第一章 七日前の亡霊
結城湊の日常は、古紙とインクの匂いに満たされていた。神保町の裏路地に佇む古書店『時雨堂』の店主である彼は、本の世界に埋没することで、現実の人間関係から距離を置いていた。三十歳を過ぎてもなお、彼の心は分厚いカバーに覆われた古書のように、固く閉ざされていた。
その静寂が破られたのは、湿った土の匂いが強くなる、梅雨入り間近の月曜日のことだった。閉店後、店の裏手にある小さな坪庭で、彼は「それ」を発見した。
人間だったもの。男。土に汚れ、無残に横たわっている。湊は息を呑んだ。恐怖よりも先に、奇妙な既視感が全身を駆け巡った。くたびれたジーンズ、色褪せた灰色のパーカー。そして、恐る恐る顔を覗き込み、彼は絶句した。
それは、自分自身だった。
血の気を失い、蝋のように白い肌。見開かれたままの、光のない瞳。それは間違いなく、七日後の未来に殺された結城湊の姿だった。なぜ七日後だと分かったのか、理屈では説明できない。だが、魂がそう叫んでいた。胸に目をやると、パーカーの生地が焼け焦げ、奇妙な渦巻き模様の焼き印が、皮膚にまで達しているのが見えた。
胃の底からせり上がってくるものをこらえ、震える手で警察に電話した。だが、支離滅裂な彼の訴えは、悪質ないたずらとして処理された。当たり前だ。未来の自分の死体を見つけた、などと誰が信じるだろう。
絶望の中、湊は屍を放置して店に逃げ帰り、鍵をかけて震え続けた。夜が明け、恐る恐る坪庭を覗くと、屍は跡形もなく消えていた。夢だったのか。そう思いかけた火曜日の夕方、それは再び現れた。
昨日と寸分違わぬ場所に、同じ姿で。だが、変化があった。昨日よりも、ほんのわずかに傷が浅い。胸の焼き印の焦げ付きが、心なしか薄れている。湊は理解した。この屍は、時間を遡っているのだ。昨日は「七日後の死体」、今日は「六日後の死体」。死の瞬間が、一日、また一日と、確実に湊自身に近づいてきている。
残された時間は、あと六日。湊は、誰にも頼れない孤独な捜査を開始することを決意した。未来の自分を殺す犯人を、この手で見つけ出すために。それは、これまで他者から逃げ続けてきた彼にとって、あまりにも過酷な戦いの始まりだった。
第二章 逆行する手がかり
屍は、湊の絶望を嘲笑うかのように、毎日律儀に現れた。水曜日、五日後の屍。木曜日、四日後の屍。それは、死へと至る一本のフィルムを、逆再生で見せられているかのようだった。
湊は恐怖と戦いながら、毎日現れる「自分」を観察し続けた。それは、彼が生まれて初めて、自分自身と真剣に向き合う時間でもあった。時間を遡るにつれて、屍の状態は少しずつ「生」に近づいていく。最初は固く握られていた拳が、三日後の屍ではわずかに開いており、その指先がインクで汚れていることに気づいた。万年筆のインクだ。湊は普段、ボールペンしか使わない。
彼は自分の記憶の棚を必死にまさぐった。万年筆を使う知人。疎遠になっていた兄の顔が浮かんだ。兄、翔太は文筆家で、万年筆を愛用していた。数年前、些細なことで口論して以来、一度も会っていない。兄が自分を殺すほどの動機があるとは思えない。だが、他に手がかりはない。
湊は意を決し、数年ぶりに兄の住むアパートを訪ねた。インターホンを鳴らすと、憔悴しきった顔の翔太が現れた。
「湊……どうしたんだ、急に」
兄の部屋は荒れ果て、酒の匂いが立ち込めていた。湊が来訪の理由を告げられずにいると、翔太が先に口を開いた。
「お前、何か隠してないか? 最近、おかしな夢を見るんだ。お前が……誰かに責められている夢を」
兄の言葉に、湊は動揺を隠せなかった。屍のことは言えず、曖昧に言葉を濁してその場を去ることしかできなかった。だが、帰り際に見たテーブルの上には、インクの染みがついた原稿用紙と、一本の万年筆が置かれていた。疑念が黒い染みのように心に広がる。
金曜日、三日後の屍。そのポケットが不自然に膨らんでいるのに気づいた。震える手で探ると、中から一枚のレシートが出てきた。近所の喫茶店のものだ。日付は、湊の「死の三日前」にあたる。湊には全く記憶のない訪問だった。
喫茶店を訪れると、マスターが彼を覚えていた。
「ああ、結城さん。この間は、不動産屋さんと大変そうでしたね」
不動産屋? 聞けば、この一帯の再開発計画があり、立ち退きを拒否している『時雨堂』に、強引な地上げ屋が接触しているという。湊が先日会った男は、その不動産業者だったらしい。金に汚く、手段を選ばないことで有名な男だ。立ち退きを巡るトラブルが、殺意に発展したのか?
