第一章 触れてはいけない記憶
神保町の古書店「天牛堂」の奥、埃とインクの匂いが染みついた一角が、水野楓の聖域であり、同時に檻でもあった。彼女は、物に宿る人々の残留思念――特に、強烈な感情を避けるようにして生きてきた。触れるだけで、他人の感情が濁流のように流れ込んでくる。喜びや悲しみならまだいい。だが、最も耐え難いのは「恐怖」だった。
その日、店主が買い取ってきた雑多な品々の中に、それはあった。茶色い革で装丁された、小ぶりな日記帳。何気なく指先が触れた瞬間、世界が反転した。
――寒い。肌を削ぐような冷気が、ワンピースの薄い生地を通して骨まで染みる。ここはどこだ。薄暗い、カビ臭い部屋。窓は板で打ち付けられ、外の光は細い隙間から埃を照らし出す筋となって差し込むだけ。心臓が鳥かごの中で暴れる鳥のように、激しく胸を打っている。ドクン、ドクン。それは自分の鼓動ではない。もっと幼い、小さな女の子の鼓動だ。
「……だれ……?」
声を発したのは楓の唇だったが、響いたのは少女のか細いテノールだった。恐怖に震え、涙で滲んでいる。視線を巡らすと、部屋の隅の暗闇が、まるで生き物のように蠢いて見えた。そこから、何かが来る。得体の知れない、悪意に満ちた何かが。
「いや……来ないで……!」
少女の絶叫が、楓自身の喉を引き裂いた。たまらず日記帳から手を離すと、幻覚は霧散した。しかし、感覚だけが生々しく残る。肌に残る冷気の感触、鼻腔にこびりつくカビの匂い、そして耳の奥で鳴り響く、少女のものであり自分のものだった心臓の音。
「また、か……」
楓は震える手で胸を押さえた。この「呪い」は、物心ついた頃から彼女を苛んできた。他人の恐怖を、まるでVR映像のように五感で追体験してしまう呪い。だから楓は、誰かが長く、深く愛用した物に触れることを極端に恐れた。古書店での仕事は、彼女にとって常に薄氷を踏むようなものだった。
だが、今回は違った。今まで経験したどんな恐怖よりも鮮明で、強烈だった。日記を手放しても、少女の絶望が残り火のように燻り、楓の心を焦がし続ける。
彼女は恐る恐る、もう一度日記帳に手を伸ばした。表紙には、か細い文字で『サキの日記』と記されている。ページをめくる。そこには、子供らしい丸文字で、日々の出来事と、日に日に増していく恐怖が綴られていた。
『影男が、またドアをひっかいてる。あの音、いやだ』
『パパとママは、わたしの言うことを信じてくれない。「悪い夢を見たのね」って』
『今日は、影男がわたしの名前を呼んだ。とっても低い声だった』
楓は、サキという見知らぬ少女の恐怖を追体験しながら、同時に奇妙な使命感に駆られていた。この子を、この恐怖から救わなければ。たとえそれが、過去の出来事だとしても。日記は、単なる紙の束ではなかった。それは、救いを求める魂の、悲痛な叫びそのものだった。
第二章 影を追う少女
サキの日記は、楓を過去へと引きずり込む呪詛の書となった。ページをめくるたびに、楓はサキになった。影男に怯え、両親に信じてもらえず、次第に光のない部屋に心を閉ざしていく少女の孤独を、我がことのように感じていた。
『どうして誰も、わたしのことが見えないの?』
その一文に触れた時、楓は自分の頬を涙が伝うのを感じた。それはサキの涙であり、同時に楓自身の涙でもあった。他人との深い関わりを避け、自分の苦しみを誰にも打ち明けられずに生きてきた楓にとって、サキの孤独は鏡のように自分を映し出していた。
楓は仕事を休み、日記に記された断片的な情報を頼りに、サキの足跡を追い始めた。古い地名、公園の名前、時折出てくる友人らしき子の名前。それらを糸口に、図書館で古い地図や住宅地図を漁り、インターネットで情報を検索する。まるで探偵のようなその行為は、彼女を心身ともに消耗させた。
夜、ベッドに入ると、サキが見た悪夢が楓の夢に侵食してくる。暗い部屋の隅で蠢く影。ドアを引っ掻く、爪のような乾いた音。自分の名前を呼ぶ、地の底から響くような声。飛び起きては、それが自分の部屋ではないことを確認し、荒い息を整える。食事も喉を通らなくなり、楓の顔からは急速に色が失われていった。
それでも、彼女は調査を止めなかった。やめられなかった。サキの恐怖を追体験するたびに、楓の中には「彼女を理解できるのは自分だけだ」という、歪んだ共感が膨れ上がっていく。それはもはや使命感ではなく、執着に近い感情だった。
数週間の調査の末、ついに楓は一つの住所を突き止めた。日記に書かれていた風景の描写と、古い地図が一致したのだ。都心から電車を乗り継いだ先にある、寂れた住宅街。その一番奥に、蔦の絡まる古い洋館が、まるで時間の流れから取り残されたようにひっそりと佇んでいた。
心臓が嫌な音を立てる。ここだ。サキが恐怖に囚われていた場所。日記の最後のページは、こう締め括られていた。
『もう、どこにもにげられない。影男が、部屋のなかにいる』
楓は錆び付いた門扉を押し開け、屋敷へと続く小道に足を踏み入れた。一歩進むごとに、肌を刺すような冷気が濃くなっていく。これはサキが感じていた冷気だ。楓は、これから起こるであろう恐ろしい追体験を覚悟しながらも、固く拳を握りしめた。サキの物語の結末を、そしてこの呪いの連鎖を、終わらせるために。
第三章 共鳴する魂
