恐怖喰らいのソナタ

恐怖喰らいのソナタ

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第一章 蝕む靄

夜の公園は、湿った土と腐葉土の匂いが支配していた。街灯の頼りない光が、遊具の骸のような影を地面に長く引き伸ばしている。俺、柏木和樹(かしわぎかずき)は、その影に紛れるようにベンチに座り、世界の音量を絞っていた。ヘッドフォンからは何も流れていない。ただ、外界のざわめきを遮断するための、無音の壁だ。

その壁を、不意に鋭い何かが突き破った。音じゃない。それは、色と味を伴う感覚だった。視界の端、ブランコの近くに立つ女性の周りに、コールタールのような黒い靄が渦巻いている。靄は、焦げ付いた砂糖と錆びた鉄が混じったような、不快な味を舌の上に広げた。――「恐怖」だ。

俺の体質は、他人の恐怖を視認し、そして「食べて」しまう。呪いと呼ぶべきか、奇病と呼ぶべきか。医者にはもちろん、唯一の家族である母にさえ話したことはない。

女性は携帯電話を耳に当て、小刻みに震えている。その震えに呼応するように、黒い靄は濃度を増し、粘り気のある触手のように彼女に絡みつこうとしていた。見ているだけで、吐き気がこみ上げる。早くこの場を立ち去らねば。そう頭では分かっているのに、足は鉛のように重かった。

靄が、俺の存在に気づいたかのように、その先端をこちらに向けた。やめろ、来るな。心の中で叫ぶが、声にはならない。靄はゆっくりと、しかし確実に俺に引き寄せられていく。抗えない引力。それはまるで、空腹の獣が餌に引き寄せられるような、根源的な欲求だった。

ごくり、と喉が鳴る。意図せず、俺はそれを吸い込んでしまった。靄は抵抗なく俺の口から体内へと流れ込み、氷の破片となって食道を滑り落ちていく。

瞬間、視界が明滅した。

――路地裏の暗がり。壁に背を押し付けられた、若い女の顔。目の前には、ギラリと光るカッターナイフ。低い、獣のような唸り声。汗と安物の香水、そして血液の匂い。絶望が喉を締め上げ、声も出ない。死ぬ。殺される。

ビジョンは一瞬で消え、俺は公園のベンチに座ったまま、激しく咳き込んだ。胃の奥からせり上がってくる不快感に耐えながら女性の方を見ると、彼女はきょとんとした顔で辺りを見回していた。

「……あれ? なんだったんだろう、今の」

彼女の周りから、あれほど濃密に漂っていた黒い靄は、跡形もなく消え去っていた。まるで悪夢から覚めたかのように、彼女は首を傾げると、何事もなかったかのように夜道へと歩き去っていった。

後には、恐怖を「完食」してしまった俺だけが残される。胃の中には、他人の絶望が冷たい鉛となって沈殿していた。俺は安堵した彼女の代わりに、見知らぬ男にカッターナイフを突きつけられる悪夢を、今夜から毎晩見ることになるだろう。これが、俺の日常。他人の恐怖を糧とし、その残滓に苛まれ続ける、呪われた日常だ。

第二章 共鳴する残滓

ここ数週間、奇妙なことが続いていた。俺が「食べる」恐怖の質が、妙に似通ってきたのだ。場所も時間もバラバラなのに、まるで同じ料理人が作ったコース料理のように、その「味」には共通の隠し味があった。それは、墨汁を一滴垂らした水のような、静かで底知れない冷たさ。そして、ビジョンの中に必ず現れる、定まらない黒い影。人とも獣ともつかない、輪郭のない何かが、恐怖の源泉としてそこに存在していた。

これまで俺は、自分の能力を忌み嫌い、人との接触を極力避けてきた。恐怖を食べてしまうことは、相手を一時的に救うことになっても、俺自身を蝕むだけの行為だったからだ。だが、この奇妙な共鳴は、俺の中に眠っていた微かな好奇心を刺激した。この影の正体は何だ? なぜ、これほど多くの人々に同じ恐怖を植え付けている?

