第一章 沈黙の遺品
水上透の営む古物店『時のかけら』は、街の喧騒から切り離されたような路地裏にひっそりと佇んでいた。埃と古い木の匂いが混じり合った店内には、持ち主を失った品々が新たな主を待っている。透にとって、ここは世界から身を守るためのシェルターだった。彼には秘密があった。物に触れると、その持ち主が最後に抱いた強烈な記憶の断片――残響――が見えてしまうのだ。喜びや希望ならまだいい。しかし、彼の指先に流れ込んでくるのは、絶望や恐怖、後悔といった、魂の澱のような記憶ばかりだった。だから透は、人と深く関わることを避け、古物に囲まれて静かに生きていた。
その日、店のドアベルが乾いた音を立てた。入ってきたのは、喪服のような黒いワンピースを着た若い女性だった。長い髪が彼女の白い顔に影を落とし、どこか儚げな印象を与える。
「買い取っていただけるでしょうか」
彼女がカウンターにそっと置いたのは、銀製の古い懐中時計だった。繊細な彫刻が施された蓋は長年の使用で摩耗し、鈍い光を放っている。透は値踏みをするふりをしながら、無意識に手袋越しの指先を強張らせた。この能力が発現して以来、素手で他人の持ち物に触れることはほとんどない。
「拝見します」
透は慎重に懐中時計を手に取った。革の手袋越しでも、ひやりとした金属の感触が伝わってくる。その瞬間だった。
世界が反転した。
視界が真っ暗になり、冷たい水が全身にまとわりつく感覚が襲う。肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、耳の奥でゴボゴボと気泡の音が響く。もがこうとしても、何者かに右腕を強く掴まれて動けない。それは絶望的な力だった。引きずり込まれる。暗い水の底へ、永遠の静寂へ――。
「……っ!」
透は思わず時計をカウンターに落とした。カシャン、と硬質な音が店内に響く。息が荒くなり、心臓が肋骨を激しく打っていた。額には冷や汗が滲んでいる。
「大丈夫ですか?」
女性が心配そうに透の顔を覗き込む。彼女の瞳には、読み取れない深い翳りがあった。
「いえ……少し、眩暈が。この時計は、どなたのものです?」
「……亡くなった、祖父の形見です」
女性――美咲と名乗った――はそう言った。しかし、その声は微かに震えていた。透は、彼女が嘘をついていると直感した。あの記憶の断片は、老人の穏やかな最期などでは断じてない。あれは、暴力的な死の記憶だ。
「そうですか。……買い取らせていただきます」
透は相場より少し高い金額を提示した。美咲は何も言わず、ただ頷いて金を受け取ると、逃げるように店を出ていった。
一人残された店内で、透はカウンターに置かれた懐中時計を睨みつけた。裏蓋には、『E.S』というイニシャルが流麗な筆記体で刻まれている。これは誰だ? なぜ、美咲は嘘をついたのか? いつもなら、こんな厄介事には首を突っ込まない。だが、あの水の冷たさと腕を掴まれた絶望的な感触が、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。まるで、沈んでいった誰かが、助けを求めて透の腕を掴んでいるかのように。
初めて、透は自分の能力が指し示す謎を、解き明かしたいと強く思った。それは、静かな日常の終わりを告げる、危険な衝動だった。
第二章 刻まれたイニシャル
懐中時計の残響に囚われた透は、まるで人が変わったように調査にのめり込んだ。普段は店の奥に引きこもっている彼が、図書館に通い、古い新聞のマイクロフィルムを漁った。キーワードはイニシャル『E.S』と、水の記憶から連想される「溺死」や「失踪」。
数日が過ぎた頃、透の指先が一つの記事で止まった。三年前の秋、隣町の湖で起きた女性の失踪事件。榊エリナ、二十一歳。大学に通う傍ら、モデルとしても活動していた彼女は、ある日を境に忽然と姿を消した。警察の大規模な捜索にもかかわらず、彼女は見つからず、事件は未解決のまま風化しつつあった。榊エリナ――イニシャルは『E.S』。間違いない。
記事にはエリナの写真が添えられていた。生命力に満ちた笑顔。しかし、透にはその笑顔の奥に、何か追い詰められたような危うさが透けて見える気がした。記事を読み進めると、彼女の交友関係の項目に、一人の親友の名前が記されていた。
『……親友の、中村美咲さんは「エリナが悩みを抱えていた様子はなかった」と涙ながらに語り……』
中村美咲。時計を持ち込んできた、あの女性だ。
透の心臓がどくんと鳴った。美咲はなぜ、親友の形見を「祖父の物」だと偽ったのか。そして、なぜ今になって手放そうとしたのか。彼女が事件に関わっているのか? それとも、何かから逃げているのか?