屋敷の扉は、軋むような音を立てて簡単に開いた。内部は厚い埃に覆われ、陽の光も届かない闇が沈殿している。楓はスマートフォンのライトを頼りに、一歩、また一歩と中へ進んだ。カビと湿気の匂いが、日記に触れた時の記憶を呼び覚ます。
二階へ続く階段を上り、廊下の突き当りにある部屋の前に立った。ドアノブに手をかけた瞬間、これまでで最も強烈な追体験が楓を襲った。
――世界が暗闇に閉ざされる。いや、これは目隠しをされているのだ。手足は椅子に固く縛り付けられている。サキの体だ。しかし、感じる恐怖はサキのものだけではなかった。すぐそばに、もう一つの巨大な恐怖が存在していた。それは、サキに向けられたものではない。もっと深く、絶望的な恐怖。
「サキ、大丈夫だ。パパがここにいる。お前は、外の汚れた世界から守ってあげるんだ」
震える男の声。影男の声だ。だが、その声色には狂気だけでなく、悲痛なほどの愛情が滲んでいた。
次の瞬間、楓の視界は分裂した。片方では、椅子に縛られ怯えるサキが見え、もう片方では、そのサキを涙ながらに見つめる父親の姿が見えた。父親の目には、サキの背後に広がる「外の世界」が、おぞましい怪物や、病原菌の渦巻く地獄のように映っている。彼は精神を病んでいたのだ。妻を病で亡くして以来、一人娘のサキを失うことへの異常な恐怖に囚われ、彼女を「守る」ために部屋に閉じ込めていた。彼が「影男」だったのだ。
彼が発する、娘を失うことへの「恐怖」。そしてサキが感じる、父親への「恐怖」。二つの巨大な恐怖がこの部屋で共鳴し、空間そのものを歪めるほどの強力な残留思念となっていた。
そして、その二つの魂の叫びが奔流となって楓に流れ込んだ時、固く閉ざされていた彼女自身の記憶の扉が、木っ端微塵に砕け散った。
――幼い楓が、祖母の家で遊んでいる。遠くでサイレンの音が聞こえる。その時、感じた。今まで感じたことのない、二つの巨大な感情の爆発。一つは、ハンドルを握りしめ、迫りくるトラックを前にした父親の絶望的な恐怖。もう一つは、助手席で楓の名前を叫ぶ、母親の引き裂かれるような悲しみと、娘を遺していくことへの恐怖。
そうだ。私の両親は、事故で死んだ。私はその時、離れた場所にいたはずなのに、二人の最期の恐怖と絶望と愛情を、この「共感」の能力で同時に体験してしまったのだ。その体験があまりに強烈すぎて、私の心はそれを封印し、同時に、他人の強い感情に触れることを本能的に避けるようになった。この呪いは、両親の死から始まっていた。サキの日記は、その古傷をこじ開ける引き金に過ぎなかったのだ。
「ああ……ああ……!」
楓はその場に崩れ落ちた。体験していたのは、サキの恐怖だけではなかった。父親の歪んだ愛と恐怖でもあった。そして何より、自分自身の、忘却の彼方に追いやっていた両親の最期の叫びだった。呪いだと思っていたこの能力は、愛する者の魂の叫びを聞くための、あまりにも残酷な共感の力だった。
第四章 呪いの名は愛
涙が枯れるまで泣き続けた後、楓はゆっくりと顔を上げた。部屋を満たしていた、肌を刺すような冷気が、心なしか和らいでいるように感じられた。二つの恐怖の残響はまだそこにあったが、もう一方的に彼女を苛む濁流ではなかった。
楓は、目に見えないサキと、その父親の魂に向かって語りかけた。
「怖かったね、サキちゃん。独りで、寂しかったね」
そして、父親の魂にも。
「あなたも、怖かったんですね。失うことが。……でも、あなたは彼女を、愛していたんですね」
楓は逃げずに、二つの魂が遺した恐怖と、その根底にある悲しい愛を、全身で受け止めた。すると、固く強張っていた空間がふっと緩み、まるで長い間閉ざされていた窓が開け放たれたかのように、温かい光が差し込んでくるような感覚がした。澱んでいた空気が流れ、浄化されていく。
呪いだと思っていた能力は、他者の魂の痛みに寄り添い、その叫びを聞くためのものだったのかもしれない。あまりに鋭敏で、あまりに繊細で、使い方を知らなかっただけなのだ。両親の最期の感情を受け止めた今、楓は初めてその力の意味を理解した。
楓は静かに屋敷を後にした。夕陽が、古い住宅街を茜色に染めていた。世界は何も変わっていない。車が走り、人々が家路につく。しかし、楓の世界の見え方は、根底から覆っていた。
すれ違う人々の表情の奥に、微かな感情の揺らめきを感じる。それはもう、一方的に浴びせられる恐怖の奔流ではない。喜び、安らぎ、憂い、焦り。生きている人間が放つ、温かいノイズ。楓は初めて、その他人との繋がりを、恐ろしいものではなく、愛おしいものだと感じられた。
天牛堂に戻った楓は、サキの日記を丁寧に布で拭い、書棚の奥深くにそっとしまった。それはもう呪いのアイテムではなかった。悲しい愛の物語を綴ったエピタフ(墓碑銘)であり、楓自身を過去の呪縛から解放してくれた、大切な道標だった。
店の扉が開き、カラン、とベルが鳴った。入ってきたのは、本を探す一人の若い女性客だった。以前の楓なら、目を伏せてやり過ごしていただろう。だが、今の彼女は違った。
楓は、自然に顔を上げ、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
彼女の声は、もう震えていなかった。恐怖の残響が消えた世界で、楓の新しい物語が、静かに始まろうとしていた。