俺は初めて、自分の意志で「恐怖」を探し始めた。忌まわしい食事を、自ら求めるようになったのだ。人混みの中へ飛び込み、怯える人を探し、その恐怖を味わう。それは、毒だと知りながら毒を口にするような、倒錯した行為だった。

「ごちそうさま」

心の中で呟きながら、俺はまた一つ、恐怖を食べた。予備校の帰りに怯えていた男子学生のものだ。ビジョンが流れ込む。――深夜の自室。窓の外に、あの黒い影が立っている。顔はない。手足もない。ただ、そこにあるという圧倒的な存在感だけが、彼の心を凍てつかせていた。

これで五人目だ。全員が、同じ黒い影に怯えていた。

調査と呼ぶにはあまりに拙い追跡の末、俺は一つの共通点に気づいた。彼らが恐怖を感じる直前、必ず近くに「ある花」が咲いていたのだ。月下美人によく似た、夜にだけ咲く白い花。その花の甘い香りが漂う場所で、人々は影を見る。

俺の心はざわめいた。その花は、俺の家の庭にも咲いている。母が丹精込めて育てている花だ。まさか。嫌な予感が背筋を駆け上る。

家に帰り、母の様子を窺う。母はいつも通り、優しく微笑みながら「おかえり」と言った。だが、その笑顔の奥に、俺は微かな揺らぎを感じ取った。母は何かを隠している。何かを、酷く恐れている。

しかし、奇妙なことに、母の恐怖だけは、俺には「食べられなかった」。彼女の周りには、まるで防護壁でもあるかのように、靄が発生しないのだ。それは俺の能力の根幹を揺るがす、初めての例外だった。なぜだ。なぜ、母さんの恐怖だけは、俺の呪いの対象にならない? 謎は深まるばかりだった。俺は、自分の家族という最も身近な聖域に、得体のしれない恐怖の源流があることを予感し始めていた。

第三章 歪んだ祈り

庭に咲く白い花。その甘くむせ返るような香りが、今夜はひどく不吉に感じられた。俺は決心していた。母と対峙し、全てを問い質すことを。リビングに入ると、母は椅子に座り、窓の外の闇を静かに見つめていた。

「母さん、話がある」

俺の声に、母の肩がびくりと震えた。ゆっくりとこちらを向いたその顔は、俺の知らない母の顔だった。優しさの仮面が剥がれ落ち、深い疲労と、そして長年抱え込んできたであろう恐怖が刻まれていた。

「……気づいてしまったのね、和樹」

その声はか細く、諦めに満ちていた。

「最近、街で起きている奇妙な恐怖。あれは、俺に関係があるんじゃないのか? あの花も、黒い影も、全部」

母は目を伏せ、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、俺が完全に忘却していた、幼い日の記憶の扉を開く言葉だった。

俺が七歳の時、父は交通事故で死んだ。俺は、その瞬間を間近で見ていたらしい。血の匂い、砕ける金属音、父の最後の表情。その凄惨な記憶は、幼い俺の心を完全に破壊しかけた。毎晩悪夢にうなされ、叫び声をあげ、食事も喉を通らなくなった。

「私は……私は、あなたを失うのが怖かった。夫を失い、あなたまで心を病んでしまったら、私はどうすればいいのか。だから、祈ったのよ。毎晩、毎晩……あの花の前で」

母は庭を指さした。あの白い花。

「『どうか、この子の恐怖を、私が全て引き受けられますように』って。でも……神様は、私の祈りを聞き入れてはくださらなかった」

母の祈りは、聞き入れられなかったのではない。歪んで、反転して、成就してしまったのだ。

「ある朝、あなたが突然、けろりとした顔で『おなかすいた』って言ったの。あんなに怯えていたのに。私は奇跡だと思った。でも、違った……。私の祈りは、『この子が、世の中のあらゆる恐怖を食べてくれますように』という呪いになってしまったのよ」

頭を殴られたような衝撃。俺の能力は、生まれつきなんかじゃなかった。父の死のトラウマから俺を救おうとした、母の必死の祈りが生み出した、歪んだ奇跡――呪いだったのだ。

