第一章 色褪せた肖像画
古書店『滄海書林』の空気は、いつもインクと古い紙の匂いがした。埃をかぶった背表紙の森に囲まれ、窓から差し込む午後の光が、宙を舞う微細な塵をきらきらと照らし出す。店主の水島湊は、その静寂を愛していた。彼の世界は、物語の残骸と、忘れられた人々の囁きで満ちている。
その日、店のドアベルがちりん、と乾いた音を立てた。入ってきたのは、背中の曲がった小柄な老婆だった。彼女は店の中を見回すことなく、まっすぐに湊のいるカウンターへと歩み寄る。その手には、大切そうに布で包まれた何かがあった。
「あのう……」か細い声が、積年の埃を震わせる。「水島さん、でいらっしゃいますか」
湊は読んでいた文庫本から顔を上げ、静かに頷いた。老婆は安堵したように息をつくと、布の包みをそっと開いた。現れたのは、セピア色に変色した一枚の古い写真だった。そこには、軍服を着た若い男が、少し緊張した面持ちで写っている。
「この人を、覚えていてくれますか」
老婆の言葉は、懇願だった。彼女の目には涙が滲んでいる。湊は写真に視線を落とした。彼の特異な感覚が、写真の男の存在がこの世界から消えかけていることを告げていた。まるで、風に吹かれる蝋燭の炎のように、その輪郭が揺らぎ、薄くなっている。人々が彼を忘れ、彼にまつわる最後の記憶が、目の前の老婆の中にしか残っていないのだ。
湊には、死者を「記憶」し続けることで、その存在をこの世に繋ぎ止める力があった。人々が死者を忘れ、その魂が完全に「無」に還る――『第二の死』――のを、防ぐことができる。彼は、忘れられた魂たちが集う、孤独な灯台守だった。
「ええ、お預かりします」湊が答えると、写真の男の存在が、ふっと彼の意識の中に流れ込んでくるのを感じた。男の名前は健二。享年二十三。故郷の海が好きだったこと。そして、目の前の老婆――千代乃という名の少女を、心から愛していたこと。
「ああ、よかった……」千代乃は、皺だらけの手で目元を覆い、静かに泣き崩れた。「これで、あの子は一人じゃない……」
彼女が去った後、店には再び静寂が戻った。だが、湊にとっての静寂は、決して無音ではない。彼の心の中には、こうして引き受けた無数の死者たちが住み着いている。彼らの声なき声、満たされなかった想い、そして深い孤独が、絶えず湊の内側で共鳴していた。それは、彼の存在そのものを侵食する、終わりのない鎮魂歌だった。湊は窓の外に目をやった。空は高く、どこまでも青い。この美しい世界で、忘れられていくことの恐怖は、どれほどのものだろうか。彼は、それが自分の背負うべき使命なのだと、固く信じていた。
第二章 静寂の侵食
湊にとって、心の中の死者たちの囁きから解放される唯一の時間が、親友の夏樹と過ごす時だった。夏樹は湊の幼馴染であり、彼の特異な能力を知らない、ただ一人の心を許せる相手だった。
「また難しい顔してるぞ、湊」
そう言って、病院のベッドの上で夏樹が悪戯っぽく笑った。彼の腕には点滴の針が刺さり、陽光が差し込む病室の中でも、その顔色は紙のように白い。夏樹は、不治の病に冒されていた。医者から告げられた余命は、もう幾ばくもない。
「別に。この本の登場人物の気持ちを考えてただけだ」湊はぶっきらぼうに答えながら、夏樹のために持ってきた新刊をサイドテーブルに置いた。
「嘘つけ。お前は昔からそうだ。一人で全部抱え込もうとする」
夏樹の言葉が、ガラスの破片のように湊の胸に突き刺さる。抱え込んでいる。確かにそうだ。死者たちの孤独を、悲しみを、そして夏樹を失うことへの恐怖を。湊は、夏樹が死んでも、絶対に自分が忘れないと心に誓っていた。他の誰が彼のことを忘れ去ろうと、自分だけは永遠に記憶し続け、彼の存在をこの世に繋ぎ止める。それが、親友として彼にできる唯一の、そして最大の愛情表現だと信じていた。