透は時計の来歴をさらに探るため、懇意にしている時計職人の元を訪ねた。老職人はルーペを目に当て、懐中時計を丹念に調べると、興味深い事実を告げた。
「この時計は、一度ひどく壊れてるな。水に浸かったか何かでムーブメントが錆びつき、それを修理した痕跡がある。おそらく、ここ数年の話だ」
水に浸かった痕跡。透が見た残響と一致する。エリナは湖に落ち、その際に時計も水に浸かった。そして、誰かがそれを引き上げ、修理に出した。それは一体、誰なのか。
疑問は雪だるま式に膨れ上がっていく。透は、もう一度美咲に会うしかないと決意した。彼女が何かを隠しているのは明らかだ。真実を知るためには、彼女の嘘を暴かなければならない。
透は、古物商のネットワークを使い、美咲の現在の住所を突き止めた。アパートの前に立ち、インターホンを押す指が微かに震える。これは、いつもの彼ではない。他人の人生に、自ら足を踏み入れていく。扉の向こう側にある真実が、自分の人生をも変えてしまうかもしれないという予感を抱きながら、透は息を飲んだ。
第三章 偽りの記憶
ドアが開き、姿を現した美咲は透の顔を見て息を呑んだ。その表情は恐怖と驚きに彩られていた。
「なぜ、ここが……」
「話が聞きたいんです。榊エリナさんのことで」
透がその名前を口にした瞬間、美咲の顔から血の気が引いた。彼女は透を部屋に招き入れたが、その身体は小刻みに震えていた。
「あの時計は、エリナのものです」
美咲は観念したように語り始めた。「あの日、私はエリナと湖にいました。彼女は……ボートから落ちて……。私は助けられなかった」
彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。透は彼女を疑いの目で見つめていた。助けられなかった? あの残響は、誰かに腕を掴まれ、無理やり引きずり込まれる感覚だった。美咲が犯人なのではないか。
「嘘だ」透は低い声で言った。「あなたが彼女を突き落としたんじゃないんですか?」
「違う!」
美咲は叫び、咄嗟に透の腕を掴んだ。
その瞬間――再び、透の世界が暗転した。
だが、今度の記憶は違っていた。
冷たい水の中。必死に手を伸ばしているのは、自分(・・・・)だ。目の前で、エリナが水の底へと沈んでいく。その腕を掴もうとするが、指先が虚しく空を切る。「エリナ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」という悲痛な叫びが、自分の喉から迸る。それは、エリナを殺した犯人の記憶ではなかった。助けようとして、助けられなかった者の、絶望的な後悔の記憶だった。
透はハッと我に返った。目の前で美咲が泣きじゃくっている。彼女が犯人ではない。では、あの「腕を掴まれる」感覚は一体何だったのか? あれはエリナが感じた恐怖ではなかったのか?