「街の人たちが怯えていたあの黒い影は……あれは、私が作り出したものなの」

母は泣きながら告白した。俺の呪いの器が、長年溜め込んできた恐怖で満杯になり、溢れ始めていることに彼女は気づいていた。俺が壊れてしまうことを恐れた母は、再び祈ったのだ。「この子の器から、少しでも恐怖が減りますように」と。その祈りが、俺の中に溜まった恐怖の残滓を具現化させ、黒い影として街に解き放ってしまった。

人々が感じていた恐怖は、元を辿れば、全て俺が過去に食べた恐怖のかけらだったのだ。だからこそ、同じ質感をしていた。

「じゃあ、母さんが怯えていたのは……」

「あなたが壊れてしまうことよ」

母の答えは、最後のピースを嵌めた。俺が母の恐怖を食べられなかった理由。それは、彼女の恐怖が「俺自身」に向けられたものだったからだ。俺の能力は、決して俺自身を傷つけることはない。それは、呪いの中に残された、母の祈りの唯一の残滓だったのかもしれない。

俺は、自分の足元が崩れ落ちていくのを感じた。俺を蝕んできた呪いは、俺を守ろうとした母の愛情そのものだった。世界で最もおぞましいものが、世界で最も美しいものから生まれていた。その矛盾が、俺の心をきつく締め付けた。

第四章 祝福の味

真実の重圧に、息が詰まる。母は、俺の目の前でただ泣きじゃくっていた。長年の罪悪感と恐怖を、ようやく吐き出すかのように。俺は彼女を責めることができなかった。歪んではいても、それは紛れもなく、息子を想う母の愛だったからだ。

憎むべき呪いだと思っていたものは、形を変えた愛の証明だった。俺は孤独ではなかった。ずっと昔から、母の祈りに守られ、そして縛られていたのだ。

もう、逃げるのはやめよう。この能力から、母の愛から、そして自分自身の運命から。

俺はゆっくりと母の前に膝をつき、その震える手を取った。

「母さん」

顔を上げて。そう言うと、母は涙に濡れた瞳で俺を見上げた。

「もう、一人で怯えなくていい。母さんの恐怖も、俺が食べるよ」

それは、俺が自分の意志で、初めて誰かのためにこの力を使おうと決意した瞬間だった。母を苦しめる「俺が壊れることへの恐怖」を、俺自身が引き受ける。それが、俺にできる唯一の恩返しであり、贖罪だった。

母は首を横に振った。「だめよ、和樹。あなたまで壊れてしまう」

「大丈夫」

俺は、静かに、しかし力強く言った。「これはもう呪いじゃない。俺が選んだ、俺の力だ」

俺は目を閉じ、意識を集中する。母の心の中に渦巻く、俺への恐怖と愛情。それは、これまで食べてきたどの恐怖とも違っていた。コールタールのような黒い靄ではない。冷たい鉛でも、ガラスの破片でもない。それは、悲しいほどに温かい、淡い光を放つ粒子だった。

ゆっくりと、その光を吸い込む。

口の中に広がったのは、鉄の味ではなかった。それは、しょっぱくて、温かい味がした。まるで、母の涙そのものを味わっているかのようだった。苦しくて、切なくて、そして、どうしようもなく愛おしい味。

ビジョンは流れ込んでこなかった。代わりに、俺の体の中に、温かい何かがじんわりと染み渡っていく。それは、失われた父の記憶の隙間を、そして呪いに蝕まれた心の空洞を、そっと満たしていくようだった。

目を開けると、母は穏やかな顔で微笑んでいた。その顔から、長年彼女を縛り付けてきた恐怖の影は消え去っていた。

俺の呪いが解けたのかどうかは、分からない。明日になればまた、街角で他人の恐怖を食べてしまうのかもしれない。だが、確かなことが一つだけある。俺はもう、この力を憎んではいない。恐怖を食べるのではない。その人の悲しみや苦しみを、愛と共に「受け入れる」。そうすれば、それは呪いではなく、祝福に変わるのかもしれない。

庭の白い花が、夜風に揺れて甘い香りを放っている。それはもう、不吉な香りではなかった。歪んだ祈りが残した、家族の愛の香りだった。俺は、このしょっぱい祝福の味を胸に、明日からを生きていく。恐怖と共に、しかし、決して一人ではなく。

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