「なあ、湊。俺がいなくなったら、お前、どうする?」
不意に、夏樹が静かな声で尋ねた。湊は言葉に詰まった。どうする? 決まっている。お前を忘れない。お前が一人にならないように、俺の心の中で生き続けさせる。だが、その言葉は喉の奥でつかえて出てこなかった。
「……ちゃんとうちの店、継げよ。お前の親父さんとの約束だろ」
「それもそうだな」夏樹は力なく笑い、窓の外に広がる街並みを見つめた。「でもさ、たまには思い出してくれたら嬉しいな。俺がいたこと。お前と馬鹿なことばっかりして笑ってたこと」
その横顔は、ひどく儚く見えた。湊は、夏樹の存在が、まるで陽炎のように揺らぎ始めているのを感じた。まだ生きているというのに。それは、彼自身の死期を悟った魂が、世界から離れ始めている兆候なのかもしれない。湊は、こみ上げてくる絶望感を押し殺すように、固く拳を握りしめた。大丈夫だ。俺がいる。俺がお前を、忘れさせはしない。その強い決意だけが、崩れ落ちそうな彼の心を支える唯一の柱だった。
第三章 墓守の告白
その夜、湊は悪夢にうなされた。心の中の死者たちが、一斉に彼に語りかけてくる。それはいつもの囁きではなかった。苦悶と、懇願と、そして微かな怒りが入り混じった、叫びにも似た合唱だった。
『もう、やめてくれ』
『解放してくれ』
『忘れられる安らぎを、我々に』
声の奔流の中で、ひときわはっきりと響いたのは、先日引き受けたばかりの、千代乃の夫・健二の声だった。
『灯台守よ。君の光は、我々を照らしはしない。ただ、永遠の闇に縛り付けるだけだ』
湊は暗闇の中で目を覚ました。全身が冷たい汗で濡れている。健二の声が、耳の奥で木霊していた。どういうことだ? 自分は彼らを救っているはずではなかったのか。忘れられる恐怖から、孤独から、守っているのではなかったのか。
『君は知らないのだな』健二の声が、再び心の中に響く。『我々死者にとって、忘れられることは恐怖ではない。それは、安らかな眠りにつくための、最後の扉なのだ。生への未練や後悔から解き放たれ、大いなる無に還るための、救済なのだ』
湊の全身から血の気が引いていくのが分かった。
『だが、君に記憶されている限り、我々はその扉をくぐることができない。生と死の狭間で、終わりのない黄昏に囚われ続ける。生きている者たちの世界をすぐそこに感じながら、決して触れることはできず、ただ孤独に苛まれる。君が良かれと思ってしていることは、我々にとって最も残酷な拷問なのだよ』
愕然とした。頭を鈍器で殴られたような衝撃。これまで自分が信じてきた全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。救いではなく、呪い。善意ではなく、拷問。彼は灯台守などではなかった。ただの、魂の墓守。それも、死者を安らかに眠らせるのではなく、墓の中から無理やり引きずり出し、生者の世界を見せつけ続ける、残忍な墓守だったのだ。
湊の脳裏に、夏樹の顔が浮かんだ。彼を永遠に記憶し続ける。そう誓ったばかりではなかったか。その誓いは、彼を救うためのものではなかったのか。違う。それは、夏樹を、愛する親友を、光のない永遠の牢獄に閉じ込めるという、あまりにも身勝手で、残酷な宣告だったのだ。
愛しているからこそ、覚えていたい。だが、本当に愛しているのなら、忘れてあげなければならない。
この矛盾は、湊の心を容赦なく引き裂いた。涙が、とめどなく頬を伝った。それは、自分の過ちに対する悔恨の涙か、それとも、これから下さなければならない、あまりにも辛い決断を思った絶望の涙か、彼自身にも分からなかった。
第四章 最期の選択