容疑者は二人になった。疎遠な兄と、強欲な不動産業者。だが、どちらも決定的な証拠には欠ける。何より、あの不気味な焼き印の意味が分からない。屍が一日ずつ過去に遡るたび、謎は深まるばかりだった。湊は、これまで避けてきた「他者」との関わりの中に、否応なく引きずり込まれていた。それは、古書の中に閉じこもっていた彼が、現実の物語の登場人物になった瞬間だった。
第三章 焼き印の真実
土曜日。死の運命まで、あと二日。坪庭に現れた屍は、これまでで最も生々しく、損傷も少なかった。だが、その胸の焼き印だけは、変わらずそこにあった。湊は、まるで磁石に引かれるように、その渦巻き模様に見入った。見れば見るほど、心の奥底に沈んだ何かが揺さぶられる。これは、ただの模様じゃない。どこかで、確かに見たことがある。
その瞬間、雷に打たれたように、記憶の扉が軋みながら開いた。
「秘密基地の……マーク……」
それは、湊が小学生の頃、兄の翔太と、そしてもう一人の親友と三人で作った秘密基地の入り口に描いた、合言葉のマークだった。木の板に、焼いた火箸を押し付けて作った、いびつな渦巻き模様。
湊は血の気が引くのを感じた。犯人は、やはり兄なのか? あの頃の思い出を汚すような、残忍な方法で――。違う。何かが違う。兄が、あのマークをこんな形で使うはずがない。
湊は、記憶のさらに奥深くへと潜っていった。秘密基地。夏の日差し。蝉の声。そして、親友の顔。そうだ、高槻渉(たかつき わたる)。いつも三人で、馬鹿なことばかりして笑っていた。渉はどうしたんだっけ? 中学に上がる頃、引っ越したんじゃなかったか?
いや、違う。湊の脳裏に、封印していた光景が鮮烈にフラッシュバックした。
雨で増水した川。秘密基地の近くの崖。バランスを崩した渉。差し伸べようとした、自分の小さな手。そして、届かなかった指先。助けを求める渉の最後の叫び。
湊は、その場に崩れ落ちた。忘れていたのではない。忘れようと、必死に蓋をしていたのだ。高槻渉は、あの崖から落ちて死んだ。そして、その事故の現場には、湊と、兄の翔太がいた。パニックになった湊を、兄は強く抱きしめて言ったのだ。「いいか、湊。お前は何も見ていない。渉は一人で遊んでいて、足を滑らせたんだ。分かったな?」と。
湊は、自分の罪を兄に被せ、記憶の底に沈めて生きてきたのだ。
その時、背後に人の気配がした。振り返ると、杖をついた老人が立っていた。見覚えのある顔。近所で暮らす、温厚な元教師。渉の父親、高槻さんだった。
「……思い出したかね、結城君」
彼の穏やかだった瞳は、底なしの悲しみを湛えていた。
「君を殺すつもりなど、ないよ。ただ、思い出してほしかっただけだ。あの子が、渉が、どんな顔で死んでいったのか。君が、何を忘れて生きているのかを」
屍は、幻覚だったのだ。高槻さんが調合した特殊なハーブの香りと、彼の専門である催眠療法が生み出した、湊の罪悪感の具現。
「あの屍はね、未来の君の死体じゃない。君が殺してしまった、過去の私の息子の姿であり、君自身の『死んでしまった心』の姿なんだよ」
第四章 金木犀の赦し
高槻さんの告白は、静かだった。そこには憎悪はなく、ただ、二十年近くも抱え込んできた、父親としての深い哀しみが満ちていた。彼は復讐を望んだのではない。ただ、忘れ去られた息子の死の真実を、そこにいた湊に、もう一度だけ直視してほしかったのだ。
「渉は、君たちを待っていた。あの日、川が増水していると知って、秘密基地のお宝を安全な場所に移そうと、一人で向かったんだ。君たちが来るのを信じて」
湊の頬を、熱い涙が伝った。逃げていたのは、罪の意識からだけではなかった。親友を失った悲しみそのものから、目を逸らし続けていたのだ。
「申し訳、ありませんでした……」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。湊は、高槻さんの前で深く、深く頭を下げた。それは、未来の死から逃れるための謝罪ではない。葬り去った過去と、友への、心からの贖罪だった。高槻さんは何も言わず、ただ静かに頷き、震える手で湊の肩に触れた。その温もりに、長い年月の間に凍てついていた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
翌日、運命の日曜日。坪庭に屍は現れなかった。代わりに、兄の翔太が『時雨堂』を訪れた。湊は、初めて自分の言葉で、全てを話した。事故の記憶、自分の卑劣さ、そして兄が一人で背負ってくれた重荷のこと。翔太は黙って聞き、そして静かに言った。
「お前を守りたかっただけだ。だが、それが逆にお前を苦しめていたんだな……。俺の方こそ、すまなかった」
兄弟の間にあった二十年近い空白が、その一言で埋められていく。
数ヶ月が過ぎ、季節は秋に移ろいだ。湊の古書店には、以前より少しだけ客が増えた。彼が、本の背表紙だけでなく、訪れる人の顔を見て話すようになったからだ。
店の窓を開けると、ふわりと甘い香りが流れ込んできた。高槻さんの家の庭に咲く、金木犀の香りだ。それは、亡くなった親友の渉が、一番好きだった香りだった。
湊はその香りを深く吸い込んだ。未来の死の幻影は消えた。しかし、彼の心には、過去の友の記憶が、あの焼き印のように決して消えることなく刻まれている。それはもはや、罪悪感の象徴ではない。失った友と共に、そして自分の過ちと共に、それでも前を向いて生きていくという、静かな誓いの証となっていた。
人生は、過ちを消し去ることはできない。だが、それとどう向き合い、未来へどう歩み出すかを選ぶことはできる。湊は、窓の外で揺れる金木犀を見つめながら、これから続くであろう自らの物語の、新しいページを静かにめくった。