混乱する頭の中で、一つの仮説が稲妻のように閃いた。
自分の能力は、「持ち主の最後の記憶」を見るものではないのかもしれない。
そうではなく、「その物に込められた、最も強い感情の記憶」を視る能力なのではないか。
そして、その記憶は、必ずしも持ち主本人のものではない。
エリナが湖に沈んだ後、親友である美咲が必死で彼女を探し、湖の底から懐中時計を見つけ出した。そして、修理に出した。エリナの死の瞬間の恐怖よりも、親友を助けられなかった美咲の後悔と絶望の念が、あまりにも強く時計に刻み込まれていたのだ。透が最初に見たのは、エリナの記憶ではなく、美咲の記憶だったのである。
透が腕を掴まれたと感じたのは、沈みゆくエリナが美咲の腕を掴んだからではなく、美咲がエリナの腕を掴もうとした、その瞬間の強烈な感触だったのだ。
「誰かが……いたんですね? あなたとエリナさんの他に」
透の問いに、美咲はビクリと体を震わせ、俯いたまま小さく頷いた。
「……言えなかった。怖くて……」
真実は、まだ闇の中に隠されていた。そして、その核心にいる人物は、美咲がどうしても庇わなければならない相手らしかった。透は自分の能力の本当の性質に気づいたことで、事件の構図が根底から覆るのを感じていた。犯人は別にいる。そして、その手掛かりは、まだあの懐中時計の中に眠っているはずだった。
第四章 残響の向こう側
透は店に戻り、再び銀の懐中時計を手に取った。今度は意識の向け方を変える。美咲の後悔の念ではなく、その奥にあるはずの、事件当日の「事実」そのものに集中する。革手袋を外し、冷たい金属の感触が直接肌に伝わるように、強く握りしめた。
目を閉じると、記憶の奔流が押し寄せてきた。だが、今度はそれに飲まれず、冷静に情景を観察する。
湖畔のボート乗り場。エリナと美咲が激しく口論している。
「どうして黙ってたの! あの人と、あんな関係に……!」
美咲がエリナを問い詰めている。エリナは泣きながら首を横に振っていた。
その二人の背後に、そっと近づく一つの影があった。穏やかな笑みを浮かべた、初老の男性。二人にとって、大学の恩師であり、父親のような存在だった男だ。
「やめなさい、二人とも」
男の声は穏やかだったが、その目には焦りの色が浮かんでいた。彼こそが、エリナと不適切な関係にあった人物だったのだ。それを知った美咲が、エリナを止めようとしていた。
口論は揉み合いに発展する。エリナがバランスを崩し、ボートから落ちそうになる。それを止めようとした男の手が、エリナの肩を強く押す形になった。
――ドボン。
水面に、絶望的な音が響いた。男は呆然と立ち尽くし、美咲は悲鳴を上げて湖に飛び込んだ。しかし、エリナの姿は暗い水の中へと消えていった。
これが、事件の真相だった。計画的な殺人ではない。秘密が露見することを恐れた男が引き起こしてしまった、過失致死。そして、恩師を信じていた美咲は、その事実を誰にも告げることができなかったのだ。
数日後、透は警察に匿名の電話をかけた。事件当日の状況、そして恩師である男の名前を告げた。あとは、警察が動くだろう。罪は正しく裁かれ、エリナの魂も、そして美咲の心も、少しは救われるかもしれない。
事件は解決へと向かう。だが、透の中で終わったのは事件だけではなかった。
彼は自分の能力を、ずっと呪いだと思っていた。他人の負の感情に触れる、忌まわしい力。しかし、今回初めて、その力が誰かの心を救う一助となった。美咲の後悔の記憶に触れたことで、彼は他人の痛みを本当の意味で理解した。それは、古物の澱んだ記憶に触れるのとは全く違う、生々しく、そして温かい手触りのある感触だった。
透は店の扉に『本日休業』の札をかけた。革の手袋を外し、素手のまま外に出る。降り注ぐ太陽の光が眩しい。雑踏の中を歩き、すれ違いざまに誰かの肩が軽く触れた。
その瞬間、流れ込んできたのは、見知らぬ誰かの記憶。
――生まれたばかりの我が子を抱きしめる、温かく、どうしようもないほどの幸福感。
それは一瞬の出来事だったが、透の胸に確かな温もりを残した。彼は驚いて立ち止まり、そして、ゆっくりと口元に微かな笑みを浮かべた。
この力は、呪いではないのかもしれない。
世界には、絶望や後悔と同じくらい、数え切れないほどの喜びや愛が満ち溢れている。この力は、人々が抱える無数の物語――その残響に触れるための、窓なのかもしれない。
透は、もう一度前を向いて歩き出した。これからどこへ向かうのか、彼自身にもまだ分からなかったが、もう孤独なシェルターに引きこもることはないだろう。彼の世界は、今、始まったばかりだった。