夏樹の容態が急変したという知らせは、冷たい雨が降る深夜にもたらされた。湊は傘も差さずに病院へと走り、無菌室のガラス越しに、生命維持装置に繋がれた親友の姿を見た。その魂の灯火は、今にも消え入りそうに弱々しく揺らめいていた。
特別な許可を得て、湊は夏樹のそばに座った。かさかさに乾いた彼の手を握ると、夏樹はゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや以前のような輝きはない。
「……みなと、か」掠れた声が、酸素マスクの下から漏れた。
「夏樹、俺だ。ここにいる」
夏樹は、何かを悟ったように、穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうな、湊。ずっと、友だちでいてくれて」
そして、最後の力を振り絞るように、こう続けた。
「もう、いいよ。……俺のこと、忘れてくれて、いいからな」
その言葉は、湊の心臓を抉った。まるで、彼の苦悩の全てを見透かしたかのような、優しすぎる刃だった。夏樹は、ゆっくりと目を閉じた。握っていた手から、力が抜けていく。心電図のモニターが、生命の終わりを告げる、無機質な直線を描いた。
夏樹の葬儀が終わり、数日が経った。人々が日常に戻るにつれて、夏樹の存在は世界から急速に色褪せていった。湊だけが、彼との思い出を、交わした言葉を、その笑顔を、鮮明に記憶していた。そして、感じていた。心の中に囚われた夏樹の魂が、静かに苦しみ始めているのを。生への未練と、死の孤独との間で、もがき始めているのを。
湊は決断した。古書店の奥、彼が引き受けた死者たちの肖像や遺品が並ぶ一室で、彼は目を閉じた。
まず、夏樹との思い出を、一つずつ手放していく。初めて一緒にカブトムシを捕りに行った夏の日の、土の匂い。高校の文化祭で、二人で夜通し準備をした時の、ペンキの匂い。喧嘩をして、何日も口をきかなかった時の、気まずい沈黙。そして、最期に彼がくれた、「ありがとう」という言葉の温もり。
それは、自らの魂をナイフで一片一片削ぎ落としていくような、壮絶な痛みだった。涙が止まらなかった。忘れたくない。この温もりを、失いたくない。だが、彼の魂を解放するためには、そうするしかなかった。夏樹の輪郭が、湊の中でゆっくりと溶けていく。やがて、その存在が完全に消えた時、湊の心には、ぽっかりと大きな穴が開いた。
彼は、その手を止めなかった。千代乃の夫、健二。名も知らぬ戦災孤児。事故で亡くなった若い母親。彼は、心の中に住まわせていた全ての死者たちを、一人、また一人と、忘却という名の安らぎへと送っていった。彼の灯台は、その役目を終えたのだ。
全てが終わった時、湊の世界からは、死者たちの囁きが完全に消え失せていた。残されたのは、どこまでも深い、がらんどうの静寂だった。それは絶望ではなかった。ただ、途方もない喪失感だけが、彼の全身を支配していた。
数年後、湊は変わらず『滄海書林』の店主を続けていた。彼はもう「記憶者」ではない。ただの人として、静かな日々を送っていた。
ある晴れた午後、店にやってきた小さな女の子が、本棚を眺める湊の顔を不思議そうに見上げて言った。
「おじさん、なんで泣いてるの?」
言われて初めて、湊は自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。彼は慌ててそれを拭う。なぜ涙が出たのか、彼自身にも分からなかった。
ただ、胸の奥深くに、何かとても大切で、温かいものを失ったような、甘く切ない痛みの余韻だけが、いつまでも消えずに残っていた。それは、愛した者たちを忘れることでしか示すことのできなかった、彼の愛の痕跡だったのかもしれない。