第一章 湿った土の香り
水野楓には、昔からの癖があった。それは、息をするように小さな嘘をつくことだ。相手を傷つけないため、その場を円滑に進めるため、あるいは単に、退屈な自分を少しだけ飾り立てるため。悪意はない。だから罪悪感も、すぐに霧散してしまう。
月曜日の昼休み、オフィスの給湯室で、同僚の美咲が弾んだ声で話しかけてきた。「水野さん、週末どうだった? どこか行った?」
楓は、マグカップにインスタントコーヒーを注ぎながら、頭の中で高速で架空の週末を組み立てた。本当は、二日間ずっとアパートの部屋で、積んでいた本を読んでいただけだ。しかし、そんな退屈な事実を口にするのは、なぜか憚られた。
「ああ、ちょっと遠出して。山奥に新しくできた古民家カフェに行ってきたの。すごく雰囲気が良くて」
口から滑り出た言葉は、我ながら完璧に思えた。美咲は「へえ、素敵! どこの山?」と目を輝かせる。楓は適当な地名を挙げ、窓から見える景色や、自家焙煎だというコーヒーの味について、もっともらしく語ってみせた。
その夜、楓は自室のベッドで微かな違和感を覚えて目を覚ました。気のせいだろうか。部屋の空気が、いつもよりひんやりと湿っている気がする。そして、どこからか、雨上がりの森のような、湿った土の匂いが漂ってくるのだ。
窓は固く閉まっている。換気扇も回していない。楓はベッドから起き上がり、裸足でフローリングを歩いた。匂いの元を探してたどり着いたのは、部屋の隅、本棚の裏の薄暗い空間だった。鼻を近づけると、確かにそこから匂いは強くなっている。そして、足の裏に、何かざらりとした感触があった。
スマートフォンのライトを点けて照らすと、楓は息をのんだ。床に、黒々とした土が少量こぼれ、その上に一枚、見慣れない広葉樹の枯れ葉が落ちている。
なぜ、こんなものが。密閉されたマンションの七階の部屋に?
楓はそれをティッシュで包んでゴミ箱に捨て、床を念入りに拭いた。きっと、ベランダから風で舞い込んできたのだろう。そう自分に言い聞かせたが、胸のざわめきは一向に収まらなかった。その夜、彼女は森の中を一人で彷徨う夢を見た。木の根に足を取られ、何度転んでも、出口は見つからなかった。
第二章 染み付いた道標
翌日から、怪異は楓の日常をじわじわと侵食し始めた。朝、洗面台の鏡を見ると、自分の肩に小さな蜘蛛が乗っている。慌てて払い落とそうとすると、それは幻のように消えた。昼休み、美咲に「そのカフェ、写真とか撮らなかったの?」と無邪気に聞かれ、咄嗟に「ごめん、スマホの充電が切れちゃってて」と、また新たな嘘をついた。その瞬間、オフィスの固定電話がけたたましく鳴り響いた。誰も出ようとしないので、楓が仕方なく受話器を取ると、向こうからは人の声ではなく、ザーッというノイズと共に、遠い沢のせせらぎのような音だけが聞こえてきた。
楓は確信し始めていた。この奇妙な出来事はすべて、あの日の嘘から始まっている。自分のついた些細な嘘が、現実世界に歪んだ染みを作っているのではないか。恐怖に駆られた楓は、美咲にすべてを打ち明けようと決心した。
しかし、いざ美咲を前にすると、言葉が喉に詰まって出てこない。「あの、週末のカフェの話なんだけど……」と言いかけたところで、美咲が「あ、そうだ! 来週、私も友達とその辺りに行こうと思ってるんだけど、何か目印とかあった?」と期待に満ちた瞳で尋ねてきた。
ここで「嘘だった」と言えば、彼女をがっかりさせるだけではない。変な人だと思われるかもしれない。その恐怖が、真実を告げる勇気を打ち砕いた。楓の口は、またしても勝手に動いていた。
「ええと……そうだ、確か、敷地の隅に古い井戸があったかな。石造りの、苔むした……」
そう言った途端、楓は自分の足元がじわりと濡れるのを感じた。見ると、デスクの床のカーペットが、まるで水を含んだスポンジのように、円形に濃い色に変わっている。そして、そこから生乾きの雑巾のような、黴臭い匂いが立ち上ってきた。
その日の帰宅後、アパートの部屋の惨状に、楓は声にならない悲鳴を上げた。リビングの中央、嘘をついた場所から水が染み出し、フローリングは黒ずんで歪んでいた。壁には、まるで巨大な樹木の根が這うような、不気味な染みが広がっている。それは、まるで一つの道を示しているようだった。部屋の隅の本棚の裏へ、あの最初に土と枯れ葉があった場所へと続く、おぞましい道標。
楓は震える手でスマートフォンを握りしめた。もう、ここにはいられない。この嘘を、どうにかして終わらせなければ。さもなければ、この部屋は、私の日常は、架空の森に丸ごと飲み込まれてしまう。
第三章 忘れられた万華鏡
恐怖のあまり、楓はネットカフェに逃げ込んだ。震える指で、自分が語った嘘の断片――山奥、古民家カフェ、石の井戸――を検索窓に打ち込んでいく。何でもいい、何か手がかりが欲しかった。もしかしたら、偶然にも似たような場所が実在するのかもしれない。そうすれば、この悪夢に説明がつく。
いくつもの観光サイトやブログを彷徨った末、彼女は一つのオカルト系の掲示板にたどり着いた。そこには、数年前に投稿された、ある都市伝説が記されていた。
『嘘喰いの森』
