう恐怖の色はなかった。そこには、静かな決意と、世界に向けられた、かすかな優しさが浮かんでいた。

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