――その森の奥には、地図にないカフェがある。訪れることができるのは、森に「招かれた」者だけ。カフェは、客のついた嘘を糧にして、その姿を現す。嘘が具体的であればあるほど、カフェへの道は明確になる。ただし、代償がある。カフェにたどり着いた者は、最も大切な『何か』を森に置いてこなければならない。それは『忘れ物』と呼ばれ、その正体は、客が心の奥底にしまい込んだ『記憶』なのだという――
全身から血の気が引いた。罰せられているのではなかった。あの怪異は、私を罰するためではなく、私の嘘を「真実」にするために、私を森へ「招待」していたのだ。道標は、すでに部屋の中にくっきりと示されている。
絶望に打ちひしがれながら、楓は自分の人生を振り返った。なぜ、自分はこんなにも嘘をつく人間になってしまったのか。その答えは、あまりにも簡単に見つかった。十年前、病気で亡くなった妹、葵のことだ。活発で太陽のようだった妹。いつも楓の後ろをついて回り、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と慕ってくれた。その妹を失った喪失感は、楓の心に巨大な空洞を作った。その空洞を埋めるために、悲しみを覆い隠すために、彼女は小さな嘘を積み重ねるようになったのだ。『私は大丈夫』『もう悲しくない』『一人でも平気』。人生最大の嘘は、そこから始まっていた。
その時、ネットカフェの個室のブザーが鳴った。終了時間だろうか。しかし、楓は時間を延長した覚えはない。恐る恐るドアを開けると、そこには誰もいなかった。ただ、足元の床に、ぽつんと小さな何かが置かれていた。
それは、古びたプラスチック製の万華鏡だった。幼い頃、葵が宝物にして、片時も手放さなかったもの。楓が葵にプレゼントした、最初で最後の贈り物。
なぜ、これがここに? あれは、葵の棺に一緒に入れたはずだ。
楓はそれを拾い上げた。ひんやりとした感触が、指先から心臓に突き刺さる。覗き口から中を見ると、色とりどりのビーズが作る模様ではなく、ただ、暗く深い森の景色が、無限に続いているのが見えた。
万華鏡が、最後の道標だった。最も大切な記憶の象徴。嘘喰いの森は、楓の最大の嘘――妹を忘れて平気なフリをしていた嘘――を喰らいにきたのだ。
第四章 夜明けの告白
アパートに戻ると、部屋は完全に森の一部と化していた。床には苔が生え、壁には蔦が絡まり、湿った土と腐葉土の匂いが充満している。部屋の隅、本棚があった場所は、闇が渦を巻く洞穴のようになっていた。あれが、森への入り口だ。
楓はもう逃げなかった。恐怖はあった。しかし、それ以上に、一つの決意が彼女の心を支配していた。これは、向き合わなければならない儀式なのだと。嘘で塗り固めた自分自身との、そして、心の奥底に閉じ込めてきた葵の記憶との、決別のための。
彼女は、闇の入り口の前に静かに膝をついた。手には、あの万華鏡を握りしめている。
「ごめんなさい」
声は震えていたが、不思議と力強かった。
「葵……ごめんね。お姉ちゃん、ずっと嘘をついてた。あなたがいないのが寂しくて、悲しくて、どうしようもなかったのに、平気なフリをしてた。あなたを忘れたほうが楽になれるなんて、そんなひどいことを考えてた。もう、嘘はつかない」
彼女は、万華鏡をそっと闇の中へ置いた。
「あなたを忘れたりしない。ずっと、ずっと覚えているから。だから……もう、大丈夫」
言葉を終えた瞬間、部屋を吹き抜けていた冷たい風がぴたりと止んだ。渦を巻いていた闇は、まるで夜明けの霧が晴れるように、すうっと薄れていく。壁の蔦も、床の苔も、幻だったかのように消え失せ、見慣れたアパートの部屋が姿を現した。湿った土の匂いも、黴の匂いもどこにもない。
ただ、静まり返った部屋の中央、フローリングの上に、あの万華鏡だけがぽつんと残されていた。それはもはや不気味な道標ではなく、ただの懐かしい思い出の品に見えた。
楓はそれを拾い上げ、そっと胸に抱いた。頬を、熱い涙が伝っていく。それは恐怖の涙ではなかった。十年分の悲しみが、ようやく溶け出して流れていく、温かい涙だった。
翌朝、楓はオフィスで美咲を捕まえた。
「美咲さん、ごめん。週末のカフェの話、あれ、全部嘘だったの」
美咲は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに悪戯っぽく笑った。
「なーんだ、そうなの? じゃあ、水野さんが作った架空のカフェってことね。なんか、小説みたいで面白いじゃん」
そのあっけない反応に、楓は少し拍子抜けしたが、同時に、心の重荷がすっと下りるのを感じた。小さな真実を口にすることは、こんなにも簡単で、清々しいことだったのか。
楓の嘘つきな癖が、完全になくなったわけではない。しかし、彼女はもう、自分の心を偽るための嘘はつかないだろう。机の引き出しの奥に仕舞われた万華鏡は、時折、彼女に静かに語りかける。嘘は、時に人を森へ誘う。だが、真実は、いつだって人を夜明けへと連れ戻してくれるのだと。彼女の心に残ったのは、超常的な恐怖の記憶ではなく、失われた妹への愛おしさと、真実と共に生きていくという、ささやかで、けれど確かな希望の光だった。